3.羨望
香梅は、大陸の果てにあるという故郷を知らない。ただ微かに覚えているのは遠い空できらめく星空と乾いた風の匂いだけ。
腰まである長い黒髪を艶やかに結いあげた女が、銀色の煙管から口を離した。ゆらりと紫煙が揺れる。甘い草いきれのような香りがそっと部屋に広がった。星が見たい。不意に思いついて、小さな格子窓を開ければ、橙色をした家の明かりがゆらゆらと揺らめいている。じっとりと水分を含んだ風が吹き付け、霧の中で烟る明かりが形を変えた。
霧の街じゃ星空も見えやしない。女は頬杖をつきながら、仕方なさそうにまた煙管に口をつけた。秋を告げる金木犀の香りが、ふわりと流れ込んでくる。もともと西国にはない花だが、東国を懐かしんだ誰かが東国街に植えたものらしい。
東国出身の両親は、新天地を求めてこの西国にやってきた。幼な子だった小さな香梅を連れて、砂漠を超え、草原を抜けて遠路遥々やってきたのだ。けれど大きな夢を抱えて移り住んだこの西国での暮らし向きは、残念ながら非常に厳しいものだった。東国のすべてを投げ打って出てきたというのに、その苦労に見合うものは何一つ得られなかった。西国語もわからず、この国の常識もない異邦人。日銭を稼ぐのがやっとの中、弟や妹が産まれたのも良くなかった。
結局小さな香梅は、西国に来ていくらも経たないうちに東国街の色街に売られた。東国出身の人間が集まる街。東国語しか話せない者でも、どうにか生きていける不思議な世界。まるで小さな東国そのもの。それからずっと彼女はここにいる。この小さな世界が、彼女の全てだ。幼な子から少女になり、今では美しい女になった。そしてきっと老婆になって枝のように身体が枯れ果てるまで、きっと自分はここで暮らすのだと女にはわかっていた。この世界から足を洗うのは難しい。よしんば抜けられたとしても、この世界しか知らない人間が外の世界に馴染むのは難しかろう。
いくら部屋の中が暑いとはいえ、秋の夜長に窓を開けたのが良くなかったのだろうか。女は急に寒気を覚えた。ひとつ身震いすると、慌てて窓を閉める。今着ているのは東国の伝統的な衣装だ。身体の線が上手い具合に隠された服は、そのくせ西国風に肩と胸元だけむき出しにはだけていて、女の豊かな胸が溢れんばかりだ。それが生粋の東国人にも、西国の殿方にも受けが良いらしい。
今では西国随一の美姫が集まると評判のこの色街だが、少しばかり毛色の変わった女を抱きたいだけだろうと女はこっそり毒づいた。女を誉めそやした男たちとて、どうせ家に帰れば、貞淑な西国人の奥方が待っているのだから。
そんな鬱屈とした場所にいたせいでひねくれてしまったのだろうか、女はことさらに他人の秘密を集めるのが好きだった。西国のお偉方の誰某が実は鬘を被っている、借金がある、子宝に恵まれない、隠し子がいる、養子を迎えた、新しい商売を始めた、うまい儲け話がある、こんな性癖がある、土地を失った、間男に奥方を寝取られた……自分の元に集まってくるいろいろな小さな秘密をこっそりと並べてみるのだ。
他人の秘密は飴玉のように甘い味。店に来る客たちは代わる代わる女に、『ここだけの秘密』とやらを話してくれる。秘密を一人で抱えていることは難しく、誰かと共有したい。とはいえ何処の馬の骨とも知らぬ輩に弱みは見せられぬ。だからこんな店に居る女はうってつけの存在なのだ。芸を磨き、話術に優れた女たちは、小賢しくもなく、さりとて暗愚でもなく、男たちが望むような応えを返してくれる。だから男たちは、女に秘密を預けるのだ。笑いが出るほど無防備に。
女は不思議に思う。東国人の顔立ちをしているからだろうか。それともここが外と区切られた色街だからだろうが。男たちが安心しきって、国の中枢に関わることまでぽろぽろと零していくのは。ひとつひとつは小さな秘密たち。蜻蛉玉のように色とりどりのそれらは、眺めているだけでも面白い。さらに並べて繋げてみれば、それは万華鏡のようにまた違う様相を見せてくれて女を楽しませた。それを女は今まで一人で楽しんでいた。ついこの間までは。女はちらりと横目で見つめた。
