1
弐
琴音の行き先を語る前に、また少し時を遡ることと致しましょう。
それは、琴音が現世へと渡った年と同じ、七年前のことでございました。
女はベビー雑誌を手に日の差すソファでくつろぎ、男はコーヒーが入ったカップを持ってその隣に座っていました。女の趣味であるからくり時計が、二人の幸せな時間を一定の速度で刻み続けています。
新築の一戸建て。今の二人には広すぎるくらいでしたが、生まれてくる子どものことを思えば、この広さすらも幸せの一部なのでした。
「ねえ、あなたは女の子と男の子、どちらがいい?」
女は自分の腹に手を当てて、笑顔で男に問います。雑誌に載っているベビー服を見て、女の子物を買うか男の子物を買うかで迷ったようでした。気の早さに、男は苦笑しながら答えます。
「元気に生まれてきてくれさえすれば、どっちだっていいさ」
男は心の底からそう思っていました。自分の子どもが生まれて来てくれる。それだけで十分でした。
これまで、こんなにも幸せを感じたことがあっただろうか。男は自分の閉鎖的な人生を顧みます。
思えば、いつだって親の言いなりだった。親に言われたとおりに勉強し、親に言われたとおりの学校に進学してきた。親の作った道をただ辿っていただけ。
恐らく過去の彼なら、親から窃盗をして来いと言われれば、間違いなく従ったことでしょう。いつからか、刃向う気力すらも失せてしまい、人間とまともに話すことも億劫となっていました。
男のいた世界は、息が詰まるほどに狭苦しかったのです。そんな過去からは、幸せなどというものは一欠片も見出せませんでした。
男は家族というものに、憧れを抱いていました。しかし、同時に恨んでもいました。
――俺は、絶対にあんな親にはならない。
女と出会い、初めて恋慕というものを知った男は自由を手に入れたように思えました。
男は家という名の鳥籠から逃げて、女と共に生きることを選んだのです。そして今、女の腹には自分の子が宿っています。男はこの上ない幸せを噛みしめていました。
「うふふ、男の子はお母さんに懐くって言うけど、あれって本当なのかな。憧れだったのよね、息子に『僕、将来お母さんと結婚する』って言われるの」
子どものように無邪気にはしゃぐ女。
「その時は家族会議だ」
女は嫉妬の表情を隠すようにコーヒーを一口飲む男を見て、くすくすと笑いました。
*
琴音の視界には、透き通るような水色の空が一面に広がっていました。
背にはちくちくとした感触があり、乾いた草と土の匂いがします。しばらく嗅いでいなかった自然の匂いのおかげで少しだけ落ち着きを取り戻した琴音は、ゆっくりと身体を起こし、自分の身体を叩いてみました。
「よし、異常なし」
琴音は静に飛ばされてから、様々な色彩に包まれました。この世に存在するありとあらゆる色彩に包まれたかと思えば、瞬きをしたほんの一瞬、その一瞬の後にはもう現在の場所に寝転んでいたのです。
高い所から落ちたような感覚がありましたが、どうやらどこも怪我はしていないようでした。
ここはいずこと辺りを見回します。琴音がいるのは、小高くなった草原の上でした。横を向けば様々な遊具があり、どこからともなく水の音が聞こえてきます。背後には青々とした小山が凛と佇んでいました。
「公園?」
そこは確かに公園でした。しかし、立派な遊具が設置されているわりに人間が一人も見当たりません。
所々に植えられた早咲きの寒桜が、自身の鮮やかな桃色の花を主張しています。その傍らには、ピクニック用の木製の机とベンチが、虚しく設置されていました。
琴音は近くに落ちていた、自分のハンドバッグと端末を拾い上げました。端末は念のために壊れていないか確認しましたが、問題なく作動されました。琴音は、安心して龍壬に電話をかけます。
『――おかけになった電話は、現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っていない状況です。時間を置いておかけ直しください』
感情の籠らない女の声が、琴音の耳に響きました。琴音は仕方なしに、端末をハンドバッグに入れて水音の聞こえる方へ向かいます。
