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参
拠点へと向かう一台のワゴン車の中。
龍壬は気を紛らわすために、後部座席から流れる景色を眺めていました。車窓からは、道路照明の橙色の明りが一定の間隔で目の前を通り過ぎてゆくのが見えます。
隣では気絶した琴音が横たわり、龍壬の膝に頭を乗せていました。龍壬はその琴音の手を、まるでお守りでもあるかのように無言で握りしめ、懸命に頭に残る光景を忘れようと努めます。
しかし、その光景はまるで脳にそのまま焼きついたかのように、忘れようとすればするほど、鮮明に思い起こされるのです。力なく倒れた女。大きく膨れた腹。長い黒髪。その細い首には、ドアノブに繋がったビニール紐が巻きついています。
それは、間違いなく愛しい妻の変わりはてた姿でした。
「……たつみさん」
龍壬は突然の琴音の声に、慌てて握りしめていた手を離しました。しかし、琴音の目はしっかりと閉じられており、それ以上言葉を発する様子はありません。龍壬は手錠が掛けられた琴音の小さな手を見て、七年前のことを思い出しました。
『――龍壬さんに、これをあげたくて。ずっと見てたでしょう?』
春の月夜、小さな手で桜の枝を握りしめる琴音。
龍壬は、琴音の姿を見ないように、そっと目を閉じました。
*
琴音の意識は、ふわふわと闇の中を漂っていました。小刻みに伝わる振動。静寂。そんな中でただ一つ、手の温もりだけが心の支えでした。
「……たつみさん」
しかし声を発すると、温もりは恐れるかのように逃げてしまいます。支えを失った琴音の心は、たちまち揺れ動きました。
――行かないで。どこにも、行かないで。
琴音のそんな必死な思いは、ついに声になることはありませんでした。
遠い意識の中、琴音は龍壬と出会ったばかりの頃のことを思い出していました。
「今日はパパの友達を連れてきたぞ」
そう言って、仕事から帰った乾が連れてきた男が龍壬でした。琴音は、ひょろりとした長身で、あまり顔色がよくない幽霊のような男が、音もなく居間へと入って来たのを記憶していました。
「こんにちは」
九歳の姿をした琴音が、礼儀正しく龍壬の前まで行って挨拶をすると、龍壬は少し戸惑うかのように視線を泳がし、小さく会釈を返しました。
「こいつは龍壬だ。これからはこいつも家族の一員だからな!」
突然の乾の家族宣言に、龍壬は目を見開いて驚いていました。
「なっ! 隊長、なにを仰って――」
「琴音です! よろしくお願いします!」
当時の龍壬の様子からして、恐らく乾に強引に家へ連れられ、強引に家族にされたのでしょう。琴音はそれを察していましたが、家族が増えることを望んだために、龍壬の抗議を無視したのでした。
それからというもの、龍壬はまるで仕事をこなすかのように朝には琴音たちの家へと赴き、夜には自分の家へと帰って行きました。家にいる間は、琴音や乾や静が話し掛けなければ特に会話もなく、黙々と家中を掃除して回っていました。
琴音はそんな龍壬と仲よくなりたいあまり、絵本を頻繁に持って行っては読んでくれとせがみました。そんな琴音を龍壬は鬱陶しげに見ることさえありましたが、文句は言わずに読み聞かせてくれました。
龍壬の態度が急変したのは、お花見でのできごとがあってからでした。満開の桜を少し遠くの公園で、ピクニックをしながら見ようと言う乾の提案で、花見に行くことになったのです。
強制参加となった龍壬は、公園へ向かい始めてから帰路につくまで終始不機嫌で、いつも以上に口数が少なかったように思えました。
乾が酒を飲みすぎて公園で寝てしまったせいで、公園を出る頃には、空は暗くなり大きくて綺麗な月が昇っていました。龍壬はそんな乾に対しても腹を立てていたのかも知れません。道中は琴音と乾と静から一メートルほど距離を取り、ひたすら無言でついて来ていました。