目の前の客は、襟を緩め寛いだように何やら手紙を読んでいる。だらしないと言われかねない格好にもかかわらず、様になっているのはこの男の精悍さゆえだろうか。内密にしておきたい話を娼館の中で行うことは珍しくはない。間抜けな貴族の屋敷よりも、この店の警備はしっかりしている。それこそ蟻一匹たりとて、見逃しはしないだろう。
何よりこの街は東国街。同じ東国の血が流れる者でしたたかにつくられたこの街を、彼らは何よりも大切にしているのだ。男はこの街を殊の外信用しているようだった。そして女が集めた色とりどりの蜻蛉玉のような秘密は、男が仕事上探しているものだったらしい。女は他の客の秘密をちらつかせて、この男を店に呼びつけていた。
目の前の男は、いつも通りこちらを見ることはない。男が動くかどうかを決めるのは、男の主人の利になるかどうか、ただそれだけである。だから女は、集めた秘密を小出しに男に見せてやるしかないのだ。少しでも男が足繁く通ってくれるように。その間だけでも自分のことを考えてくれるように。自分だけを見つめてくれるように。そうやってしか男の気を引けない自分が不甲斐ない。
女は鏡台から、玉虫色に輝く紅を取り出した。男は度々、こんな舶来品を店の女たちに寄越すのだ。嫌味もなく、見返りも要求しない。それで自分に気があるのだと勘違いする店の女もいたが、香梅にはわかっていた。これは目的ではなく、手段なのだと。自分たちに何かを渡すという理由をわざわざつけてまで、何かを贈りたい本命がいるのだと。
男は未だ視線を下に落としたままだ。男の瞳を見た店の女たちは、決まってこう囁く。あれは東国に棲むという龍の瞳と同じだと。小さな頃に故郷を出た香梅には、その比喩がわからない。東国街にも龍をかたどったものは存在するけれど、男の瞳はそんなものとは全く異なって見えた。一番似ているものは、記憶の奥底にある故郷を出る時に見た星空だ。とりわけ明けの明星のあの強い輝きは、男の強い意志を秘めた瞳に重なって見えた。故郷のない女にとって、男は故郷そのものだ。涙が出るほど懐かしく、恋い焦がれるほどに遠きもの。
たとえそうであっても……と女は苛々しながら爪を噛む。せっかく丁寧に爪紅をつけたというのに、こんな風にしてしまっては台無しだ。けれどそれなりに名を馳せた自分をまるきり無視されては、爪くらい噛みたくなるというもの。男というものは、目の前に美しい女がいれば手を出さずにはいられない生き物のはずなのだ。特に香梅のように、若く匂い立つような美女であれば尚更だ。
それなのにこの男は、香梅を抱くどころか口付け一つよこさない。いくら金払いが良かろうが、気に食わない。相手にされないことが悔しくてたまらないのだ。わかっていることとはいえ、自分ばかり熱を上げているなんておかしな話ではないか。
不意に彼女は、白い肌をした黒髪の『若様』を思い出していた。自分や目の前の男のような象牙色ではない、西国ならではの白磁の肌をした麗人。あの妙に男臭さのない麗人を、目の前の男は殊の外大切にしていた。もちろん商家の『若様』などではなく、もっとずっと高貴な目も眩むような身分の人間なのだと承知している。言わずとも知ることが、この街に住む女の技量である。けれど、その『若様』が明らさまに自分たちを軽んじるような節があれば、身分を知らぬふりをして適当にいたぶってやろうかとも思っていたのだ。ところが『若様』は思った以上に邪気がなく、毒気はすっかり抜かれてしまった。むしろあれでやっていけるのかと心配した女は自分だけではなかったはずだ。
