ACT1:タオルとチョコと量子力学2
※ユーハ視点です。
やられた、というのが正直な感想だった。
口の中のブラウニーに一杯一杯になっている間に、親指を立てた彼女の姿はすぐに見えなくなり――混乱した俺は一人、部屋に取り残された。
やたらと存在感のある甘い物体を何とか飲み込んで、ソファーに突っ伏す。顔が熱い。きっと、いや間違いなく真っ赤になっているだろう。
見られなくて良かったという思いと同時に、不条理の権化のような彼女への怒りがじわりと湧き出して来た。
いくらなんでも、あれはないだろう、と思う。
しかし厄介な事に、それを声高に主張するには、いくつものハードルを超えねばならないのだ。
まず、彼女が人間でないことが問題だ。誰がどう頑張っても、こうやっていとも簡単に目の前で消えうせる事ができる存在を“人間”とは呼べない。
となると、いくら彼女が殆ど人間に見えるからといって、彼女に人間の常識を求めるのは恐らくは無駄なのだろう。
でも、しかし。
だからといって、年頃の女の子……に限りなく近い見た目をした存在が、こともあろうに食べかけの菓子を異性に渡す、ましてや無理やり口にねじ込んでくるなど、少なくともこの国の貴族階級の常識では決して許される事ではない。兄弟相手ならいざ知らず、婚約者でもない相手にそんなことをしたと知れれば、下手をしなくても結婚できなくなる恐れまである大事件だ。
不衛生だとか失礼だとかそんなことを言いたいのではない。そもそも彼女が精霊やその系統に属する何かであるならば、ただの人間に過ぎない自分よりよっぽど汚れのない、高位の存在であるはずなのだから。
そうではなくて、つまりその、食べかけの菓子ということは唇に一度触れたということになるわけで、それはつまり、それこそ彼女がさっき騒いでいたタオルなんかよりもずっとその、そういう意味での接触と言える訳で……。
無意識に唇を触っていた事に気付いてしまい、自ら泥沼の思考にはまった事を悟る。また耐え難い熱さが顔に上って来て、俺は手近なクッションに何度も頭を打ち付けた。
「はぁ……」
深く深くため息をついて、何とか思考を宥めすかす。
そう、彼女は普通の女の子ではない。もっと高位の存在であって、からかうと面白いからとか、そういう理由で大げさな事を言ったりやったりしているだけだ。食べかけの菓子にした所で、神や精霊が供物の残りを人間に下げ渡すのと同様に考えているか、もしくは人間の常識に疎過ぎて何も考えていないか、そのどちらかだろう。
そうに決まっている。なのに、何故こんなに一々動揺しているのか。理不尽で不可解なこの感情がどうにも苛立たしくて、それをこうしてクッションに当り散らすしかない自分の情けなさが、更に怒りを増幅させる。
さっきも、そうだった。
筆頭騎士になってから、急に女性達に騒がれるようになって――それ自体は仕方のない事だと諦めもしていたし、仲間の騎士達にからかわれるのも慣れてきていたはずだったのに。
何故、彼女にあのカードを読み上げられるのが、あんなに耐え難かったのか。
考えるほどに苛立ちは強まり、ひたすらに不快感が押し寄せてくる。
「――“片付け”、か……」
半ば勢いだったとはいえ、彼女に頼んでしまったということは――この感情も、なんとかして整理をつける必要があるだろう。
ソファーの上でごろりと体の向きを変え、俺は覚悟を決めて目を閉じた。
* * *
思えば、最初から葛藤のようなものはあった。
『筆頭騎士』の肩書きを背負うようになってから一年弱。憧れ、目標としていたはずだったその名の重さは想像以上で、何度も弱音を吐きそうになったし、全てを捨てて逃げ出したくなった事も一度や二度ではない。
それでもやってこられたのは、先代の筆頭騎士でもあるクラウのお陰だ。
騎士団内での人望も厚い彼は、実に男らしく単純明快な“良い奴”で――筆頭騎士の座を俺に蹴落とされたにも関わらず、まるで気にしていないかのように俺に助言をくれ、俺を気遣い、名実共に俺を『筆頭騎士』にしてくれた。
『よぉ、参謀殿に随分舐められてるみたいじゃねぇか。アイツを御すにはちょっとコツが要るんだ、いいか?まず――』
顔を合わせた食堂で、ふとすれ違った訓練場で、得意そうな笑顔と共に披露される助言にどれだけ助けられたことだろう。
