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 一方の琴音は、脳内で大混乱を起こしていました。目の前にいる男の整った顔立ちに、澄んだ声。銀縁眼鏡を掛けているせいでいくらか神経質に見えるものの、容姿は間違いなく平安時代に仕えていた清才そのものでした。


しかし、さすがの琴音もこの時代に清才が生きているはずないことは認識しています。では、この男は一体誰なのか。そんな琴音の疑問を読んだかのように、男は口を開きました。


「僕は清才の血筋を引いた最後の子孫で、名を時雨(しぐれ)と言います」


「……しぐれ、さん?」


「はい。君は、清才に仕えていた琴音さんですね。先祖がお世話になりました」


 時雨は恭しく頭を下げました。約千年前の先祖が受けた恩を子孫が現代で礼を述べるなど普通の人間にとってはおかしいことこの上ないでしょうが、琴音にとってはほんの数十年前のできごとであるために違和感は覚えません。


琴音は慌てて布団に額をつけ、更に恭しく頭を下げました。


「そんな、とんでもございません! あたしは清才様に助けられたのです。私の方こそ、大変お世話になりました。――……あれ、しぐれ、さん?」


「はい、時雨さんです」


 どこかで聞いたことがある。一瞬そんな思考が琴音の頭を巡るも、目の前で笑顔を浮かべる男こそが自分の探していた人物であることに気付きます。


「時雨さん!」


 琴音は逃がすまいと、時雨の足首をがっしりと掴みました。


「お願いがございます……!」


「顔、相当怖いですよ」


 帰って来たら少女が部屋の隅で眠っていて、起きたと思えばその少女に足首を掴まれ血走った眼でお願いがあるとせがまれれば、普通の人間は悲鳴をあげて逃げることでしょう。時雨はそんな状況をにこやかに流しました。


 と、廊下から足音が聞こえてきます。足音は真っ直ぐこちらに向かってきていました。


「神主から憑き殺すつもりか」


 開けられた襖から姿を見せたのは、背広姿の薙斗でした。二人の状況を見て、冷静に琴音に問い掛けます。地下迷路で琴音が言ったことを覚えていたようです。


「薙斗! どうして神主が清才様の子孫だって言ってくれなかったの!?」


 探していた人間が時雨だったことは言っていなかったため、神主が時雨だと教えられなかったことはわかるものの、清才の子孫だということは始めに薙斗を清才の生まれ変わりと勘違いした時点で、いくらでも言う機会があったはず。


琴音は重要な情報を教えてくれない薙斗を、腹立たしく思いました。


「なら聞くが、初対面の男に清才の子孫を知っていると言われたらお前は大人しくついて来たのか」


「それは……」


 恐らく、不審がってついて行かなかった。琴音はうぐぐと唸り声をあげました。


「時雨、後は任せた。俺は行ってくる」


「はい、行ってらっしゃい」


「ちょっと、どこ行くの」


「俺が高校教師だということは昨日言っただろう。同じことを言わせるな馬鹿狸」


 薙斗は琴音を見下すと、ぴしゃりと襖を閉めて去って行きました。琴音はその時、憑き殺すとしたらまずは薙斗からと人知れず心に決めたのでした。


「すみませんね。でも、口が悪いだけで中身はそこまで悪い人間じゃないんですよ」


「とてもそんなふうには見えませんね」


 琴音は薙斗が出て行った襖を睨み付けていました。


「一先ず朝食にしませんか。……そんな顔しなくても逃げませんから」


 琴音は渋々承諾し、今の今まで掴んでいた時雨の足首を放しました。すると、時雨が手を差し出してきます。


「足、怪我をしてるんでしょう。薙斗くんが君について大体のことは報告してくれました」


 言われてから思い出した琴音は、包帯で固定された自分の右足を見ました。どうやら薙斗も一応は気遣ってくれているようです。琴音は、礼を述べて時雨の手を取りました。


 洗面所まで案内してくれるという時雨の手を借りて、廊下を歩きます。改めて明るい空間で見る屋敷の中は、埃一つ落ちていないほど清潔でした。


四方に太い丸太のような柱を構えた中庭には井戸があり、その周りには色とりどりの花が咲き乱れています。その花々に、上呂で水をやる和服姿の女の後ろ姿がありました。


「涼香、おはよう」


 琴音が声を掛けると涼香は振り返り、にっこりと微笑みました。やはり何度見ても画になる美しさです。


「琴音ちゃん、おはよう。よく眠れた?」


「僕の部屋でぐっすりでしたよ。おかげで目の保養ができました」


 時雨の言葉を聞いて、琴音は顔を赤くしました。自分の寝顔が見られていたことに、今更ながら羞恥を感じたのです。


「あら、あそこの部屋は気に入らなかったかしら。なら、無能な神主をあそこから追い出して琴音ちゃんのお部屋にしましょうか」


「無能な神主って僕のことですか」


「あんた意外に誰がいるの? まさか自分が有能だとでも思っていたの? 埋めるわよ?」


 花畑の中、笑顔の二人の間には春とはとても思えない、肌を刺すような冷たい空気が流れていました。


「あ、あの、涼香。あたし、あの部屋凄く気に入ったんだけど、お香の匂いがつい懐かしくて、時雨さんの部屋でそのまま寝ちゃったの。ごめんなさい、せっかく用意してくれたのに」


 琴音はこの冷たい空気に耐えられず、恐る恐る涼香に頭を下げました。


「いいのよ、あんな汚い部屋でよかったらいつでも使ってちょうだい。そうだ、朝食の用意、今からするわね」


 涼香は変わらぬ笑顔でこう言うと、そのまま台所へと向かって行きました。その背を眺めながら、琴音はぼそりと呟きます。


「涼香って、怒らせたら絶対怖いタイプですよね」


「見る目がありますね。僕はやたらと包丁や簪を投げつけられます」


「なにをしたんですか」


「嫌われてるんです。洗面所はこっちですよ」


 時雨の口調は、これ以上は聞くなと制しているようでした。一体どんなことをしたら涼香に嫌われるのか。とても気になるところではありましたが、そこは空気を読んで問い詰めないことにしました。


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