度々この男についてきては女を抱くこともなく、茶を飲んだり、楽器を爪弾いたりする。東国の二胡を見たことがなかったのか、物珍しそうに触ってみた挙句、蛇皮が使われていることに驚いて声をあげるような可愛いねんねの坊やだ。必死に練習しているのを見て、多少は聞けるようになったとその腕前を褒めてやれば心底嬉しそうに笑う。鉄面皮のような顔をしているくせに、一度心を許せば別人のように顔をほころばせて笑うなんてずるいではないか。妙にいじらしく感じて、つい可愛がってしまう己が憎い。
『若様』も娼館が何をするところかわかっているだろうに、何を毎回のこのこついてきているのか。店の女が男にちょっかいを出すと、明らかに『若様』の機嫌が悪くなることに目の前の客が気づいていないことが本当に不思議でならない。そもそもそれならばなぜ、こんな場所にこの男を無防備に放つのだ。確かに情報を餌に男に誘いをかける女が言えた義理ではないが。あるいは男の忠犬ぶりを試しているということか。ここには自分以外にも、舌なめずりをして男を狙っている女たちがたくさんいるのだ。
女は悪戯めいて、柔らかな双丘を男の背に押し付けた。ところが男は後ろも振り向かずにあっさりとその手をほどいて、女を離れた場所に押しやってしまうのだ。女は手持ち無沙汰で、ふくれっ面のまま仕事に没頭する男の髪を弄ぶ。あの『若様』といる時には、それはそれは愉しそうに揺れる犬の尻尾のような赤茶けた髪は、今はただ、だらりと背に流されている。高く結ってみたり、編み込んだりしてみれば、鬱陶しかったのだろうか軽く男に睨まれてしまった。
この時ばかりは、店で飼われている猫の気持ちがわかるというもの。忙しい時に限って足元にすり寄ってきたり、大事な品に爪を立てたりするあの気まぐれな白い猫。つれなくするほどしつこくまとわりつかれるのは、あの猫も今の自分と同じような気持ちなのだろうか。一方通行の切ない恋心。
女は仕方なく、また煙管を手に取った。先ほど吸ったものではない、煙草の葉を用意する。先日来た客が置いていったものだ。どこから手に入れたのか、ここ最近お貴族様の間で人気の品なのだという。憂鬱な時に吸えば、気持ちが明るくなるのだとあの軽薄そうな商人は言っていたがどうであろうか。話半分に聞きながら、女は煙草を詰めた煙管に火をつける。
いつもの馴染みの味とは違う、なんとも言えない香り。独特の尖った草の香りと甘ったるさが妙に鼻に付く。不思議に思いながらも口をつけようとした女の腕を、男が強く引き止めた。そのままぐいっと男の腕に抱かれ、女は思わず笑みを浮かべる。ところが、男のお目当は煙管の中身だったようで女は心底がっかりする。わかっているのだ、こういう男だということは。それにもかかわらず、毎度期待する自分が馬鹿なのだ。
男は真剣な眼差しで、煙管の中身を改めている。どうやら今追いかけている王都のきな臭い話と関係があるらしい。矢継ぎ早に煙管の中身について聞かれ、女はにやりと笑った。ぺろりと唇を舐める仕草が淫靡である。明日の夜もお店に来てくれたなら、その時に。上目遣いでねだる女の誘いに、男は仕方なさそうに諾と答えた。
ものは試しにと寝台に誘ってみれば、男は黙って帰り支度を始めた。何と口惜しいことか。自分だって『若様』と同じ黒髪ではないか。むしろこの豊かな体つきも含めて、女としての価値は勝っているとも言える。白粉と煙草の香りが染み込んだ髪をかきあげて、女は唇を噛む。そんなにあの『若様』が良いのか。女は寝台で不貞寝しようかと考え、けれど渋々男を見送りに出かけた。『若様』以外の競争相手にみすみす男をくれてやるほど、女は阿呆ではないのだ。
けれど、それでもたまには故郷の風の匂いがする男に抱かれたい夜もあるのだ。意趣返しにこっそりと男の襟元に唇をつけておいた。先ほどたっぷりと鮮やかな紅をさしておいたのだ、きっと例の『若様』の目にも留まってくれることだろう。今夜どんな騒動が起きるのか思い浮かべて、女は密かに溜飲を下げたのだった。男と女と不男不女。縁は絡み縺れてゆく。
何処かで猫が、笑うように一声短く鳴いた。





