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「ぐぅっ」
龍壬は右肩にできた赤黒いシミを左手で押さえました。すると、宙に浮いていた水滴はたちまち全てが元の液体へと姿を変え、重力に従って雨のように落ちていきます。
「満足しましたか」
時雨はさも面倒だとでも言いたげに、肩を竦めました。あれだけ動いていたのに、ほとんど呼吸は乱れていません。化け物とは、あたしみたいな術を使う妖のことだけを言うのだろうか。琴音は思わずそんなことを考えてしまいました。
「まだだ」
龍壬のその言葉を聞いて、瞬時に鳥肌が立ちました。殺気とは違うなにか。圧のようなものを感じます。琴音は前世、これと同じものを感じたことがありました。
「水龍」
龍壬が軍服のポケットから呪符を取り出しひとたび声を掛けると、水は引き潮のように部屋の中央へと集まりだしました。
「きゃあ――!」
「琴音、しっかり捕まってろ!」
引き潮のような力は、琴音が乾の支えなしでは立っていられないほどでした。乾は近くの柱に捕まり、必死に琴音の身体を引き寄せます。時雨も同じく、近くの壁に捕まっていました。
地下三階に溜った水は、やがて完全に引き、中央で巨大な水塊となって蠢いていました。辺りは雨の後のように水びだしで、滑りやすくなっています。先ほどから感じている圧のようななにかは、波のようにじわじわと迫ってくるかのように感じられました。
――来る!
「時雨さん、逃げて!」
「殲滅青龍陣――!」
琴音の叫び声と、龍壬の声が重なりました。
中央の水の塊に五芒星が浮かび上がると、卵から孵るように巨大な水龍が水飛沫と共に飛び出します。水龍は天井を貫いたかと思うと、そのまま急降下してきました。
辺りを周回しながら次々に物凄い水圧で柱を破壊していき、獲物を確認するとその大きな牙を生やした口を開きました。
時雨を食らおうとしている。乾はその瞬間、琴音のことを抱え込んで水龍から身体を逸らしました。
「せしめよ――」
乾の腕の中、琴音の耳に入ったのは時雨のこの一言でした。その瞬間を境に、全ての音が無くなります。
不思議に思ったのか、乾の腕の力も緩み、琴音は時雨の方を見ることができるようになりました。時雨は臆することなく、大きな口を開いたままの水龍に呪符を見せつけるように差し出していました。
その姿は、前世の記憶の中のあの方とまるで同じでした。
「汝の主ここに在り――」
頭の中に直接響くような声で、ゆっくりと術を唱える時雨。それを聞いた水龍は、百八十度方向転換しました。
水龍の向こう側にいる龍壬は、負傷した肩を押さえながら信じられないというような表情を浮かべています。
「……龍壬、さん」
琴音がぽつりと龍壬の名を呼び掛けると、それが合図かのように水龍は大きな咆哮をあげました。そして龍壬へと、なんの躊躇もなく襲い掛かります――
琴音は龍壬が水龍に弾き飛ばされ、人形のように壁へ激突する様を、ただ黙って見ていることしかできませんでした。恐怖のあまり、全身ががくがくと震えます。
水龍の一部だったであろう水が、再び琴音のふくらはぎ辺りまで形状を変えて迫ってきました。龍壬は水に浸かり、壁にもたれたまま、動きません。
時雨は再び水が溜った床を進んで行き、龍壬の方へと近づきました。それから力なく壁にもたれ掛かる龍壬の髪を乱暴に掴み上げ、その頭に銃口を向けます。
「まだ、やりますか」
琴音は時雨の横顔を見てはっとしました。時雨は、笑っていたのです。琴音に笑い掛ける時と同じような笑顔を向け、龍壬に銃口を向けていました。
「もう止めて!」
琴音は喉の奥から必死に声を絞り出しました。乾から離れて、龍壬のそばに駆け寄ります。
「龍壬さん! 龍壬さん!」
時雨を押しのけ、龍壬を揺さぶります。龍壬は顔を歪め、苦しそうに低く呻き声をあげました。その反応を見て、琴音は心の底から安堵します。
「肋骨が数本折れていると思うので、あまり揺さぶらない方がいいですよ」
「早く病院に連れて行かなくちゃ! 龍壬さんが死んじゃう!」
「落ち着け、琴音。上には後方支援の車が止まってる。そこまで運ぶのを手伝え」
取り乱している琴音の肩に手を添え、乾は落ち着いた声でこう言います。
少し落ち着くと、今まで聞こえていなかった心臓の音が急に聞こえてきました。走っていたからか、それとも恐怖したからか、鼓動は忙しなく鳴り響いていました。
「全部隊に告ぐ。龍壬の確保に成功。薙斗補佐、並びに主戦力部隊は計画どおり行動に移れ」
時雨はイヤホンマイクで全部隊に連絡を入れていました。時雨の声が、生声とイヤホンとで二重に聞こえてきます。
「あまり長居はしたくありません。あとは見張りに任せて、早々に撤退しますよ」
「同感だ。お前はこっちを頼む」
乾と時雨で龍壬を担ぎ、三人はエレベーターに乗り込みました。




