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支度を終えた琴音は、居間へと向かいました。そこでは既に、静がノートパソコンを前にして執筆を行っています。
「静、おはよ。パパはもう行った?」
「とっくに行ったわよ」
「……そう」
パパや龍壬がいないのであれば、規則正しい食事を摂る必要はないだろうと考え、食事を作ることが億劫になった琴音は、ソファに寝転びました。
「しいずう」
「なに」
「パパ、怒ってた?」
「子どもみたいに拗ねてたわよ」
「……今日の晩御飯は肉じゃがに決定かな」
パパは昔からありきたりなことに肉じゃがが大好物なようで、龍壬が来る前はよくスーパーの惣菜コーナーでも買っていました。パパは好物の肉じゃがを食べると、少なからずご機嫌になるのです。
龍壬がこの家に来る前は、誰も家事ができずそれは酷い有様で、三食インスタントか菓子パンは当たり前、家中の床がゴミで見えないのも当たり前、酷い時には振込み忘れで電気と水道を止められたこともありました。
しかし、家事全般ができる龍壬がやって来てから、琴音も料理を少しずつ覚えるようになり、今ではインスタントや菓子パンなど滅多なことでは食べなくなりました。
健康的で規則正しい生活が送れるようになり、龍壬に対し感謝はしているものの、琴音は人知れず無性にメロンパンが食べたくなることがあるのでした。
「――よし、できたわ」
静は満足気に呟くと、ノートパソコンの液晶を琴音に向けてきました。
「ふふふふふ、今しがたできたばかりの作品よ。読ませてあげるわ」
「あ、あたしご飯食べようかな。お腹空いてきちゃったー」
琴音がソファから下りて台所に向かおうとすると、静は琴音の服の裾を鷲掴みにしました。
「い ま お よ み な さ い ?」
「はい」
琴音は正座で静の隣に座りました。静がこうなってしまったら、どんな言い訳も通用しないのでした。
朝六時。龍壬は決まってこの時間に俺の家にやって来る。琴音も静も、まだ起きるには早い時間だ。龍壬との関係が始まって、何度目の朝だろうか。一緒に迎えることのできないもどかしさのせいで気がおかしくなりかけていた。
今直ぐにでも、あいつに会いたい。誰かに対しそう思ったのは初めてだった。色んな女と色んな経験をしてきたが、一度だってこんな気持ちになったことはない。龍壬は、他のどんな女よりも愛おしい存在だった。
もうじき、玄関の戸が三回鳴るだろう。インターフォンを鳴らせば琴音たちが起きるからと、俺と龍壬で決めた合図だった。朝六時近くになると、俺はその合図を聞き逃すまいとまるで犬のように玄関の前で待っているのだ。
――コン、コン、コン。
最早、俺の中に余裕は一欠片も残ってはいなかった。玄関の戸を乱暴に開くと、目を丸くし驚く龍壬が目に入る。刹那、俺は龍壬の腕を掴んで家の中へと連れ込み、壁にその背を押し付けた。
「お、おい……んっ!」
戸惑う龍壬をよそに、俺は構わず龍壬の柔らかな唇を――
琴音はだんっとノートパソコンの液晶を閉じました。
「刺激が強すぎる!」
「あらあら、お顔真っ赤にしちゃって、お子ちゃまだこと」
静はにやにやと笑いながら、琴音の反応を見て愉しんでいました。静はこうして趣味でBL小説を書き、それだけでは飽き足らず現代科学を駆使して自分のHPに投稿する、言わば腐女子なのでした。
見た目は十歳の少女でありながら、パパが二十歳の頃から憑いているため、本当の年齢は恐らく三十越え。実年齢を聞くとなにも答えずただ自作のBL小説を音読してくるので、琴音は静の実年齢を知りませんでした。
「こんな破廉恥な小説読む人なんているの」
「それが結構人気なのよ」
静は得意げになってノートパソコンのキーボードを軽快にタップすると、また琴音にウィンドウを見せました。さっきまでの破廉恥な文章がなくなり、代わりに静が投稿しているHPの掲示板が表示されています。