公園を出ると舗装されていない砂利道があり、その道を挟んだ先に白く塗装された手すりが道なりに設置されていました。更に向こう側には土がむき出しになった田畑が見えます。
手すりの向こうから聞こえる水音の正体は川でした。透き通った水がゆったりと流れていきます。そんな川の中で、大きな黒い鯉が数匹、悠然と尾びれを揺らしていました。
平安の頃にはこんな場所はたくさんあったものだ。琴音は清才と共に馬で鴨川へ散歩に行ったことを思い出していました。
心地のよい風が、琴音の髪を揺らしていきます。それと同じように、草原もさわさわと音を立てて揺れていました。音につられて振り返ると、公園の入り口に大葉城址公園と書かれた石版に刻印された看板が立っているのに気がつきました。
その横には、木製の枠で囲われた解説看板が立っています。近づいて解説看板の内容を読んでみると、現在の穏やかな景色からは想像がつかないような、血生臭い歴史について書かれていました。
安土桃山の頃、大葉城は川に囲まれていたために攻略が難儀な城であった。
そんな大葉城と交戦していた国の兵は、攻め込み口を確保するために小舟で川渡しをしていた女に金を握らせ情報を得た。
しかし、兵は実際に女に川渡しをしてもらい情報が嘘ではないとわかると、直ぐに川渡しの女を斬り捨てた。口封じのためである。
後日、兵は女から得た情報を元に攻め込み、大葉城は落城。その時の戦いでこの地一帯は悲鳴の渦に包まれ、川には犠牲になった者たちの血が流れた。
このことから、川の名は赤音川と呼ばれるようになったのであった。これは、現在の茜川の語源である。
琴音は再び川の方へ視線を向けました。恐らく、その茜川とはこの川の事なのでしょう。しかし、辺りを見回す限り、妖の琴音と同族に近い幽霊の気配はありません。
それにしても、と琴音は自分の腹をさすりました。今日一日なにも口にしていないことを思い出した途端に空腹が蘇ってきたのです。しかし、見渡す限り土がむき出しの田畑。食べ物などどこにもありませんでした。
琴音はコンビニを探そうと歩き始めました。向かう先には立派なマンションが見え、その奥には箱のような形をした白い建物が見えていました。どうやら近くに学校があるようです。
少し歩くと、川に掛かる鉄橋が見えてきました。琴音が歩いている方向の道は道路整備で通行止めになっており、通れそうにありません。しかし、工事をしている人は見当たりませんでした。錆びれた鉄板に書かれた工事終了予定期限は去年になっています。
琴音は鉄橋を渡って川を左手に進み続けました。右手にある田畑の向こうをよく見ると、ガソリンスタンドが見えます。大きな道路があるようで、自動車も絶え間なく横行していました。
人間がきちんと生活をしている場所だということが確認でき、心から安堵しました。
足元の感触の変化に気づき視線を下へ向けると、道は砂利道からタールで整備されたものになっていました。しばらく続いた田畑も終わり、目の前には車が通るような道路が現れます。
その道路を渡った先には、赤いレンガの可愛らしい道が続いていました。レンガ道の入口には『この先通学路。速度落とせ』と書かれた看板が立てられており、先ほど見た白い建物がやはり学校であったことを知りました。
レンガ道を進むと、田畑の代わりに右手に見えるのは洒落た家々でした。さっきいた空間がまるで異世界だったかのように、ここは人間の生活感に満ちています。
そこでようやく、帰宅途中のランドセルを背負った小学生や自転車に乗った中年の女性など人を見掛けるようになりました。
人を見つけた琴音は、時雨について誰かに問おうと思いました。しかし、自分が聞いている時雨の情報があまりに少ないことに改めて気づき、早速項垂れます。
「そもそも時雨さんの性別もわかんないよ」
琴音は龍壬に泣きつきたくなりました。端末をもう一度見てみるも、着信はありません。充電残量のこともあるので、琴音は極力端末を使用しないようにしようと決めました。
こんな時に静でもいてくれたら頼りになるのに。そう思うも、静があの場に残ったのは龍壬を助ける為だったとしたら、静だけに任せるわけにはいかない。そう思い直して歩を進めるのでした。




