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琴音はやはり心中複雑なまま読み終えました。目の前の静を見ると、まるでいじめっ子のような笑みを浮かべています。
もし、仮に妖が裁判を起こせるとしたら、あたしはこの座敷童子から精神的苦痛により慰謝料を大量にふんだくることができるのではなかろうか。
そんなくだらないことを考えていたその時でした。
バチンッ! というなにかが弾けたような大きな音が、外から聞こえてきたのです。
「なに、今の音」
「結界が消えてるわ」
静が窓から外を眺め、こう言いました。琴音も習って窓の外を見ると、確かにいつも頑丈に家を守っていた結界が綺麗に消滅していました。
「どうする琴音? 今なら外に出られるわよ?」
静が琴音を試すように問い掛けました。しかし、いざ外に出られるようになっても琴音には行く当てなどどこにもないため、喜ぶことができません。
「出ないよ。それよりパパ、どうして急に結界を解いたりしたんだろ」
結界を張っているのは、術者のパパでした。パパは以前から、結界を張っているのは世間から妖の存在を隠すためだと言っていました。パパは結界を張ることで妖気を外へ出さないようにしていたのです。
それを、なぜ今になって解き放ったのだろう。琴音は首を傾げながら外を眺めていました。
「……あの人が故意に解いたんじゃないわ」
静はぽつりと呟くようにこう言いました。それが耳に入った琴音は、すかさずなんのことか問うも、琴音の声などまるで届いていないかのように真剣に窓の外を眺めています。
静はたまに、パパのいないところでパパのことを「あの人」と呼ぶことがありました。それはもちろんパパが二十代の頃から憑いている静の特権なのでしょうが、琴音にとってはなんだか不思議な感覚でした。
しばらくそのまま外を眺めていると、静かな部屋の中に電話のベル音が飛び込んできました。鳴ったのは家の電話ではなく、電話の親機が乗っている台の引き出しの中の端末でした。その端末にかけてくる相手は、パパか龍壬しか心当たりがありません。
琴音が端末を手にすると、画面には案の定「龍壬」と表示されていました。琴音は躊躇することなく電話に出ます。
「はい、もしもし龍壬さん?」
『ああ、俺だ。そっちはなんともないか?』
「え? ああ、さっき結界が消えちゃったんだけど、パパどうかしたの?」
『……そうか。琴音、落ち着いて聞いてくれ――パパが倒れた』
龍壬の台詞を聞いた途端、琴音は思わず端末を落としそうになりました。
「う、嘘でしょう?」
『本当だ。今、病院に運ばれた。これから俺はそっちに向かうが、俺が行くまで誰が家に来てもそいつに姿を見せるな。いいな』
「わかった」
『いい子だ。じゃあな』
龍壬はそれだけ言うと、直ぐに回線を切ってしまいました。静が琴音に近づいて、話の内容を聞いてきます。
「パパが……仕事先で倒れたって」
琴音が青い顔をして静に告げるも、静が取り乱すことはありませんでした。冷静に、琴音の顔を見つめています。
「それから、龍壬さんはなんて?」
「これからこっちに来るみたいだけど、龍壬さんが来るまで誰が来てもその人に姿を見せるなって」
琴音は龍壬に言われたことを伝えながら、それがおかしいことに気づきました。この家には、来客があったことなど一度もなかったのです。にも関わらず、なぜ今日いきなり、その来客の心配をするのでしょう。しかし、静は琴音の言葉を聞いてなにかに気づいたようでした。
「パパの部屋に行くわよ」
静は琴音の手を取ると、凄まじい力で引っ張り、パパの部屋へと琴音を連れ込みました。
「し、静?」
「酒と煙草の臭いで妖気を紛らわすのよ」
パパの部屋は、玄関から一番近い場所にありました。普段から掃除などしないため、布団は敷かれっぱなしの上、ビールの空き缶や煙草の吸い殻などが部屋中に転がっています。
「相変わらず汚いわねえ」
「うう、鼻がもげる」
犬並の嗅覚を持つ琴音にとって、パパの部屋の煙草の臭いは強烈なものでした。琴音は鼻を摘まんで、口で呼吸をしました。
「どうして妖気を隠す必要があるの?」
「念のためよ」
静は部屋に溜ったパパの洗濯物を、せっせと一か所に集めていました。琴音は触る気にもなれず、それを感心しながら眺めます。すると、家の外からエンジン音が聞こえてきました。
「龍壬さんかな?」
一刻も早くこの部屋から出たい琴音は、龍壬の帰宅を今か今かと待ちわびていました。玄関からは、鍵を開けるような物音がします。琴音はパパの部屋からそっと玄関を覗きました。
その瞬間、扉に備え付けられた郵便受けから、蔦のような植物がにょきにょきと伸びて鍵を開けている光景が、琴音の目に飛び込んできます。
「ひいっ」
琴音は短い悲鳴をあげると、直ぐに部屋に引き籠りました。
「しょ、植物が! なんかっ! 入って来てる!」
うごうごにょきにょきと動き回る植物を見て、琴音の全身に鳥肌が立ちました。
「こっち」
静は琴音を押入れへ押し込み、自分も押入れへとその身を滑り込ませました。
「なんなの、あれ!?」
「しっ! ……妖捕獲令が発令されたんだわ。捕まったら殺されると思いなさい」
静が冗談を言っているようには思えませんでした。なにもしていないのに、どうして殺されなくちゃいけないの。それを問おうにも、玄関の扉が開け放たれる音に遮られてしまいます。
「さあて、どこだ」
龍壬とは明らかに違う、男の声がしました。そして、足音はこの部屋の前で止まります。
「ここかー?」
男の声と共にパパの部屋の襖は開けられました。琴音の心臓の音は、一際大きく鳴り出します。
「きったねえな」
襖の隙間から見える二十代前半ほどの男は、部屋に散らばったビールの空き缶や雑誌を蹴飛ばしながら中へ入って来ました。すると、男の蹴飛ばした空き缶の一つが、押入れの襖に勢いよくぶつかります。琴音と静は驚きの余りびくりと身体を震わせました。
「そこか」
琴音と静は、瞬時にこの男がパパや龍壬と同じ術者だとわかりました。妖を驚かせることによって妖気を乱し、妖気の元を特定する方法は、妖気を感じ取れる人にしかできません。
そして、男の声には聞く人の背筋を凍らせるような気が纏っていました。これは前世で感じたことがある――殺気。琴音は咄嗟に静の手を取りました。
男の足音がだんだんと襖に近づいて来ます。近づいて来るに従って、琴音と静の互いの手を握る力もだんだんと強くなっていきました。