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ACT4:奇跡の秘宝と役者魂

 

「――ということがあったんですよユーハさん」


「なるほど、フォックスらしいと言えばフォックスらしいね……で、ミコ。さりげなく僕のベッドからシーツを持って行こうとするのは止めて欲しいんだけど」


「まぁまぁいいじゃん、減るもんじゃなし」


「減るから!最近めちゃくちゃ減ってて困ってるから!最近リネン担当の事務局の人に謝り倒してるから!」



 治癒魔術をフォックスに止められた話をしつつ、隙を突いてトレジャーハントを始めたところを、部屋着姿のユーハに見事に阻止されてしまった。言うまでもないがユーハの部屋での出来事である。

 てへっと笑って誤魔化そうとしたものの、そうは問屋がおろさないらしい。懇々とというよりもむしろ切々と続くユーハの説得に根負けし、私は仕方なく、今まで持ち出した分の返却を約束してお説教から開放される。



「それにしても、妨害魔法ってかけられるとあんな感じになるんだね。知らなかったー」



 定位置のソファーに陣取って、いつものようにお菓子をつまみながら呟くと、隣に座るユーハの眉間に皺が寄った。うん、そういう貴公子らしからぬ表情も意外と男っぽくていいかもしれない。



「……妨害魔法、かけられたの?フォックスに?」


「うん、抵抗できてたらしいけど」


「どんな魔法?」


「いや、具体的には聞いてないから分からないけど」



 いつになく身を乗り出してきたユーハの漆黒の瞳が、どんどん鋭さを増していく。希代のイケメン騎士と至近距離なのは嬉しいが、全く持って甘いムードでないどころか、むしろ怖い。あれ?妨害魔法の話は黙っとくべきだった?



「でも結局途中で止めてくれたから、別に何も起こらなかったし……その、治癒魔術諦めさせたくてつい、って言ってたし、その後ちゃんと謝ってもらったし……」


「……ふぅん」



 慌ててフォローを入れるが、ユーハの反応は芳しくない。納得しているのかしていないのか、どこか鋭い目つきのままで、今度は私の目をじっと見つめている。


「……」



 たっぷり十秒はそうしていただろうか。感情が全く読めない視線に晒されて、私の背中に脂汗が流れ落ちた頃、ユーハはようやく口を開いた。



「ミコが治癒魔術を使うのは危険、っていう話だけど――治癒魔術をかけられるのはどうなのか、フォックスは何か言ってた?」


「え?……いや、何も聞いてないけど……」


「そう。……でも、妨害魔法をかけても大丈夫と判断したんだ。なら、問題ないはずだよな……」



 口元に手を当ててぶつぶつと呟きながら、ユーハは険しい表情のままで何事か考え込む。やがて何かの結論が出たらしく、うんと頷いて黒耀の瞳がずいっと更に近付いた。



「えっと……あの、ユーハ?」


「ミコ。ちょっと目を閉じてて」



 ユーハの長く綺麗な――しかし男らしさを失わない指先が、ついっと私の顎を持ち上げる。ここまで間近に見ても毛穴の一つも見られない、きめ細やかで色白の肌と、リップクリームもないだろうに、つやつやぷるぷるの薄紅色の唇が近づいて来て――って、これはアレか、顎クイか!ちょっと待って、まさかこのまま、二十数年守り抜いてきた私の唇の純潔が汚されるのか!

 いやしかし相手はこの上ないイケメン筆頭騎士のユーハだ。考えてみれば物凄くお得な状況なんじゃないか、ここは受け入れるべきか私。いや待て騙されるな、こう見えてユーハは騎士の誓いのキスで乙女心を弄ぶようなけしからん奴だ、今度だって何を考えているか――



 と、私のパニックが顔に出ていたのか、ユーハがちょっと目を逸らしてコホンと咳払いをした。心なしか、白皙の頬に赤みが差している。



「――あの、ごめん。大丈夫そうだけど念のため、妨害魔法の影響を除去する魔法を使うから……大人しく目を閉じてくれる?……その、変な事はしないって約束する」


「あ、あああのそうだよねそうだよね!うんごめんちょっといきなりだったからびっくりして!」


「うん、俺も説明しなかったのが悪かったから、とりあえず悪いんだけど黙って目を閉じて。あともし痛かったり気分が悪くなったりしたら、すぐ言って」


「はい分かりました仰せのままに!」



 うっわー恥ずかしい。脳内妄想垂れ流しな日常を送っているし、その辺は別に良いんだけど、具体的に今ユーハの取った行動をピンクな脳みそで勘違いした、しかもその事実を本人にばっちり気付かれて、しかもちょっと気まずい思いをさせたという所が壊滅的に恥ずかしい。うっわー。ないわーマジでないわー。


