26
地下三階には、琴音と乾、そして時雨と龍壬の四人が残りました。琴音と乾は時雨から数十メートルほど下がり、事の成り行きを見守ります。改めて三人と龍壬が対峙し合うと、ぴりぴりとした空気が辺りを包みました。
「大事な子に、随分と酷いことをするんですね」
最初に口火を切った時雨の口調は、龍壬に捕まった時と同じく、どこまでも穏やかでした。それがかえって緊張感を生み出します。対して、龍壬は凛然と答えました。
「うちの兵を傷つけた瞬間から、そいつはもう敵だ。傷つけられる覚悟もない奴が、この場にいるはずねえだろ」
龍壬の思い掛けない言葉は、琴音の心を傷つけるのに十分でした。この言葉に、琴音は悟ります。
あそこに立っているのは、あたしが知っている優しい龍壬さんじゃない。あの人は、あたしの名前すら呼んでくれなくなってしまった龍壬さんだ。
「正論ですね。人を傷つける者には、人から傷つけられる覚悟が必要になりま……」
「龍壬! てめえ、琴音に手を出したのか! 理由はなんであれ一発ぶん殴らせろ!」
時雨の台詞を遮って乾が怒鳴りだしました。龍壬が無反応な代わりに、時雨が深いため息をつきます。数十メートルほど先でも琴音の耳に聞き取れるくらい、深いため息でした。
「少し大人しくしていてください。また発作が起きますよ」
乾は元弟子に叱られ苦々しく顔をしかめました。まだなにか言い返しそうだったので、琴音は乾の手を握りしめます。自分のせいで発作を起こす乾を、見たくはなかったのです。琴音の気持ちを汲み取った乾は、不満そうにしながらも大人しくなりました。
「これは、けじめだ」
ここで、龍壬は一瞬だけ暗い表情を浮かべました。見間違いかと思うほど、ほんの一瞬です。
「……時雨、お前はここで殺す」
龍壬の声に反応して、水がビー玉ほどの大きさの滴となり、それが無数に宙へと浮きました。まるで、そこだけが無重力空間になったかのようにふわふわと漂います。
琴音は一度だけ、龍壬がだらしのない乾への怒りから術を使ったところを見たことがありました。その時も、龍壬は液体だった水を宙に浮かせたのです。そして、その浮かせた水で乾が飲み干したまま放置していたビール瓶を割りました。
もし、この滴の全てを操れるとするなら――
「止めて、龍壬さん!」
これだけの数、避けきれるはずがない。叫び声をあげて時雨に近づこうとするも、今度は琴音が乾に腕を掴まれ制止されました。その目は、明らかに「見ていろ」と告げています。
「あまり気は進みませんが」
時雨は台詞とは裏腹に、短刀を鞘から引き抜き構えました。鞘は投げ捨てられ、音を立てて水中へと沈んでいきます。
「剛弾」
龍壬が術を唱えると、ふわふわと宙を漂っていた水滴がぴたりと動きを止めました。時が止まったかのように動きを止めた水滴は、水晶玉のように見えました。そして――
「散水銃殺――!」
水滴は次々に、目にも止まらぬ速さで時雨に向けて放たれました。ひゅんひゅんと風を切って銃弾のように時雨に襲い掛かります。
時雨はそれらを少ない動きで避け、短刀で受け止めました。刀身に水滴が当たる度、金属と金属がぶつかり合うような音が響き渡ります。と、時雨の避けた流れ弾が琴音たちの方にまで飛んできました。
「結!」
水の流れ弾は乾の結界に当たり、琴音の目の前で液体へと戻ります。もしこれが当たっていたらと想像し、ぞっとしました。
「龍壬の奴、本気だな」
乾は機関銃のように水滴を操る龍壬を見据えます。
それにつられて、琴音も龍壬へと視線を移しました。龍壬の目は、真剣そのものでした。その姿からは、殺気しか感じられません。琴音はそんな龍壬を、身震いするほど恐ろしいと感じていました。
乾とは違って、滅多に怒りもしなかった龍壬が、本気で時雨のことを殺しに掛かっている。誰がこんなことを想像できたでしょう。
避け続けていた時雨は水弾が少なくなると、途端に攻めに転じました。利き手である右手で短刀を操りながら、左手でホルスターから拳銃を取り出し、避けながら龍壬に向けて発砲したのです。あまりに早い動作で、琴音は悲鳴をあげるのも忘れました。




