この先もずっと、僕の隣は君がいい
「レシオン、気がついているわね」
表情は笑顔を保ちつつも、氷のように冷たい声で姫は言った。
彼女が定期的に催す茶会。貴族の令嬢たちが交流を楽しむ中に、怪しい影が潜んでいる。
「数は2、3人といったところでしょうか。いずれもワーグ公爵令嬢との接触を確認いたしましたので、こちらで対処いたします。姫はできるだけ私の側を離れることなきよう」
「わかっているわ。……ワーグ嬢が自分の婚約者と恋仲を噂されているメルシア伯爵令嬢に手を出す機会を伺ってるとは聞いていたけれど、まさかこの私の茶会にこんなにわかりやすく刺客を送り込んでくるなんて……頭が不出来なのだから大人しくしていればいいのに」
姫が小さくため息を吐く。それでも表情はずっと完璧な微笑みを崩さないのだから流石だ。
「今日は長くなりそうね。……レシオン、貴方今日午後からは休みをとっていたでしょう。後は他の者に任せてもいいのよ」
姫は今日この一件にかたをつけるつもりらしい。王家とも血縁関係のある公爵令嬢が、嫉妬に狂って罪を犯すなどという醜聞はあってはならない。
「いいえ。このような時に姫の側を離れるわけにはいきませんので」
公爵令嬢側の刺客が今後何をしでかすかはわからない。姫に危害が及ぶ可能性が少しでもあるのなら、近衛騎士として護衛するのが務めである。
「そう。……貴方にも苦労をかけるわね」
「痛み入ります」
全てを察したように姫が呟いた。聡明なお方だ。姫が成人を迎え、王位を継承すればこの国も安泰だろう。
「でも、貴方の大事な婚約者に愛想を尽かされないよう上手くやるのよ、レシオン」
その言葉に、表情には出さないものの一瞬動揺してしまう。仕事仕事でどうにも会いに行く時間をつくってやれない婚約者の顔を思い浮かべ、「愛想を尽かされる」という言葉に苦々しい思いが胸につかえた。
「………最善を尽くします」
本当ならば、今日はこの後婚約者と結婚式のドレスを選ぶ約束だった。しかし近衛騎士としての仕事をおろそかにする訳にはいかない。彼女もきっとわかってくれている。
けれど、もし本当に愛想を尽かされてしまったら。
そんなことは考えたくもないが、「そんなことはありえない」と言い切る自信もなく、不甲斐ない自分に心の中で溜め息をついた。
婚約者のシンシリアはレシオン子爵家の治める領地で1番大きな商家の娘だ。彼女は自分のことを美しくないと卑下するけれど、僕から見れば彼女ほど愛らしい人間はいない。
彼女の父と僕の父であるレシオン子爵は妙に気が合うらしく、シンシリアは幼い頃からよく父親に連れられて屋敷にやって来て、僕と一緒に遊んだ。舌ったらずに「グレイさま」と僕を呼び、後ろにピッタリついてきた姿がいつも愛おしくて仕方がなかった。
いつか彼女と結婚するのだろう、と幼いながらに思った僕は、シンシリアに自分を「グレイ」と呼ぶように言った。代わりに僕はシンシリアをシンシーと愛称で呼ぶようになった。なんてことない特別が、僕にとっては何よりも幸せだった。
四男である僕は家を継ぐこともないため、三男の兄が目指すように騎士になろうと決めたのは自然なことだった。13歳で王城に騎士見習いとして入った僕は、騎士寮で生活を始める。長期の休みがもらえたなら実家へ戻り、シンシリアとの時間を可能な限りとった。
「シンシー、こっちを向いて」
数少ない趣味の一つであるスケッチでは、いつも彼女をモデルに描いた。笑った顔、脹れた顔、照れる顔、安心した顔、時には寝顔まで。彼女ならずっと見つめていても飽きないだろう。
正式に騎士になったのは、騎士見習いになった時から5年が経った頃。18歳。自分でもそれなりに剣の腕は立つという自信があったし、そのための努力は惜しまなかった。シンシリアとの婚約が正式に決まったのもこの時期だ。
この頃、宮廷の侍女や使用人の娘から声かけられる機会が増えていた。騎士の友人はそれを茶化したが、僕はいつも彼女たちを見ては同じ年頃であるシンシリアの顔を思い出して、彼女に会いたいと思っていた。
愛おしい君は今頃何を思っているのだろう。
レシオン子爵家の四男宛にも、時々舞踏会の招待状が届いた。父の顔を立てるためにも、招待された舞踏会は全て参加した。婚約者であるシンシリアも僕のパートナーとして同行するので、ドレスや靴、小物などをプレゼントした。僕の贈ったものに彩られる彼女はとても美しく、そしてその姿を見ると満たされた気持ちになる。
「よく似合ってる。綺麗だよ、シンシー」
僕がそう告げると、彼女が恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうにはにかむ。僕はその表情を見るのが好きだった。とてもとても幸せだった。
