カエレカエレカエレ
走って瑠奈のアパートに辿り付くと、ピンポンを押した。
さっきまでいた居酒屋は、瑠奈のアパートから直ぐ近くの場所だった。普段からあの居酒屋へ行っていたのかもしれないのだが、そんなことも考えられないくらい僕は焦っていた……。
「帰って! バカバカ! どうせ文昭も私の体だけが目的なんでしょ!」
声が大きい――。周りに誰かいたら聞こえてもおかしくない。
「そんなことない――。だからこうして心配して来たんじゃないか――」
野神さんに酷いことを言われて、それが心配で――。それなのに……分からないのか?
人の心配や気持ちが伝わらないのだろうか……。
「――帰って!」
「いやだ」
開かないドア……。扉の向こう側でいつかのように、「カエレカエレ……」と呪文のように連呼するのが聞こえだすと、胸が苦しくなった。
財布の中には部屋の合鍵が入っているのに気付く。そして、先輩から渡されたコンドーム……。汗ばむ夏の夜に、まだ鳴き止まない蝉の声が聞こえてくると、額に汗がまた伝った。
……僕は……瑠奈の言う通りの、最低な男なのかもしれない。
「……今日は、ごめん。まさかあんなところで瑠奈に会うとは思ってなかったんだ。……でも僕は、瑠奈のことだけが好きだ。だから、許してくれ……」
すみれさんと一緒にいた僕の姿……楽しそうに見えたのかも知れない。
野神さんが言った噂。瑠奈はその噂のせいで、ずっと苦しんでいたのかも知れない。
カエレカエレと呟いているのが、蝉の声と同じように収まった――。
「……もう、誰も信じていないわ」
小さな声だった。涙の混じった……。
「……また……来てもいいか……な」
「……」
――カエレ――
その声を聞くと僕は、扉を背にしてゆっくりと歩き始めた……。
最寄り地下鉄の駅まで歩く途中、僕の気持ちは複雑に絡まってほどけない「綾取り」のようだった。時折通る車のヘッドライトが目に痛く差し込む。
年上のおっさん達と一緒に店に入って来た瑠奈。
僕のことに気付いても、わざと声を掛けてこなかった瑠奈。
野神さんの話を聞いていて、急に店を出ていった瑠奈。
扉に鍵を掛け、部屋に入れてくれなかった瑠奈。
もう誰も信じていないと言った瑠奈。
こんなにも瑠奈が好きなのに、歯を食いしばるほど悔しい気持ちで一杯なのは何故だ――。
飲んでいたお酒が、正しい判断を鈍らせる……。僕の気持ちを押し通しても、別に……構わないよな?
また来てもいいかと聞いた問、「来るな」とは……言わなかったよな。
一度立ち止まると、足が……勝手に引き返し、数十分後には瑠奈のアパートの前に戻ってきていた。
扉にロックは掛けられていなかった。合鍵でその扉は開いた。
――ガチャ。
部屋の中は真っ暗で、シャワーの音だけが聞こえる……。
――なにをやっているんだ僕は――これじゃ犯罪者じゃないか――!
だが、部屋の鍵を男なんかに渡しておいて、扉にロックを掛けていない瑠奈だって……悪い――。
僕だって……悪い――。この世にいる人間は、――すべて悪い人間ばかりだ。
――カチャ。浴室の扉が開き、シャワー室の薄明かりが暗い部屋の中に立つ僕の姿を足元から照らしだす。
同時に、光り輝く扉の中から、まるで天女が現れるような錯覚――。瑠奈の裸体は――息を飲むほどに美しく……持っていた合鍵をが床に落ちて一度跳ね上がった。
コロロン。
――!
悲鳴を上げるでもなく、体を隠すこともなく立ち尽くす瑠奈。胸も決して大きくはなく、どことなく幼さが残る体のラインが露わになった……。
「ご、ご、ごめん……」
それ以外の言葉が思い浮かばない。なのに、それと同時に込み上げてくる思いが押さえきれず……拭いてもいない濡れた瑠奈の体を強く抱きしめ――。
――無理やりキスをした。
……。
瑠奈は抵抗しなかった……。抵抗しても、男の力には勝てないと諦めたのだろうか。それとも、元から部屋の扉にロックを掛けていなかったのは……こうなることを期待していたのだろうか……。
――待っていたのか? 前に野神さんが言っていた通りに……。
片付けられて綺麗になっていた部屋。奥にあるベッドへ裸の瑠奈を押し倒すと、僕もTシャツを脱ぎ捨てて抱きしめた。瑠奈は……抵抗することなく、濡れた腕が僕の体を抱き返してくる――。
青い月明かりに浮かぶ瑠奈の表情がはっきりと見えない。……こんな僕のことをどう思っているのだろうか。
後悔するのだろうか……。
欲望と性欲に負けた情けない男の行為を――。




