悪い噂
一緒に夜を過ごせなかったことは残念だったが、合鍵を預かったことで僕は瑠奈と正式に付き合っているのを確信できた。
……まだキスもしていないけど、僕達は僕達のペースで恋愛を楽しんでいくんだ。そう自分に言い聞かせた。
月曜の朝になり、いつものように寮から工場へと出勤する途中、通用門を先に通る野神先輩の姿を見つけた。
「おはようございます野神さん、合鍵を受け取りましたよ」
駆け寄って後ろから声を掛けた。合鍵を受け取ったことで、正真正銘のカップルになったことを言いたくて言いたくてウズウズしていたのだ。
彼女の部屋の合鍵。それは、RPGゲームで言えば、「黄金の鍵」に等しい価値があるといっても過言ではない!
「お、おお……古河か」
心なしか普段よりも元気がなさそうだ。いつもなら「おお、よかったじゃねーか!」とか、「羨ましいぜ、それをよこせ!」とか言いながら、ヘッドロックしてきてもおかしくないハズなのに……。
仕事ですら一切悩んだりしないポジティブの塊のような野神先輩のことだから……ひょっとすると彼女と喧嘩でもしたのだろうか? だとしたら、あまり浮かれ過ぎていると機嫌を損なうかもしれない。
しばらく無言で一緒に歩いていると、ハアーっとため息を一つついてから話し始めた。
「俺が誘えって言っておいてなんだが、あの女は……やめとけ」
「え?」
あの女? 瑠奈のことなのだろうか。
立ち止まってこっちを向く先輩の表情はいつになく真顔だった。だから、昨日の楽しかったデートの話は僕の口を超えることはなかった。
「俺の彼女が友達に聞いた話だから信憑性はないかもしれねーんだが、
あの女。いい噂は聞かねーらしい」
――いい噂は聞かない?
……少し苛立ちを感じた。
折角楽しく付き合い始めた彼女のことを、そんな風に言われて楽しいはずがない。トントン拍子で恋愛が成就していく僕に対する嫉妬……というわけではなさそうなのが、より一層苛立ちをかき立てる。
「ミクスカスで働いているくせに、誰もそんなとこ見たことはないそうだ。それに、生活に困っていて夜な夜な変な仕事をしているらしい……」
僕の目をしっかり見て言う野神先輩は、その噂を信じている顔だった。
「は、ははは。ただの噂でしょ? 昔から歌にもあるじゃないですか。噂を信じたらあかんよ~って。ははは」
なんか、上手く笑えない。
「火のないところに煙は立たないって言うだろ。女同士のネットワークっていうのは、幾つになっても男が知る由もない話が飛び交っているもんだ」
「――やめてくださいよ!」
つい声が大きくなってしまい、他の社員が歩きながらこちらをチラ見する。
「瑠奈は、夜に出勤して夜にしかできない大変な仕事をやってるだけです。命綱までつけて――」
そんな必死に働いている瑠奈のことを、「変な仕事」と言いふらす女達の方こそ、よほど性格が悪い――。ひねくれている――。
だが先輩は僕の話を信じようとはしなかった。……それに、僕だって瑠奈が働いているところを……実際に見たわけじゃない……。
「とにかくだ――。俺はお前のためを思って言ったんだからな。付き合って別れたからって俺のせいにするんじゃねーぞ」
「するわけないでしょ」
まったく、いつもいつも一言多いんだから……。
それから野神さんとは彼女の話は一言もしないまま仕事に取り掛かった。
いい噂を聞かない……それって、悪い噂があるってことなのか……?
そんな噂話をどうこう考えたって……どうしようもないというのに……。
逆に僕が守ってあげたい――。守ってあげなきゃ――。
そのときは漠然とそう感じた……。
瑠奈と話をして真実を確かめたいと思った僕は、その日の夜に電話を掛けた。だが、一向に連絡は繋がらなかった……。会社の携帯電話なら仕事中だって持っているはずなのに……。何度掛けても通じなかった。
瑠奈だって、連絡を取ろうと思えば会社の携帯でなくても、公衆電話や会社の固定電話とかを使って、なんとか連絡する方法はあるはずなのに……。クソッ――。
男と女が付き合うのって、こんな関係なのだろうか……? もっと、こう、お互いのことが気になって仕方ないんじゃないのか? 通話ボタンをタッチするたびに、僕の想像を悪い方へと押し進める――。
本当に仕事中なのか?
夜中に着信に出れない境遇……。野神先輩の言っていた悪い噂が……気になって気になって仕方ない――。僕以外にも……同じような付き合っている男がいたとしても……考えかけて頭を振った。
もしそんな男がいたら、部屋の合鍵を預けたりはしないだろう。
彼女と出会う前までは、こんなことで少しも悩んだりせず、ゲームやネットに明け暮れていたのに、今はなにも手に付かないなんて……。
次の日の朝にも通話したが、瑠奈が出ることはなかった。仕事の最中に事故や何かがあったのかもしれないとは考えられなかった。先輩から聞いた噂のせいで……。
瑠奈からはまったく連絡してこない。朝も夜も電話を掛けても、まったく繋がらない。僕からの着信に気付いているのかすら分からなくなる。それとは逆に、気付いているのに放っておかれていると考えると……。何かが終わった感じがした。
何も始まっていないのに、終わった感……。
僕達……付き合っているのだろうか。一週間も連絡がつかないままだなんて……。
だんだん連絡するのが辛くなってきた。僕の着信には絶対に気付いているハズだ。それなのに未練タラタラで連絡し続けるのが恥ずかしい。
休みの日、直接会いに行って話をしようとも考えたが……。瑠奈から手渡されたキーホルダーの付いていない合鍵を、僕以外にも大勢の男が握っているように感じてしまい……。
ただ時間だけが流れた。
チクショウ――。
噂って、なんなんだよ――。