 光の速さで穴を掘り、数千年後に化石になって発掘されたい気持ちを必死で押さえ込んで、私はとにかく必死に目を瞑る。どうやってこの失態をなかったことにすればいいのか、それとも気にしなければいいのか。気にしないってどうやって?


 考えない事にするためには、何か別のことを考えて上書きするのが一番有効だ、しかし今この瞬間も顎にはユーハの指がかかっているままだし、目を開けたらきっと至近距離に秀麗な顔があるに違いなく、それを見たら最後、私は乙女脳に従って目の前のイケメンを押し倒したりするかもしれない。いや、しないだろうとは思う、思うのだがちょっと自信がないというか、今私のために何らかの魔法を唱えてくれているらしいそのユーハに対して、二次元的な欲求をぶつけるのは、どう考えても失礼に過ぎる。


 でも、何と言っても顎クイ状態なのだ。壁ドンとのツートップで古今東西、乙女心をガッチリとホールドしてきた強豪も強豪、瞬発力では他の追随を許さない萌えシチュエーションである。非の打ち所のないイケメン、しかも部屋着、そして私室。この状況に耐えられるだけの克己心など私にあるはずがあろうか、いやない。



「――いいよ、目を開けて」



 念のため三秒ほど数えてから目を開けると、ユーハはソファーに座り直すところだった。残念だという気持ちよりも先に安堵に包まれ、私はぜーはーと呼吸を繰り返す。気付かない内に、文字通り息を詰めてしまっていたらしい。



「大丈夫?どこか苦しい?」


「あーいやいや全然大丈夫。勝手に息止めてただけだから」



 ユーハとの距離を慎重に目測しつつ、テーブルの上のお茶のカップに手を伸ばす。……うん、大丈夫だ。大分落ち着いてきた。



「それなら大丈夫そうだね。――それと、もう一つ聞いておきたいんだけど。フォックスと話してたときって、それ、付けてた?」



 ユーハが指差す先は、私の左腕。この間ユーハに手ずからもらった、超プレミアものの革製のバングルがはまっている。



「うん。あれからずっと付けたままだし」



 正直に答えると、ユーハの口角が僅かに上がり、すぐに元に戻った。何だろうと思うよりも先に、先ほどと同じ、有無を言わせない響きでユーハの声が続けられる。



「分かった。悪いんだけど、それ一回返してくれる?」


「え、返すって……どうしても?家宝なんだけど……」



 思わず左腕を背中に隠すと、ユーハがふっと頬を緩めた。途端に“筆頭騎士”の凛々しさが消え、普通の――といっても超絶美形の――少年の顔になる。



「“一回”返してもらうだけだよ。もうそれはミコのものだし、二、三日でまた渡せるようにするから」


「……いいけど、どうして?」



 そもそもの持ち主本人にそう言われては仕方がない。渋々同意したものの、このお宝――この世界にネットオークションがあったなら、どれほどの値段がつくか想像も出来ない――を手放すのはどうも不安だ。せめて理由を聞かねば納得できぬという意思表示を込めて、じっとユーハを見ていると、何やら首の後ろに手を回した後、すっと手の平が差し出される。



「これが担保。そっちがない間、代わりにつけてて」


「え!?」



 ユーハの意外と大きい手の平に乗っていたのは、信じがたい事にバングルを凌ぐ、超・超プレミアものだった。



「ちょ、これ!あれだよね、いつもつけてる奴!ユーハの親衛隊ファンが王国中の宝石屋から魔道具店まで総動員で探しまくったけど、同じものは遂に見つけられなかったっていう……!」


