5.妄執
豪奢な安楽椅子に座ったまま、頬のこけた老人が虚空を見つめている。薄暗い部屋を満たすのは独特の尖った草の香りと、甘ったるい匂い。銀色の煙管を手に持ったまま、口を半開きにした皺だらけの男は動かない。時折顔を掻きむしるせいか、額は細かい傷に覆われており、つやのない白髪もひどく乱れていた。どこかぼんやりとして、けれどせわしなく痩せ細った両足を揺するその姿は、ひどく奇妙である。甲高い音を立て、煙管が床に落ちる。老人はそれを気に留める様子もなく、ただ己の世界に入り込んでいた。
ここはどこだろう。もう随分長いこと、こうしているような気がする。疲れたような顔をして男は、ゆっくりと目を閉じる。世界は静寂に包まれていた。男は一人、とろりとした安寧の中を揺蕩っている。疑問を捨て、胎児のように手足を丸めてゆく。さあ憂いのない世界へ。繭に包まれたさなぎのように、男はただ穏やかな夢を所望する。
ゆらり、翡翠色の瞳が見えた。あれは誰であっただろうか。霧のようなもやに包まれて、老人はひどくもどかしい。姿形もはっきり特定できないような中で、きらめく双眸だけが確認できるなんておかしな話である。けれど、老人はその奇妙さをごく当たり前のように受け止めていた。今まで部屋の中にいたはずだというのに、足元は夏草に覆われ、木漏れ日がきらめく。いつの間にか、老人は懐かしい森の中にいた。義姉上……。男の声帯は、酷くしわがれた声を出した。
泉のように色を変える双眸は、今は凪のように穏やかだ。男は思い出す。兄とともに、女に出会った懐かしいあの日を。先ほどまで背を丸め、枯れ木のようにかさつき痩せ細っていたはずの男は、今は逞しい青年の姿だ。あの日、兄と弟は同時に恋に落ちた。森の泉に棲む妖精のように、清らかで美しい女。光の加減で、青にも緑にも見える瞳が印象的だった。日の光を溶かしたような、金の髪がさらりと風になびいていた。
兄を選んだ彼女のことを恨んだことなど一度たりとてない。文武に優れ、人格者でもあった兄は、確かに王の器を備えていた。ただ今でもぼんやりと考えてしまうのだ。王妃ではなく、ただ王弟の妻であったならば、彼女は今もまだこの世で笑っていたのではないだろうかと。
貴族ではない女との結婚を誰もが皆反対した。金がないと世は回らぬが、金貸しはただそれだけで忌避される。それ故至極当然だったのだ、金貸しの娘など言語道断だと一蹴されるのは。側室を大勢持つ東国ならばともかく、妻はただ一人の西国。もともと王家に連なる家に生まれた女だけが、王家に嫁いできた。
悲恋に終わるかと思われた二人の出会いは、弟の機転によってその結末を変える。反対されていた婚姻が、突然公に認められたのは、幻月王の故事にうまくなぞらえたからだ。それでも実家を捨てる形となったことを、女は後悔してはいなかっただろうか。
男にとっては月はただの月。たった一つの月が三つに見えようが、百に見えようがどうでも良い。正直なところ、増えた月の幻よりも、夜道で方向を指し示す北極星の方がよほど大事だ。けれど戦を行う武人だからこそ、またよく理解できるのだ。始祖王の二つ名になったその「幻月」の影響力の強さを。戦いの場では、心の在り方ひとつで、勝敗が決することもあるのだと、男は身をもって知っていた。
始祖王を利用した罰が当たったのだろうか。女を守りきれなかった兄と己の不甲斐なさに息が詰まりそうになる。思い出はいつも蜜のように甘く、そのくせ小さな棘が絶え間なく刺さるのだ。
霧が濃くなる。ぐらりと世界が変わる。ああ、体がゆらゆらと揺れる。男は、自分の体がふわふわと宙を彷徨っているようなそんな頼りなさを覚える。或いは、魂だけが身体を抜け出してしまったのかもしれぬ。どこか天高いところから、男は辺りを見下ろした。
きらきらと宝石のように、女の瞳がきらめいてた。兄と婚約が決まった時、女は空色の紗の正装を身にまとい笑っていた。結婚式を挙げた時、純白の花嫁衣装の裾を妖精のように軽やかにひるがえし歩いていた。待ちに待った子どもを身ごもった時、ふっくらとした頬にえくぼを浮かべながら、少しだけ膨らんだ腹を愛おしそうに撫でていた。幸せの絶頂だったあの頃。よく義姉は、こんな目をしていた。