上位騎士として順位を上げていく過程を飛ばしてしまった俺にとって、知らない事は山ほどあった。それでもクラウは嫌な顔一つせず、全てを俺に教えてくれた。
何故そんなに俺を気にしてくれるのか。
あの日の手合わせで俺に負けて、筆頭騎士の座を譲り渡した事が悔しくないのか。
聞きたい事は色々あったけれど、それを聞くのは失礼にも感じられて、俺は何度もそれらの質問を飲み込んだ。
今にして思えば、ただ返事を聞くのが怖かったのだと思う。
『やりたくてやっている訳じゃない』『本当はお前なんか嫌いだ』『お前さえいなければ――』と、そう彼の口から直接聞くのが、怖かったのだ。
* * *
女性達が上げる黄色い声のあしらいにも慣れて来た頃、彼女は宿舎に現れた。
詳しい経緯も知らされないまま、彼女は宿舎の住人となり、俺達の生活は一変した。
まず劇的に変わったのは、宿舎の中の様子だ。
女性の目がないのを良い事に荒れ放題だった宿舎の中は、彼女が来てから僅か一週間の間に見違えるように清潔になった。
料理長までがアイロンのかかったエプロンを着けるようになり、カーネル参謀はどこからか発掘してきた花瓶に花を挿し、無精髭を生やした団員は殆どいなくなり、宿舎に満ちていたすえたような匂いが消えた。
いくら“彼女”が女性の姿をしているからといって、ここまでやるか――と思ったものの、規律が守られている事には違いないし、快適になった事は確かだ。俺はこの変化を喜んで受け入れる事にした。
次に団員達の諍いが少しずつ、だが着実に減っていった。
騎士団の規律に縛られているとはいえ、それまで宿舎にひしめいていたのは全て男、しかも腕力に自信のある男ばかりだ。団長や上位騎士達の目の届かない所での暴力沙汰は日常茶飯事、訓練と称した新人虐めから大掛かりな派閥抗争のようなものまで、争いの種は無数にあった。それらの諍いの内の何処までは目を瞑り、何処で歯止めをかけるかというのが、騎士団幹部の仕事の中でかなりの割合を占めていたほど、と言えばその荒れようが伝わるだろうか。
それが日に日に鳴りを潜め、終いには殆ど見られないレベルにまで落ち着いてきた事に気付いた時――しかもその原因が彼女だと知って、俺は正直困惑した。
俺が、良くないと分かっていながら止めようがなかったこと。それどころか、他の歴代筆頭騎士も、いや歴代の団長さえも解決出来なかった問題を、彼女はどうやって解決したのか。
『えっと、その。……何も、してないですけど?』
さり気なく食堂で同席を求めると、彼女は頬を染めて承諾してくれ、俺の質問に小首を傾げつつそう答えてくれた。
はにかむような慎ましい笑顔を俺に見せた彼女の背後――殆ど殺気と呼んでも良いような無数の嫉妬の視線を浴びながら、俺は悟った。
諍いが減った原因は、彼女であるが彼女ではない。彼女に好かれたいという共通目的を持った団員達がどういうわけか結束し、この結果を生んだだけなのだと。
大の男が揃いも揃って、一人の少女を相手にこれか――と苛立ちにも似た何かを感じたが、俺は笑顔でそれを隠した。騎士団という組織が理想とも言える形に収まった事は事実なのだ。その要因が何であれ、変化そのものは望ましい。
彼女に迂闊に近付いてはならないと、ただそれだけを肝に銘じ、俺は急いでその場を立ち去った。
やがて、彼女が“片付け”ができるという噂が広がり、団員達は夜な夜な彼女の元に長蛇の列を作ったが――俺は見ない振りをした。
その内に彼女が甘いもの好きだという噂が広がり、団員達は非番の日に菓子を買い漁るようになったが――俺はそこでも、見て見ぬ振りをした。
彼女がいつ、どこにいるか。誰と親しいか。カーネル参謀のマシンガントークにつき合わされて困っているらしい、酒場には顔を出すが酒は飲まないらしい、煙草を吸っていても別に気にしないらしい、昨日は誰それに手を振っていた、子犬に追いかけられて半泣きだった……彼女にまつわる噂話が団員達の共通言語になり、何処にいても何をしていても彼女の話が耳に入る。そんな状態になっても、俺は不干渉を貫いていた。
* * *
『……あの。それ、捨てちゃうんですか?』
そう彼女に話しかけられたのは、女性達から手渡された大量の手紙やプレゼントを、焼却炉に放り込んでいたときだ。
何が言いたいのかと首を傾げた俺に、彼女は必死さを感じさせる目で、懸命に説得を始めた。