『主人公の強引に攻めてる感じとか、それに抗えない龍壬さんがめっちゃ尊いです!』
『いつも更新楽しみにしています。頑張ってください! 応援してます!』
類は友を呼ぶとはこのことか。琴音はウィンドウに表示された静の小説への賞賛の声を、呆れながら眺めていました。
静の書く一人称小説の主人公はどう考えてもパパで、その犠牲になっているのは龍壬でした。龍壬という本名を出しているあたりから悪意を感じます。
なぜ、よりによってBLなのか。一度、琴音がBLの魅力がわからないと勇気を持って直接静に打ち明けたところ、
「まあ、別にわたしも魅力が語れるほど好きなわけじゃないけど、強いて言うならわたしにとってBLって少女漫画と変わらないのよね。ほら、少女漫画って自分にないものを持ってるヒロインに憧れたりして感情移入するじゃない。わたしはBLで自分が決してなり得ない不可能な関係を垣間見ることによって、一種の快楽を得てるわけよ。でね、BLっていうのは――(省略)」
快楽という響きによって、BLというものが官能的なものだという認識を植え付けられた琴音は、それを読むという行為はとてもはしたないことなのではないかと考えるようになってしまいました。
その内容というのも身内をモデルにしていて、なおかつ破廉恥な表現を用いており、その上、それをモデルの本人たちが知らないという至る所に問題が露見しています。
今度こそ文句を言わねばなるまい。琴音が口を開きかけると、
「まあまあ、わたしがあんたに見せたかったのはもう少し先よ」
と、再び有無言わせず液晶をこちらに向けてくるのでした。それを素直に読んでしまうあたり、思春期の琴音にも興味がないわけではないようでした。
――琴音を起こしに行った龍壬は、ほどなくして二階から降りて来た。居間では、寝ぼけて起きて来た静がソファで寝息を立てている。俺は龍壬の手を取り、今度は客間へと誘い込んだ。
琴音はなにも知らないだろう。自分の父と兄のように慕っている龍壬がこんなにも汚れた関係であることを。だが、俺は少しの後ろめたさなど感じていなかった。
「よせって、琴音がもう起きて来るだろ。腹減ってんのか?」
貪るように龍壬を求めると、龍壬は困ったように笑った。なぜ、こんなにも冷静でいられるのか。俺は龍壬に対し苛立ちを覚えた。
「焦らすな。俺が今一番欲しいのはお前だ、龍壬」
龍壬の顎を持ち上げると、支度を終えたらしい琴音の足音が聞こえてくる。龍壬はその足音を聞くと、俺から顔を背けた。
「こんなこと、もうやめよう。俺、これ以上あいつらを騙せる自信ねえよ」
龍壬の目は悲愴に満ちていた。俺はふと、一度でも自分の娘である琴音と静に対し、罪悪感を覚えたことがあっただろうかと思い立った。
いつだって俺は、自分のことしか考えていない。自分が欲しいもののためなら、なんだってしてきた。たとえ、それが父親として最低な行為だったとしても、今更龍壬を手放す気にはなれない。
「俺はだめな父親だな」
自嘲しながらも俺は龍壬の手を放さなかった。龍壬も、俺の手を無理やり解こうとはしない。そんな態度にすら愛しさを覚える。
「あいつらに、全部話しちまおうか」
「……いいのか」
もし、この関係がばれたら、琴音や静はどんな反応を見せるだろう。二人は、やはり家を出て行くだろうか。……いや、それでもいい。俺が俺の道を選ぶように、あいつらも好きに選べばいいんだ。
「構わねえよ。あいつらももう、子どもじゃねえしな」
俺の顔は、ちゃんと笑えているだろうか。俺は自分の表情を隠すために龍壬を抱き寄せた。龍壬の手が、そっと俺の背に触れる。誰に理解されなくてもいい。俺は、ただこいつと生きたかった。
居間の扉の向こうでは、静と琴音の気配がする。俺は、全てを打ち明ける為にその扉に手を掛けた。すると、そっと温かい手が添えられる。後ろを向くと、優しげに笑う龍壬がいた。大丈夫だと、そう言っているように見えた。俺はこの笑顔を一生守ろうと心に誓い、居間の扉を開いた。
(つづく)