夏草に覆われてい高い森は、王城の中庭に変わっている。ぼんやりと霧に覆われた風景は相変わらずだというのに、不思議なことに男にはここがどこなのかよくわかるのだ。
ずっとこんな日々が続けばいいと、それだけを願うほど愛していた。いつまで経っても独り身を貫く弟に、困ったように縁談を勧めてくる兄。いつまでも実らぬ恋に身を焦がす弟を哀れに思っていたのか、それともいつか奪われるのではないかと恐れていたのか。結局のところ、女を連れ去ったのは残酷な運命であるが。
男の気持ちを知らないがゆえに、いつかきっと大切な人が見つかると笑った義姉。けれど、自分にとっていつか娶る妻も、将来生まれる子どもも、恐らく義姉以上の存在にはなり得ないだろうと男は確信していた。家のために、結婚したところできっとほころびが生じるだろう。ならば、義姉の傍にただいたい。小さな望みだけを大切にしてきたのだ。
霧が色を変えた。白い靄に包まれていたはずが、少しずつとろりとした闇が押し寄せてくる。自分の手足もよく見えないというのに、なぜか女の目だけは未だによく見えるのだ。身体が酷く重い。渓流で軽やかに浮いていたからだが、陸に上がった途端に急に重く持て余してしまうように、男は己の身体に戸惑う。身体の軸が定まらずに、ふらふらと崩れてゆく。
女の瞳が、不意に陰りを帯びた。男の姿は、青年からまた少し歳を重ねる。ああ、この瞳にも覚えがある。義姉が赤子を産んでから見せるようになった顔だ。幻月に祝福されて誕生した赤子は、何と女であった。いつか男児が生まれるであろうと男は楽観的に捉えていた。それよりも、生まれたばかりの赤子は猿のようだと聞いていたのに、ちらりと見えた姪の顔がひどく整っていたことに驚いた。
母親譲りの輝く瞳に、自分と同じ黒い髪。それは兄と同じ黒髪でもあったのだが、男は家族の輪の中に入らせてもらったようでひどく嬉しかったのを覚えている。薄氷の上を歩いていることすら気づかずに、自分はただ、目の前の新しい命に浮かれていたのだ。
辺りはとっぷりと闇に飲まれていた。翡翠色の瞳が、ひどく澱んでいる。嵐の後の泉のように、濁った泥水のような色。男はずぶずぶと足元が沈んでいくのを感じる。ああ、この色も覚えている。男は体を引き裂かれるような痛みを覚えた。いや本当に手足が外れてどこかへ行ってしまったのかもしれない。
これは愛しい女が、息をひきとるその前に見せてくれたものだ。もう何も見えていないだろう女が、必死に我が子の名前を呼んでいた。そして最後の力を振り絞って、男の手を掴んだのだ。どうかこの子をと、ただ我が子を案じて冷たくなっていった女の願いを、男は忠実に守り続けた。気を失いそうになって、女によく似た、けれど全く異なる翡翠の光を見つけた。ああ、これは姪の瞳だ。途切れかけた意識が浮上する。
年若い国王のことを、男は愛していた。あくまでも可愛い姪としてだが。
姪は、大切な義姉の忘れ形見だ。男が妻に娶ることは叶わなかった女。けれど、尊敬する兄の横で女が微笑んでいてくれるなら、男は十分に幸せだと本気で思っていたほど愛していた。
だからこそ男は心から姪を大切に思っていた。いつか天の国で義姉に巡り会えたなら、立派に育て上げた姪のことを語り合いたかった。姪がそばにいてくれたなら、男は生涯結婚するつもりなどなかったのだ。あれはどうも王位を自分に譲りたいと思っていたようだが、それには及ばぬ。男の心は、天に召された義姉に捧げられていたのだから。姪が立派な王になることこそが男の望みだった。
見慣れぬ東国人の男を姪が取り立てた時、男は叔父として猛反対したのだ。けれどすでに東国人の男は、姪にとって必要不可欠な存在になっていた。叔父である男にでさえ、見たことのないような柔らかな微笑みを見せる姪を見て、男は悟ったのだ。姪が必要としているのは自分ではなく、あの東国人だということに。