そんな中、乾がトイレに行きたいと言い出し、静はコンビニに寄りたいと言い出しました。一先ず、近くのコンビニまで行くと、琴音は龍壬と外で待機することとなりました。
当然のことのように会話をする気がない龍壬は、無言でコンビニの前の通りに咲く桜を眺めていました。
「……龍壬さんは、桜が好きですか」
気を利かせて龍壬にこう問いかけるも、龍壬は応答しません。ただ、桜花の間から見える月明かりを、悲しげに見つめているだけでした。まるで、この世のすべての不幸を一人で背負い込んだかのような、そんな目をしていました。
しばらくして、乾と静が帰って来ると、龍壬はまた乾と静の後を力なく追い掛けました。琴音はそんな三人を追わず、龍壬が眺めていた桜の木を見上げていました。そして袖をたくし上げると、その木に足を掛けました。
「あれ、琴音は?」
数メートルほど離れた所で、琴音がついて来ていないことに気づいた静は、立ち止まって辺りを見回しました。それにつられて乾と龍壬も辺りを見回します。そして、琴音の姿を見つけた静が大声をあげました。
「ちょ、ちょっと! あれ!」
静の短い指が差した先では、九歳の少女が必死に桜の木によじ登っていました。少女は、手頃な枝を見つけるとそれを折って笑顔でこちらに手を振ります。
「なにやってんだあの馬鹿!」
そう言いながら駆け出す乾よりも早く、龍壬は動き出していました。龍壬は琴音が上っている桜の木の下まで行くと、今までどこにそんな元気があったのかと思うような大声で怒鳴りました。
「なにしてんだ! さっさと下りてこい!」
怒鳴られた琴音は、びくりと身体を震わせ、戸惑いながらもしょんぼりと肩を落とし、枝を持ったままいそいそと降り始めます。が、焦りのあまり足を踏み外した琴音の身体は、宙へと投げ出されました。
いつの間にか集まっていた周囲の野次馬からは、短い悲鳴があがります。龍壬は咄嗟に琴音の方へ腕を伸ばしました。すると、琴音の身体は桜の花びらのようにふわりと舞い、龍壬の腕の中へと吸い込まれていきました。
その異様な光景を見ていた誰もが、口を開けて唖然としていました。
「あ、ありがとうございます」
龍壬は自分の腕の中で、恐縮している琴音に礼を述べられ、ふと我に返りました。そして、琴音を下ろし真っ直ぐ目を見て問い掛けました。
「どうしてあんなことをした。答えによってはひっぱたくぞ」
龍壬の口調は、問い掛けというよりも尋問に近かったように思えました。琴音はそれまで後生大事に握りしめていた桜の枝を差し出します。
「ごめんなさい。……龍壬さんに、これをあげたくて。ずっと見てたでしょう?」
龍壬は、今にも泣きそうな琴音の小さな手から差し出された桜の枝を受け取りました。桜の枝についた花は、月の光を浴びて優しげなピンク色に輝いています。誰かの心を慰めるような、慈愛に満ちた色でした。
それを見た龍壬の目からは、いつの間にか涙が溢れていました。琴音は龍壬のこぼれる涙を見ると、さっきまで自分が泣きたかったことなどすっかり忘れてしまいました。
「た、龍壬さん?」
琴音は自分が龍壬を泣かせてしまったのではないかと思い、おろおろと背後の乾に視線を送りました。しかし、乾と静は琴音のことを見ていた人たちと、余計な機転を利かせて誰かが呼んだ警察への謝罪に徹していてそれどころではありません。
「……すまない」
「え?」
龍壬は短く謝ると、琴音を強く抱きしめました。
「ありがとう」
龍壬は涙を流しながら、琴音の頭を撫でました。
その日から、龍壬はまるで本当の家族のように琴音を可愛がるようになりました。琴音には龍壬のあの優しさが、嘘であったとは思えませんでした。しかし、時雨の言葉の破片が刺さった胸は、ちくちくと痛みます。
――妻子を殺した同族の妖との生活はいかがでしたか?
龍壬さん。あたしたちは、家族じゃなかったのかな。