曰く、資源の無駄である。手紙はともかくプレゼントは勿体無さすぎてお化けが出る。俺自身が必要なくても、せめて隊員に配るなどして処理すべきだ。なんなら自分が食べるから譲って欲しい。
曰く、手紙やメッセージも、最低一度は目を通すべきである。そこには女性達の崇高な思いが込められている。読んだ後なら処分しても構わないが、読みもせずに火にくべるのは紳士としてあるまじき行為である。
そんな事を懇々と諭してくる彼女に、『俺は忙しい、何故お前にそんな事を言われなくてはならないのか』と喚き散らすのを我慢するのは大変だった。
彼女は何も知らないのだ、彼女を怒鳴りつければきっと泣かれる、女性を泣かすのは騎士として避けねばならないし、他の団員達の怒りを買う――と、ただそれだけを考えて耐えていた俺だったが、恐らく表情に出ていたのだろう。
彼女は不意に“片付け”を提案してきて、気付けば俺は首を縦に振っていた。
毒気を抜かれて呆けている内に彼女はさっさとそれをやり遂げ、大量のプレゼントを全て持ち去っていった。
筆頭騎士としての職務をこなす事に頭が一杯で、女性達の事にまで神経を割く余裕がなかった。妙にスッキリした頭でその事に気付かされてしまった俺は、彼女の言に従わざるを得ず――それから俺は、受け取った手紙やプレゼントの山を毎回部屋に持ち帰るようになった。
とはいえ、訓練や模擬試合を見に来る女性達の数は増える一方。手渡される物の量も増える一方だ。
整理しきれず、八つ当たり気味に彼女に押し付けるということを繰り返す内に、彼女は定期的に俺の部屋に来てくれるようになり、部屋が片付くなら良いかと、俺はそれを受け入れる事にした。
菓子を沢山持ち帰ると、彼女は嬉しそうに食べ、得意げに他の団員達に配りにいく。
その様子を思い出せば、どこか負担に感じて苦痛だった手紙もプレゼントも、逆に楽しみにさえなっていた。
『何だ、まんざらでもなさそうだな。吹っ切れたのか?』
『別に……皆も食べるんだし、どうせなら笑顔で受け取ろうかなって』
『お!さっすが、分かってんじゃねぇか。俺らのためにもよろしく頼むぜ、ごっそさん!』
カラカラと笑うクラウにも手伝ってもらって、荷物を部屋に持ち帰り、ミコに仕分けをしてもらう。
些細だけれど大きな変化が、俺の中にも起こっていて……それは好ましいものに思えていた。
* * *
なのに――だ。
『ゆっ、ゆゆユーハ様!……そ、そそそ、その……』
今日の模擬試合の後、いつものように女性達に取り囲まれて――その内の一人、若草色のドレスを着た女性に手を差し出された時、俺は何も考えずにその手を取って口付けた。
結局は、自覚が足りなかったという事かもしれない。それがあんな事態を引き起こすとは思ってもみなかったし、例えば誰かに忠告されていたとしても、俺は多分信じなかっただろう。
まず、若草色が卒倒しかかり、その場に崩れ落ちた。
次の瞬間、近くにいた女性達が悲鳴を上げ、瞬く間に恐ろしいまでの人数が若草色を取り囲んだ。
華やかに着飾った令嬢や貴婦人達が、戦場の兵士をも凌駕するような殺気を放って、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかける様はただひたすらに恐ろしかった。
一体どうやったのか、駆けつけてくれたクラウがその場を納めてくれたのだが――本当に失神してしまった若草色の女性を医務室へと運びながら、クラウは俺に言った。
『――馬鹿かてめぇ、やりすぎなんだよ。ちったぁ相手のことも考えろボケが』
言われて当然の台詞だと思う。俺がクラウの立場でも、きっとそう言ったはずだ。
しかしその言葉は深く深く俺の中に突き刺さり――ここしばらくは息を潜めていたはずの黒い感情に、俺は呆気なく飲み込まれた。
* * *
ぼすん、とソファーに後頭部を打ち付け、ごろりと体の向きを変えると、低いテーブルの上のカードが目に入る。
先ほど、彼女が読み上げようとした所を取り上げた、あのカードだ。
はぁ、と思わずため息が零れた。
クラウの言った通りだ。
俺は本当に、相手の事など何も考えていなかった。
騎士として、貴族としての礼儀に則っただけだと、そう言い訳する事は出来る。
ただの挨拶に過ぎないはずの手への口付けが、あんな事態を引き起こすなどとは思わなかった。それは本当だ。