そこで生じたのは、強烈な怒りと嫌悪感だった。姪は今、誤った道へ進もうとしている。親代わりとして、自分はそれを正さねばならぬ。そして時には、躾も仕置きも必要なのだ。姪はまだまだ子どもなのだから。
男を取り巻く世界は、もはや母の胎の中のような安らかな場所では無い。そこにあるのは、燃えたぎるような怒りの感情。何処からか黒く捻れた大量の腕が生えてくる。嬉しそうに男の身体を掴むと、そのまま何処へか連れ去ってゆく。散り散りになる思考、それでもなお残る憎しみ。
あの忌々しい東国人の男。あれさえ現れなければ、姪は姪のままであったのに。男の脳裏からは、東国人が姪の命を救ったことなど記憶されていない。むしろ、東国人が姪の命を、そして西国そのものを狙っているのだと、異常なほど警戒していた。思考が、認識が、少しずつ歪んでゆく。
怒りと寂しさでぽっかりと胸に穴が空いた自分が、とある場所で出会ったか弱い母子を庇護したのは当然の成り行きだったのだ。男は一人納得する。不自然な出会いを忘れるように。空の巣を一人で守ることはできなかった。住むものがいなければ、巣は所詮がらくたの集まりでしかないのだから。
女として愛してやることはできずとも、支えになれることに喜びを覚えた。連れ子のいる未亡人は、義姉に似た瞳の色をしている儚げな女性だった。大切そうに幼子を世話するその姿は、遠い昔に見た義姉と姪の姿によく似ていた。そして、あの二人は教えてくれた。どうすれば、もとの可愛い姪に戻るのかを。少しばかり姪には不自由をさせるが、仕方がない。大丈夫。幸せはすぐまた手元に帰ってくる。姪もまた正しい道を歩んで行ける。あの二人を保護したのは、やはり間違いなどではなかったのだ。
男は、記憶が曖昧になったことにも気づかない。時々自分がどこにいるのかわからなくなったのに、その記憶すらあやふやになるからだ。日付や時間の感覚も少しずつ失っている。思考は支離滅裂で、突然湧き上がる衝動を抑えることができない。けれど時たま意識が浮上するときもある。そしていつも不思議に思うのだ。なぜ自分はここにいるのだろうかと。
ふと男は、己の手を見つめる。はて、自分はいつの間にこんなに年をとったのか。つい先日まで、壮年の武将として剣を振るっていたような気がしていたのは、気のせいだっただろうか。顔を触ってみれば、掌と同じくたるんだ皮膚。やはり自分は気づかぬうちに老人になってしまったらしい。
そんな些細なことがひどくおかしくて、男はくぐもった笑い声を立てた。男の声に呼ばれたかのように、部屋の香りが強くなる。いつの間にか拾い上げられていた煙管に、男はゆっくりと口をつけた。疑問に思うこともなく、白い煙が、ゆらゆらと揺らめいて男の意識はとろりと溶けていく。
怒りは解け、けれど急速に世界が昏くなる。世界は、うねうねと黒い蛇のように男の身体を飲み込んで行く。食い千切られているというのに、血は流れず、けれど鈍痛が身体中を蝕むのだ。
先ほどまで男を厳しく非難していた翡翠色の瞳は、今はただ悲しそうに見えた。何が貴女をそれほど煩わせるのかと聞きたくて、けれど男の意識はすぐに霧散する。自分は何を考えていたのだろうか。何も思い出せぬ。ただ酷く疲れを感じていて、男はぐったりと四肢を投げ出した。口に咥えたままの煙管が、またゆっくりと下に落ちてゆく。くるりくるりと酷くゆっくりと落ちていく様を、男は不思議そうに眺めていた。
西国の年若い国王の叔父は、ぼんやりとした眼差しで宙を見つめている。部屋の外が騒がしいが、男の耳にその喧騒は入らない。男の世界と、外の世界ははひどく遠い。老人は椅子に深く腰掛けたまま、なぜか酷く重たくて動かない足を見つめてみる。地面に張り付いたような両足を抱えて、男は嘆息した。
労わるように、男の手を握る誰かがいる。美しい瞳をした女と、女に瓜二つの小さな子ども。誰だかわからぬその二人は、何だかとても愛おしく思えて老人は嬉しそうに笑った。