「? 確かに普通に売ってる物じゃないかも。家から持たされてる奴なんだけど……」



 迂闊に手を伸ばすのも憚られる秘宝。美貌の最年少筆頭騎士・ユーハのトレードマークとも言えるペンダントである。不思議な色をした薄い石の板のようなものに、これまた謎の素材の紐のようなものが通されている。石には魔方陣だろうか、よく分からない模様が描かれて、魔法の知識などさっぱりない私にも、何か特別なものなのだろうと思わせるオーラを放っていた。

 ユーハがいつも身につけているものは他にもあるかもしれないが、このペンダントは別格だ。ユーハのことを少しでも知っているものなら、このペンダントのことは覚えているはず――それほどまでに人の目を惹きつける、不思議で特徴的な石。ユーハのストーカー、もといフォロワーとしての私の勘が告げる、これはヤバい。左腕のバングルの時点で、気の弱いご婦人なら卒倒しかねないだけの価値があるが、こんなものを預かって、不用意に外を出歩いたりしたら……



「……いや、いくらなんでも流石にこれは借りられないよ、ユーハの親衛隊ファンに見られたら、間違いなく八つ裂きにされる」


「服の下にでも隠してれば大丈夫じゃない?それに、これには結構強い防衛魔法がかかってるから、ちょっとした嫌がらせぐらいだったら弾けると思う」


「いやいや、例え物理的に大丈夫でも社会的に抹殺されるよ。……とりあえず、担保はいいから、バングルは普通に返すから」



 恐ろしい未来予想図に思わず背筋を凍らせながら、とにかくバングルを外してユーハに渡す。しかし、バングルを受け取ったユーハは、ペンダントをもう一度、ずいっと私に押し付けてきた。



「いや、バングルがない間、これを是非持ってて欲しい。失くしさえしなければ、別に首にかけてなくてもいいから」


「いや、そこまでしなくてもいいよ、大丈夫だよ。バングル返してくれるのは分かったし――」



 内心冷や汗を垂らしつつ、ぶんぶんと首を振って一生懸命固辞するが、ユーハの方も引くつもりはないらしい。半ば無理やりに手に握らされてしまい、私はどうしようと途方に暮れた。


 ユーハファンなら、全財産を投げ打ってでも手に入れたいと思うだろう、このお宝を預かるとあれば、どこかに置いておくなどと恐ろしい事は出来るわけもない。かといって人に――騎士達ならいざしらず、ユーハのファンに見られたら最後だ。バングルが戻ってくるまで、私はこれを握って屋根裏にでも隠れているしかないだろうか。手の中の小さなペンダントの重みが、ずっしりと両肩にのしかかってくるような気さえする。



「――とにかく、すぐ手の届くところに持ってて。それと、大丈夫だとは思うけどフォックスと二人きりになった時は、服の上からでもいいからこれを触るか、できれば握ってること。分かった?」


「……え、フォックス?……って、ちょっと待って、いくらなんでもそれはないでしょ!?」



 ようやく話が繋がり、私の顔から一気に血の気が引いた。

 プレミア感に呆然としていたが、それどころではない。要するに、ユーハはこう言っているのだ。


 “フォックスは危険だ、また妨害魔法をかけてくるかもしれない。対抗手段として、強力な防衛魔法がかかっているこのペンダントを持っておけ”、と。



「あくまでも念のためだよ、ミコ。この間も言ったけど、こっちのバングルには軽い精神系の防衛魔法が仕込まれてる。いい機会だし少し強化しておくから、その間……」


「ユーハ、私の言い方が悪かったかもしれないけど、フォックスは絶対そんなこと――」


「でも、ミコに思考誘導をかけようとした。違う?」



 言われて、ぐっと言葉に詰まる。それは違うと言いたいのだが、上手くユーハを説得できそうな言葉は見つからない。


 でも、違う。絶対違う。いつもの、ふにゃりとしたフォックスの無邪気な笑顔が脳裏に浮かび、それが続けてニヤリという笑みになる。何かを腹の中で計算しているような所は確かにあるかもしれないが、でもそれだって私の守備範囲から外れたわけではない。むしろ若干ツンデレ好きの毛のある私としては、単純に可愛いだけの年下少年よりも――って、そうじゃなくて!



