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8


 目を開けると、琴音はとある部屋の真ん中で呆然と立ち尽くしていました。ここが夢であるという自覚はありました。なぜなら琴音の目の前に、この世に存在しているはずのない人間がいたからです。


 縁側から差し込む夕日が、依頼人への文を書いている主――清才の手元を照らしていました。清才はこちらを一切向かず、黙々と筆を走らせています。琴音のことは見えていないようでした。


 すると、遠くの方から大きな足音が聞こえてきました。足音は次第に大きくなり、清才の部屋の前までやってきます。


「なんですか、騒々しい」


 清才は足音の主を、迷惑そうに見つめました。この方は、清才の弟子の一人でした。弟子もまた、琴音の方を見ようともせず、清才の方をじっと向いています。表情からして、相当怒っているようでした。


「化け狸を女房として雇うというのは、誠の話でございますか」


「誠です。それがどうかしたのですか」


「清才様、正気でございますか!? あれは妖ですぞ! あんな者をそばに置いておくなど、いつ寝首を掻かれるかわかったものではございません!」


 弟子は清才の目の前へ近づき、今にも掴み掛かりそうな剣幕で怒鳴り散らします。琴音は夢であるとわかっていても、弟子の台詞を聞いて心が握り潰されるような痛みに襲われました。


 琴音はこの日をよく覚えていました。部屋の出入り口に置いてある、質素な几帳を見つめます。


「なにを言い出すのかと思えば……あれはもう、うちの女房ですよ。その女房を雇えと言ったのは貴方ではないですか。妖といえども、あれはただの化け狸です。そう危惧するようなものではありません」


「しかし、我々は妖を退治する者。貴方様はその我々の長なのです。そのような方が妖を連れているなど、下の者たちに示しがつきませぬ!」


 この時代、清才は京に住みつき、人間に悪事を働く妖を退治することと、占いを生業にしていました。妖退治としての腕もよかったのですが、清才の占いは貴族たちからよく当たると好評で、屋敷に呼び出されることもしばしばありました。


時には、陰陽寮に所属する者並に依頼の数が多かったほどで、清才は多くの貴族から信頼されていたのでした。ただ、妖退治よりも占いを優先するようなところがあり、退治依頼者や弟子とは口論になる事が度々ありました。


「……なぜ、我々は妖と敵対しているのでしょうね」


 清才は独り言のようにぽつりと呟きました。弟子はその独り言に対して、さも自信ありげに答えます。


「それは、妖が人間の生活を脅かす存在であるからでございましょう」


「では彼女がいつ、人間の生活を脅かしましたか」


 この台詞を聞いた瞬間、弟子は黙り込みました。琴音は人間に対してなにも悪いことはしていなかったのです。


「貴方が私の身を案じてくれていることには、感謝します。しかし、私は彼女を信じたいのです。貴方たちと同じように」


 琴音はこの時、几帳の裏でたくさん泣きました。人間に悪戯することを拒んだことによって仲間から弾かれ、なにもしていないのに人間から蔑んだ目で見られ続けた琴音は、この言葉でやっと救われたような気がしたのです。


「琴音、立ち聞きとは感心しませんね」


 清才は、几帳の向こうに声を掛けました。琴音はこの時、この家の女房として、弟子に白湯をお出ししようと部屋の前まで来ていました。


しかし、弟子の怒鳴り声を聞いてしまったがために、白湯が入った茶碗を持ったまま几帳の裏からどうしても出て行けず、立ち聞きをする形になってしまったのです。


 少しすると、一匹の狸が几帳の裏から出て来て清才に飛びつきました。この時の琴音は、ただ誰かに信じてもらえたことが嬉しくて、抱き着かずにはいられなかったのです。


そんな琴音を察したのか、清才は咎めることなく、琴音の頭を優しく大きな手の平で撫でました。その時の清才様の手の温もりや、袖から薫る白檀の匂いは、今でも覚えています。


「御免」


 弟子は苦々しく顔を歪めると、静かに清才の部屋から去って行きました。


 清才様は、いつでもあたしの味方だった。


 今考えてみれば、清才様は誰よりも妖と人間との共存を望んでいたように思える。琴音はそんな清才を、陰ながら支えていきたいと思っていました。清才が幸せになること、それが琴音にとって唯一の願いだったのです。


 そのことを改めて思い出すと、急に視界が揺らぎ始めました。清才と狸の姿の自分が遠くなります。琴音は、夢から目覚めました。


 重たい瞼を開けると、長方形に象った木が何枚も平面に横並びしているのが目に飛び込んできました。見慣れない天井。神主の部屋の天井でした。どうやら昨日起きたことは夢じゃなかったらしい。あまり期待はしていなかったものの、自然とため息が漏れます。


 いつの間にか、琴音は布団の中にいました。右を向くと、縁側から差し込む温かな日差しが琴音の顔を照らします。


「……いい天気だなぁ」


「いい天気ですね」


 突然、頭上から聞こえてきた声によって、琴音の微睡みは一瞬にして消し去られました。思わず飛び起きて、声の主を確認します。


「いい反応ですね」


 琴音は和装本を片手に眼鏡を押し上げて、自分をにこやかに眺めている着流し姿の男の顔を知っていました。しかし驚きのあまり声にならず、酸欠の金魚の如くぱくぱくと口を開閉することしかできません。


男は琴音が声を発するまで、にこやかに待ち続けていました。


「せ、せせせ清才様!」


 男は琴音が声を発すると、ぱたんと本を閉じてそれを本棚へ戻しました。


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