でも、どう言い訳した所で“相手のことを考えていなかった”事は俺自身が一番よく知っている。
あの女性達は俺にとって、ただのプレゼントの山と同義だった。
自分はそんなに思いやりに欠けた人間だったのか。
クラウに言われるまでそれに気付かないほど傲慢だったのか。
ミコに指摘される前――プレゼントを捨てていた頃の方がまだマシだったように思う。
少なくとも、女性達から向けられる感情が重くて受け止めきれなくて、だから捨てているという自覚はあったし、罪悪感もあった。
なのに、プレゼントをきちんと受け取るようになってからの方が、逆に女性達の気持ちを蔑ろにしていたとは、皮肉にも程がある。
もう、プレゼントを受け取る事そのものを止めようか。面と向かって突き返して、悪評が流れるならそれでもいい。俺には人の上に立つ資格はなく、従ってこんなものを受け取る資格もないのだから。
罪悪感が瞬く間に自己嫌悪へと摩り替わる。
こんな冷血の人でなしが筆頭騎士など、許されるはずがない。
あんなに望んで、憧れて、努力して、そうして手に入れたはずの肩書きなのに、今はただただ鬱陶しくてたまらない。
今からでもクラウに返してしまおうか。そうすれば丸く収まるのか。そうすれば――もう、こんな風に悩まなくても済むのだろうか。
そんな事を考えながら、腕を伸ばしてカードを手に取る。
綺麗な透かし模様の入った紙、花の香りがつけられたそれを開き、ありきたりな文章をなんともなしに読み下して――その中の一行に目を留めた瞬間、俺は頭を殴られたような衝撃に襲われた。
“貴方の笑顔を見る栄誉に比べれば、この世の全ては私にとって無価値も同然と言える程――貴方をお慕いしております”
丁寧な字で書かれたその一行は、俺に向けられた言葉でありながら、俺自身の行動原理を何よりも端的に示していた。
それに気付いた瞬間、どす黒く渦を巻いていた感情が跡形もなく消えていく。
代わりにどうしようもない程の笑いがこみ上げてきて、俺はソファーの上で腹を抱えて笑うしかない。
簡単な事だった。
何故気付かなかったのか、そんな自分の馬鹿さ加減がまた可笑しくて、俺は涙を零しながら尚も笑い転げ続ける。
――俺は、ミコに恋をしていたのだ。他の騎士達と同じように。
ミコが嬉しそうに荷物を仕分けるのが見たくて、ミコが美味しそうにお菓子を食べるのを見たくて、ミコが俺の部屋に頻繁に訪れるのが楽しみで、そのためだけに女性達に愛想を振りまいていたから、女性達の気持ちを平気で無視できた。
ただ、それだけだったのだ。
笑いすぎて腹筋が痛い。
“ミコの笑顔に比べれば、他は全て無価値も同然”――これを恋と呼ばずして、何と言うのだろう。
恋は人を盲目にするというが、確かにそうだ。
ひー、ひー、と無様に呼吸を整えながら、俺の心はこれ以上ないほどすっきりしていた。
どす黒かった感情は、いつの間にか綺麗に消えていた。
代わりに、誇りとでも呼ぶべきものと、団長や他の団員達、そしてクラウへの恩義と感謝が、自分の中にしっかりと根付いているのを感じる。
筆頭騎士の肩書きが重いと感じるなら、それに似合う人間になろう。
クラウが悔しがっているようなら、いつでも再戦を受けよう。クラウが俺を認めてくれるまでしぶとく教えを請いながら、クラウよりも立派に職務を果たしてみせよう。
クラウにもしも嫌われているようなら――好かれるように、努力しよう。
まだ舌に残る甘い味に頬を緩ませながら、俺はメッセージカードの送り主に感謝する。
直接礼を言うとまた騒ぎになりかねないし、妙な誤解を生んでも困る。何かを返すのも憚られるが……せめて彼女の事は、忘れずにいようと思う。
「……さて。そろそろかな」
まだ苦しい腹の辺りを撫でながら、俺はお茶を入れる準備のために立ち上がった。
俺の気分がここまでスッキリしたからには、“片付け”ももうすぐ終わるはずだ。
彼女の笑顔を一つでも多く見るために出来る事はしておこうと湯を沸かし、さっきの菓子の箱をテーブルに置いた時。
「――そうだ」
ぽん、と脳裏に一つの悪戯が思い浮かんだ。
ミコの手に口づけをしたら――彼女はどんな反応を見せるだろうか。
まさか卒倒はしないだろうが、もしかしたらさっきの菓子の意趣返しぐらいにはなるかもしれない。挑戦する価値はありそうだ。
再び湧き上がる笑いを噛み殺しながら、俺はミコの帰りを待った。