 私がうっかり妨害魔法の事を話してしまったせいで、フォックスが何か騎士団的にマズい事になったりしたらどうしよう。見た目や立ち位置の割にはリアクションが面白いので忘れがちだが、ユーハは何と言っても王国騎士団筆頭騎士で、団長の信頼も厚い。

 そもそもユーハが一言、フォックスの事を何か吹き込めば、恐るべき親衛隊の魔の手が新月の夜道を歩くフォックスの背中に襲い掛かり、気配を感じて振り向くフォックスの喉元から赤い血が――



「ダメ!やめてお願いだからフォックスを殺さないで!」


「いやいやいやいや、何考えたのか知らないけど間違いなくそんな事には絶対ならないから」


「フォックス避けて!逃げるなら人通りの多いところに、裏路地はダメ、そっちにも敵が!」


「あのー、ミコ。頼むからちょっと落ち着いて」


「フォックスー!私が馬鹿なせいでこんな所で死んでしまうなんて、フォックスー!」


「もしもし、聞こえてる?もしもーし、ミコさーん?」



 私の妄想はフォックスの三回忌まで続き、終わるまでの間にユーハは夕食とストレッチと風呂を済ませていた。私の女優としてのプライドはともかく、ユーハにはそこそこ面白かったというコメントをもらったので良しとしよう。



 * * *



「……で。今度は少し落ち着いて、俺の話を聞いてくれると助かるんだけど」


「大っっ変申し訳ございませんでした!」



 深々と土下座すると、ユーハは濡れた髪をタオルでわしわしと拭きながら「話が続かないから、とにかく座って」と促した。言われるままにソファーに座る。



「とにかく、フォックスを多少疑ってるのは認めるけど、ミコが思ってるみたいな方向じゃないと思うよ。少なくとも騎士団として、フォックスは手放したくない優秀な人材だし、信頼に値する人物だってことは俺だって知ってる」


「じゃあ、何で?」



 聞き返すと、ユーハはうーんと唸って頭を抱える。お風呂上りのうなじがシャツから覗いて、実に色っぽい。白い肌が微かに上気しているのに加えて、水気を帯びた黒髪と、浮かび上がる首の筋とのコントラストが絶妙だ。

 思わず生唾を飲み込みながら、脳内の画像フォルダに激写したデータを保存する作業に集中していると、やがてユーハが呻くように言った。



「……男のカン、って言葉じゃ納得してくれないかなぁ……」


「ごめん、さっぱり分からない」



 正直に断言すると、ユーハは大げさなため息をついて顔を上げ、渋々、という感じでぼそぼそと話し始める。



「まず、俺から見て……フォックスは見た目通りの、素直で可愛いだけの奴じゃないってことは何となく分かってた」


「あ、そうなんだ」


「そうじゃなければカーネルの下で、あの若さであんなに上手くやれるわけがないよ。多分団長とかクラウとか、騎士団でも大体の奴は分かってると思う。分かっててもフォックスが優秀なのは事実だし、努力もしてるし、皆のために動いてくれてる。信頼できる子だって、皆そう思ってるよ」


「それなら、別に妨害魔法の一つや二つ、そんなに警戒しなくても……かかった所で、フォックスなら、そんなに悪いようにはしないでしょ?」


「ある意味そうだけど、そうじゃない。そうじゃないんだよ。あーもう、何て言えば分かってくれるかな……」



 ソファーに座ったまま自分の膝に突っ伏すようにして、ユーハはがしがしと髪を掻き毟る。いつも冷静で穏やかなユーハとしては本当にレアな光景だ。とはいえ、どうやら自分が馬鹿なせいで、説明に困っているらしいことぐらいは私にも分かるので、どうにも申し訳ない気持ちになってくる。



「――あー、俺ももうちょっと妨害魔法上手く使えたらなぁ……」



 何やら聞き捨てならない台詞を呟いたユーハは、突然ピタリと動きを止めた。

 何か思いついたのか、まだうっすらと濡れている髪を手ぐしで整え、ぐにぐにと顔のマッサージを始める。



「……ユーハ、どうしたの?」



 おずおずと声をかけると、ユーハは決意に満ちた顔で一つ頷き、私のほうに身体を向けた。あー、あー、ゴホン、と声を出したり咳払いをした後、ゆっくりと深呼吸。続いて俯き、十分な間を取った後、ゆっくりと顔を上げて――



