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――やってしまった。
琴音はベッドでうつ伏せながらそう思っていました。理由はわからないものの、パパは昔から琴音が平安時代に仕えていた術者の清才を、嫌悪していたのです。そのため、琴音もパパの前では清才の話をしないように努めていたのですが、今日に限ってはつい口が滑ってしまったのでした。
しかし、琴音にとって、清才はパパが言うような酷い人間ではありませんでした。琴音にとって、大切な人を大切な人に貶されることは、家から出られないことよりも辛いことでした。
「琴音」
部屋の外から声がしました。なにも答えずにいると、龍壬がそっと顔を出して入って来ます。
龍壬は、布団をすっぽり被ってふてくされている琴音に触れ、「さっきは偉かったな」とだけ声を掛けました。その言葉は、琴音の涙をせき止めていたものを、一瞬にして溶かしてしまいます。
せき止めていたものを失った涙は、とめどなく琴音の目から溢れ出ました。その琴音の頭を、龍壬は無言で撫でます。
琴音は、無意識のうちにパパに対して攻撃をしようとしていたのです。能力が琴音の感情に反応して、暴走しかかっていたためでした。龍壬の制止がなければ、間違いなく琴音はパパに攻撃していたでしょう。パパもそれを覚悟していたようでした。
「ねえ、どうしてパパはあんなに清才様のことが嫌いなの?」
琴音は布団から少し顔を出して問いました。
「お前のことが心配なんだろう」
どうして心配だからといって、子どもが慕っている人を貶すのか。そもそも、この家から出られないのも、自分や静を思ってやっていることだと言うが、だからといって家に閉じ込めてもいいのだろうか。
琴音はしばらく、パパと仲良く会話などできそうにありませんでした。そんな時はいつもの手段と、琴音は龍壬の腕を掴みます。
「今日、龍壬さんの家に泊まってもいい?」
一緒に住んでいない龍壬は、車でここから五分ほどの場所にある一軒家からこの場所に毎日通っていました。パパと喧嘩をすると、琴音は決まって龍壬の家に避難していたのです。
二、三日、龍壬の家で頭を冷やし、その後、何事もなかったかのようにまた元どおりに過ごす。今回もその手で乗り切ろうと思っていましたが、龍壬の表情は明るくありません。
「……悪い、明日は仕事の後に人がうちに来るんだ」
「人って?」
「仕事仲間だ」
それでは邪魔をするわけにはいかない。琴音はしょんぼりと目を伏せました。
「晩飯は作ってやるから、それまでに元気だしとけ」
「一緒にご飯食べなきゃだめ?」
「それが決まりだろ」
テーブルを囲い家族揃って食事をすること、それがこの家族の決まりでした。だから、この家に住んでいない龍壬でさえ、朝食もこの家に来てから摂るのです。
その行為には、一緒に住んでいなくとも龍壬も家族の一員であるという意味が込められていました。
「……わかった」
「いい子だ」
「ねえ、龍壬さん」
「ん?」
「あのね、桜の梢が膨らんできてるんだよ」
琴音は涙を拭って、自分の部屋の窓を開けました。琴音の部屋は二階にあるため、庭に植えられた桜の木の枝が間近に見えるのです。
「あともう少しかかりそうだな」
「桜が咲いたら、またお花見に行けるよね?」
この桜の木が満開になった頃、家族みんなで花見に行くのが恒例でした。花見は普段自由に行動ができない琴音にとって、一大行事なのです。
楽しみなあまり、琴音は声を弾ませながら隣にいる龍壬に声を掛けました。しかし、龍壬から反応は返ってきません。龍壬は桜の木ではなく、その向こうの家の塀の外を物凄く怖い顔をして睨み付けていたのです。不思議に思って龍壬と同じ方向を見るも、あるのは通行人が少ないただの通りだけでした。
「……どうかした?」
琴音は眉を潜めて、不安げに龍壬の顔を見上げました。そんな琴音の視線に気づいた龍壬は、はっと我に返ったように表情を強張らせ琴音を見つめます。それから、ぎこちない笑顔を見せ、琴音の頭をぽんぽんと撫でました。
「ただの見間違いだ」
「なにと見間違えたの?」
「俺好みの綺麗系女子」
龍壬はにやりと、はしたない笑みを浮かべました。その笑みを見て、綺麗な女の人を見た時のパパの顔を思い出した琴音は、不快そうに顔をしかめます。
しかし、ふと冷静になり、通りに人がいなかったことを思い出します。それに、好みの綺麗系女子を、あんな憎しみが籠ったような恐ろしい顔で見るだろうかと疑問に思いました。
「それじゃ、俺は下に戻ってんぞ」
「うん」
琴音は足早に部屋を出る龍壬を、不思議そうに見つめていました。
窓を閉めようと手を掛けると、煙草の臭いが琴音の鼻をつきます。下を向くと、パパが煙草をふかしながらこちらを見上げていました。目が合うと、琴音とパパは互いに目を逸らし、琴音は窓を勢いよく閉めました。
結局、その日は互いに機嫌が直らず、ぴりぴりとした雰囲気の中での夕食となったのでした。