20歳になると、僕は王女の近衛騎士に任命された。とても名誉なことではあるものの、大きな責任がついてまわる仕事だ。それになにより彼女との時間がこれまでよりさらに取りづらくなるだろう。
心のどこかで、それを不満に思っていた。
「貴方、私の騎士という立場に不服そうね」
姫と初めて顔を合わせた時、開口一番にそう言われた。図星であったために心臓が大きく跳ねる。けれど肯定するわけにもいかず、丁寧に否定の言葉を紡ぐ。
「そのようなことは決してありません、姫」
「ふうん。ま、貴方が婚約者に捨てられないよう配慮してあげてもよくってよ」
姫が恐ろしいほど美しい顔で不敵に微笑む。僕の素性を徹底的に調べ上げでもしたのだろうか。痛いところをつかれ、思わず苦笑した。
「……随分とお詳しいのですね」
「側に置く人間の事を調べるなんて常識よ」
ふふん、と勝ち誇ったような姫の表情。この時からずっと、僕はこの主人に頭が上がらない。
姫は聡明な人だ。常にこの国の事を想い、行動する。
主君として尊敬しているが、配慮すると言う割にずいぶんと人使いが荒い。
姫の趣味は暗躍である。実際に行動するのは我々なので、どんどん仕事は溜まっていくのだが……。
「レシオン、貴方は馬鹿真面目に仕事をし過ぎなんですよ。これで何連勤目ですか?」
「正直数えたくもない……」
王城の渡り廊下ですれ違った後輩、ルシウス・ウィットが僕の顔を見て顔を顰めた。この時僕の目元にはくっきりと濃いクマができていて、それが見るに耐えなかったのだという。
「今の貴方になら勝てる気がします。これから練習試合でもどうですか?」
「勘弁してくれ」
冗談です、と人懐っこい笑みを浮かべるウィットは近衛騎士騎士の中でも最年少ながら優秀な人間で、今は姫の従姉妹であるダリア様の護衛についている。正直、ベストな状態であったとしても彼に勝つのは容易ではない。
「それじゃあ例の婚約者さんのことも、相変わらず放ったらかしですか?」
痛いところをつかれ、ぐっと言葉に詰まった。
最後に彼女の顔を見たのはいつの事だったか。
「………手紙は出せる時にいくつか」
苦し紛れに唸りながら呟く。仕事の合間に書いた業務連絡のような面白みのない手紙。彼女はいつもすぐに返事を出してくれるのに、僕はいつも遅れてしまう。そのくせ顔も見に帰れない。
「あーあ、大丈夫かなぁ、そんなんで。この間城下町でこんなのを見つけましたよ。せっかくなので差し上げます」
呆れたように肩を落としながら、ウイットは何枚かの紙切れを僕に差し出した。
「これは……………………姫と……私?」
それは僕と姫が並んで描かれた版画だった。
「なぜこんなものが出回っているんだ」
「知らないんですか? 巷じゃ今、貴方と姫様の恋物語が大流行してるんですよ。お2人がモデルのロマンス小説もあるとか」
「まあよく知らないんですけど」と呟くウイットを前に、顔からサアと血の気が引いた。
「そんな事実はない!」
「そうでしょうねえ。そんな事実があればとっくに僕の耳にも入っています」
「なぜ取り締まらないんだ。こんなものは姫への侮辱だ。不敬極まりない」
「その姫様が目を瞑っておられるのでしょう。あの方は国民の娯楽に寛容でいらっしゃる」
知らなかった。まさか自分の知らないところで、こんな風に自分が扱われているなんて。好き勝手に自分の私生活を捏造されるのさあまりいい気分がしない。
それに、なにより……
「シンシリアは……知っているのだろうか」
彼女がこんなふざけた噂話を簡単に信じるとは思えない。それでも、少しでも誤解を与えてしまっていたら。それが何より恐ろしかった。
「さあ。そんなのは俺の知ったこっちゃないですけど。まあ少ないなりにお二人の時間を大切にされてはどうです? まさか、二人でいるときに仕事なんてしてませんよね?」
……している。どうしても仕事が終わらないときは、彼女を待たせて机に向かっている。彼女は文句も言わずに、ただ約束の時間にやってきて僕の仕事が終わるのを待っていた。
「あーあ。俺、どうなっても知りませんからね」
否定の言葉も出せず俯く僕の姿を見て全てを察した後輩は、そう捨て台詞を口にして去っていった。ウィットを見送って、暫しその場に立ち尽くす。
…………次に彼女に会う予定は、再来週。結婚式のドレスを一緒に選ぶ約束をしている。
その日だけは何としても死守せねば。既に休みは申請してあるものの、他の仕事も先回りしてこなしてしまおう。
会えたらすぐに彼女にあらぬ誤解をされていないか確かめて、それと、ただ単純に彼女を抱きしめたいと思った。
……それなのに、今日という日に限ってなぜこんな面倒なことが起こるのか。