「……ミコ。確認なんだけど、ミコは僕のファン、ってことでいいんだよね?」



 やや上目遣いに見つめる漆黒の瞳に、私は息を呑んだ。そのオーラは、数瞬前までとは全く違う。そう、ここにいるのは王国騎士団筆頭騎士であるユーハ・フルフリッジだ。国中の女性の賞賛と羨望、憧憬と恋慕を一身に集めながら、剣と魔法で騎士団一の強さを誇る、美貌の騎士。



「う、うん。そう、だね」


「それじゃ、僕のお願いを聞いて欲しいんだけど――」



 出来の悪い人形のようにコクコクと頷く私の手を取って、ユーハはにっこりと微笑んだ。私が見る限り、ここ数ヶ月の間で一番と言っても良い極上の“貴公子らしい”笑顔だ。瞬間、ユーハの背後に光が差す。その光は燦然と輝き、ダイヤモンドダストのようにキラキラと煌きながら、私の視界と思考回路を瞬く間に埋め尽くした。



「一つ目は、バングルを僕が返すまでの間、ペンダントを僕だと思って、肌身離さず身につけておくこと」


「はは、はいっ」



 少女漫画のワンシーンのように白く輝く世界の中で、薔薇が咲き誇り、ハトが飛ぶ。

 部屋の中のはずなのに何故?という疑問がチラリと脳裏を掠めるが、私はもう何も考える事さえ出来なくなっていた。

 ユーハが微笑んでいる、それよりも優先すべきことなどこの世界にあるだろうか。そう、そんなものはありはしない。私が今するべきことは、この目の前の美貌の騎士をただ見つめること。そしてその彼が何かを願っているのだ、それが私に叶えられる事であるなら、何を差し置いてもその願いを叶える必要がある。美しさは正義であり、美しいユーハもまた正義。これは自然の摂理であり、即ちこの惑星ほしの宿命であり、つまり、あまねく宇宙を司る意志――!



「二つ目。フォックスと二人きりで話すような時は、服越しで構わないから、ペンダントに触れていること。君の心が、僕以外の誰かに無理やり奪われることのないようにしたいんだ。……僕の勝手な我侭だけど――」


「わ、我侭なんてとんでもないっ。もちろんそうします!」



 ユーハの微笑は、柔らかい慈愛に満ちていながらも、どこか切なげで、苦しげでさえある。嗚呼、この美しい人を悩ませるなどあってはならない。私はもう迷うことなく、むしろ食い気味にはっきりと約束する。一刻も早く彼の憂いが取り除かれるようにと、ただそれだけを願って。どんな代償を払おうとも、可及的速やかに障害を排除せねばならない。彼の憂いは私の憂い、世界の憂い、神の憂いなのだから。



「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」



 手の中に握っていたペンダントがユーハの手に渡り、流れるような動作で私の首にかけられる。続けて耳の側で囁かれる声の、何と甘いことか。脳髄が痺れ、脊髄が痺れ、体中に浮遊感が広がる。フローラルなピンクに染まった世界でふわりと優雅に微笑みながら、ユーハは私に、そっと部屋から出るよう促した。



「それじゃ、もう遅いから気をつけて部屋に戻って。おやすみ、ミコ――僕の大切な人」


 ユーハの、これまで聞いたことも無いほど優しく甘い囁きが耳の中で反響する。私はよろよろと覚束ない足取りでユーハの部屋を出て――気がつけば自室に帰っていた。どこをどう歩いたのかも定かではない。卒倒しなかった事だけは自分を誉めてやる必要があるだろう。

 ユーハ、実に恐ろしい男だ。私はただそれだけを思い、貴公子の微笑と甘い言葉と、煌くオーラと薔薇とハトに頭の中を染め上げられたまま、世界一幸福な眠りについた。



 * * *



 ――その後。


 奇声を発しながら部屋中のものを投げ、殴り、あろうことか魔法まで繰り出して暴れるユーハを、クラウをはじめとした上位騎士が総出で取り押さえ、なんとか宿舎の全壊を免れる、という事件が勃発した。


 騎士団幹部が頭を抱え、ユーハが後日、大量の始末書の処理に追われることになったこの珍事は、その後しばらく“貴公子の乱心”として騎士団内外で語り継がれ、ファン達を心底心配させることになるのだが……その詳細を私が知るのは、まだまだ先のことである。


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