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「えっ……あっ……きょ、今日は、早めに上がらせてもらおうと、思って……」


「お前、声どうした? なんかいつもと違うけど」


「か、かかか風邪! 風邪引いちゃって! ごほっごほっ!」


 いくら化け狸でも、聞いたことがない声までは化けられません。ここはありきたりにも、風邪作戦で乗り切ろうと琴音は懸命に咳をして見せます。


「俺もう上がりだし、車で寮まで送るけど」


「いやいやいや! 大丈夫!」


 男は琴音の挙動不審さを怪しむかのように、顔を覗き込みます。琴音は思わず顔を逸らしました。


「なんかお前、変じゃね? 喋り方とか」


 もう誤魔化しきれない! 琴音は心の中で悲痛な叫びをあげます。と、


「あ、いたいた。こうすけくん!」


 今度は日本庭園の方から若い仲居が現れました。


朱里(あかり)さん。どうしました?」


「さっき、隊長がこうすけくんのこと探してたの。間に合ってよかったあ」


「隊長が俺に? なんの用だろう――わりぃ、ゆいこ。ちょっと行ってくる」


 こうすけという男は、そう言うなり日本庭園の方へと戻って行きました。どうやら裏口から旅館内へ入るようです。朱里と呼ばれていた仲居は、琴音のことを見るとにっこり笑い掛けました。


「お大事に、ゆいこさん」


「……あ、はい」


 琴音が軽く会釈すると、朱里はこうすけの後を追うようにして日本庭園へと戻っていきます。助かった。琴音はほっと息をつき、静と共に階段を下りました。


 下りきった先は、広い駐車場となっていました。シャトルバスや高級そうな外車がぽつぽつと停まっています。


 辺りは鬱蒼とした木々に囲われていました。駐車場からの歩道は下り坂であるところからして、ここはどうやら山の中腹部を切り開いた場所に立地しているようです。


「とにかく、山を下りるわよ」


「うん」


 琴音は駐車場を横切りながら、しきりに旅館の方を振り返っていました。龍壬のことが気がかりだったのです。朱里という女が言っていた隊長とは、一体誰のことだったのだろう。


 と、一人の仲居らしき人物が、旅館へと繋がる階段の上からこちらを見ているのがわかりました。仲居は明らかにこちらを指差しています。すると、私服の男たちが続々と階段を駆け下りて来ました。


「み、見つかった!?」


「走って!」


 琴音は顔の術を解くと、静をつれて全速力で下り坂を走り抜けました。街灯が少なく、木々が生い茂ったなだらかな崖を右手に山道を走り続けるも、やがて背後からは車のエンジン音が聞こえてきます。


 琴音は静の手を掴むと、ガードレールを飛び越えてなだらかな崖の斜面へと身を潜めました。息を殺そうにも、普段運動などほとんどしない琴音と静には、荒い息をすぐに整えることは至難の業です。


 やがて、青い車は猛スピードで二人が身を潜める崖を素通りして行きました。なんとか凌ぐことができて安堵するも、静は眉間に皺を寄せています。


「まずいわね、この先一方通行よ。出入り口で見張られたら、とてもじゃないけど逃げられない」


「そんな――」


 なら、どうやって逃げればいいの。琴音が頭を抱えるより早く、背後から気配を感じました。


「いたぞ! お前らは下へ回れ!」


 後ろを振り返ると、軍服のような服を身に纏った男たちが崖を上って来るのが見えます。


「どっから出てきたの、あのコスプレ集団!」


「知らないわよ!」


 二人は文句を口にしながら再び道路へと出ます。と、ちょうど旅館の方から二人を捕まえにやって来た人間たちと出くわしてしまいました。


「いたぞー! 捕まえろ!」


 琴音と静はそれから逃れる為に下り道をまた走り続けます。が、下では崖から回り込んで出ていた軍服姿の男たちが行く手を阻んでいました。


「ど、どうしよう、完全に挟み撃ちにされちゃった」


「琴音、あんただけでも逃げなさい。鳥にでも化ければ逃げられるでしょ」


「静だけ置いて逃げられない!」


 琴音と静は背中合わせでそれぞれの追手と対峙します。


 すると、琴音が向いている下り方向から、物凄い勢いで坂を上ってくる緑色の車が見えました。車は軍服姿の男たちを轢き殺す勢いで突っ込んで来ます。


「うわあ!」


 軍服男たちは、車から逃れる為に間一髪で道路脇へと逃れました。車は、今度は琴音たちめがけて突っ込んで来ると思いきや、急に方向転換をしてその側面を見せました。


「琴音! 乗れ!」


 運転席から助手席の扉を開けてこう叫んだのは、薙斗でした。琴音は静の腕を掴んで、迷わず車へと飛び込みます。


 静を膝に乗せて席に腰を下ろすや否や、助手席の扉もまだ閉めていないにも関わらず、薙斗は凄い早さで車を切り替えし、下り方面へぐるんと方向転換すると、追手を嘲笑うかのように置き去りにして発進させました。


 その間、琴音は右手でシートベルトを締め、左手は自分の膝の上から車の扉を閉めようと懸命に手を伸ばしている静の身体を支えていました。


 やっとの思いで扉を閉めて息をつくも、下り坂の到着地に一台の車が道を封鎖しているのが見えます。あれは間違いなく琴音たちの前を通過した青色の車でした。しかし薙斗は、それが見えていないかのように速度を落としません。琴音は思わず叫び声をあげます。


「車!」


「わかってる」


 薙斗がハンドルを大きく回すと、それに従って車も大きく方向を変えます。三人が乗った車は、封鎖している車の手前で崖の方へと道を逸らしました。


「きゃー! 死ぬ死ぬ死ぬ! 死んじゃう!」


 琴音は激しく揺れる車体の中、フロントガラスに迫りくる木々たちを前に、静を抱きしめながら悲鳴をあげます。しかし薙斗は、無言で忙しなくハンドルを回しながら木々たちを全てかわし、ついには道路へと車体をほぼ無傷で導いたのでした。


「……死ぬかと思った」


「わたしもあんたに絞殺されるかと思ったわよ」


「あっ、ごめん」


 琴音は今の今まで静を締め上げていたいたことに気づき、慌てて静を放しました。静は琴音から逃れようと、後部座席へ移動します。


「ちょっと! さっきの車、追って来てるわ」


 静の声に反応して琴音は後ろを振り返ります。自分たちを追って来る車を見て、龍壬の車で逃走した時と同じ感覚が蘇ってきました。


 すると、後を追ってくる車の助手席から腕が伸びてきました。その手に握られているのはやはり拳銃です。銃口がこちらに向けられると、少し上へと反動しました。かと思えば、


 ――パーン!


 琴音が座っている助手席の方のサイドミラーが粉砕しました。琴音は再び命の危機を感じます。


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