姫の茶会は午前中でお開きとなり、すぐにでも僕は彼女のもとへ向かう事ができたはずなのに。あの高飛車で頭の弱い公爵令嬢の連れてきた厄介ごとは、とてつもなく面倒だった。なにせ相手は、あの公爵令嬢の連れである。向こうがメルシア嬢に何かしらアクションを起こさない限りは、こちらも迂闊に手を出すことはできない。
なぜよりによって姫の茶会でなのか。
なぜよりによって今日なのか。
ふつふつと怒りが込み上げてくるのが自分でもわかったが、近衛騎士として取り乱すことなどできない。
苛立ちが悟られぬよう淡々と部下に指示を出していると、困った顔をしたウィットがこちらに駆け寄ってきた。
「殺気が駄々洩れてますよ。気持ちはわかりますが公私混同はやめてください。貴方らしくもない」
わかっている、と返事をしたが、ウィットは「わかってないじゃないですかぁ」と情けない声を上げる。
「姫の茶会でこのような企ては許されることではない」
「絶対それだけじゃないですよね。有休潰されたことへの恨みつらみも籠ってますよねそれ?!…………まあ、同情はしますよ。手短に終わらせましょう」
ああ、と短く返事し、遠くで高笑う公爵令嬢を見やる。
公爵令嬢の連れが毒薬を所持していることが発覚し、全員を捕らえることができるまであと三時間。事が収まり、全ての仕事を終えシンシリアの元へ駆けつけられるまで、あと―――――
……
結局、彼女の屋敷にたどり着いたのは日が沈んでからだった。馬をとばし慌てて屋敷の戸を叩くと、出迎えた執事がシンシリアは部屋にいると告げた。夕食にも顔を出していないらしい。声をかけても、返事がなかったのだという。
「どうか、彼女に謝らせてください」
そう言って頭を下げると、屋敷の主人は一瞬躊躇いつつも僕をシンシリアの部屋へ通した。いくら幼馴染の婚約者とはいえ、こんな夜更けに男を娘の部屋へ入れたくはなかっただろうに?
子供の頃、何度か彼女の部屋で遊んだことがある。彼女のお気に入りの絵本を読んだり、人形遊びにも付き合った。僕の屋敷に来た時の彼女は、やはりどこか緊張していて動きもぎこちなく、怯えたように僕から離れたがらなかった。その様子は確かに庇護欲をそそられたが、実家にいるときの彼女はいつも自然体でニコニコと笑っていて、楽しそうにはしゃぐ彼女もまた可愛らしかった。いつか結婚したらずっとシンシリアがこうして笑っていられるような家庭にしたいと子供ながらに思っていたのを覚えている。
「……シンシー、入るよ」
ノックの後にそう声をかけるが、やはり返事はない。そおっとドアを開けると、部屋の中は明かりがついておらず真っ暗だった。窓から差し込む月明かりを頼りにベッドに近づくと、倒れこむようにして彼女が小さく寝息をたてている。
子供の頃から変わらないその寝顔がどうにも愛おしく、僕はそっと彼女の頬を撫でた。
「シンシー」
小さく名前を囁く。
ああ、彼女の隣にいるだけで、どうしてこんなにも穏やかな気持ちになれるのだろう。
「シンシー」
もう一度囁くと、彼女の瞼がゆっくりと開かれる。
「……グレイ」
彼女が掠れた声で僕の名前を呼ぶ。答えるようにゆっくりと、優しく彼女の頭を撫でた。
「なんだいシンシー」
僕が答えると、彼女は嬉しそうにふにゃりと笑って言った。
「グレイ、大好きよ」
その言葉が、心にじんわりと溶けてゆく。あまりにも幸せで、思わず目を細めた。
彼女は微睡に浸かりながら、ぽつりぽつりと言葉を吐く。
「私は、貴方と一緒にいられるだけでうれしいの」
「隣にいられるだけで幸せなの」
もちろん、僕だって同じ気持ちだ。
「でもだめね。最近、私とっても欲張りなのよ」
「私がずっとあなたに会いたいと思っているのに、姫様がずっとあなたのそばにいられるのが悔しいの」
寂しい思いをさせている。寂しさだけじゃない。きっと辛い思いだってたくさんさせているし、そんな彼女に寄り添ってやることだってできていない。
彼女に対する申し訳なさと自分の不甲斐なさを痛感するも、彼女がそんな気持ちでいてくれるのがどうしても嬉しくて笑みがこぼれる。
「ねえ、グレイ」
彼女の瞼が閉じられると、一筋の涙が丸い頬を伝った。
「ずっとそばにいてね。約束よ」
彼女の涙を指先で掬い上げながら、「ああ」と返事をする。
「あなたは私のものなんだから」
そのとおりさ、と小さく頬をつついた。
「私は、ずっとあなただけだから」
「約束よ」
「あいしてるわ、ぐれい」
そう言うと、シンシリアはまた小さく寝息を立て始めた。その小さな音すらも、僕にとっては幸福そのものだ。
込み上げる愛おしさを込めて、僕はそっと囁いた。
「ああ、約束する。愛しているよ、僕だけのシンシー」
自己満足で「彼が私を捨てるまで、私は彼につくしましょう」の彼視点のお話を書いてみました。殴り書きですみません。