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「起立、礼」
挨拶をし終えた途端、皆は机を下げると、賑やかに話をしながら教室を出て行く。
私は箒を手にし、小さくため息をつく。
「明日から夏休みって言っても、どうせ文化祭の準備で来なきゃいけないんだよね」
そう言うと、友達の絵里が笑った。
黒髪のショートカットがよく似合っており、可愛らしい顔立ちをしている。運動神経も良い。男子からの評判も良いらしいが、当の本人はそういうのにはまったく興味がないらしい。
「青葉は文化祭だけでしょ? 別にいいじゃん。私なんか、部活もあるし」
「お疲れ様です」
絵里はバスケットボール部に入っていた。活躍しているらしく、私も一度は大会を見に行くべきなのだろうか。
一方、私はバドミントン部に入っていたが――
「え、何? お前、いつの間に部活やめたの?」
そう言ってきたのは、関根だった。どこにでもいそうな、ただのクラスメイトだ。彼もまたバスケットボール部に入っており、忙しい毎日を送っている。
関根の隣には、彼の友達である伊勢谷がいた。なかなかのイケメンだが、彼女はいないという。
「結構前にやめた。顧問が嫌いでさ」
「ふーん」
質問をしてきた割に、興味はないらしい。
「ま、そっちの方がいいんじゃねぇの。部活なんて、やる意味ないだろ」
運動神経はいいくせに帰宅部の伊勢谷が、欠伸をしながらそう言った。
私含め、この四人は仲が良く、共に行動することも多かった。今年の夏休みはどこかへ行こうと、皆思っているに違いない。
掃除を終わらせ、私は部活に行くという絵里と関根とは途中で別れ、伊勢谷と家路を歩く。
去年の春、ここへ越してきたときには、あまりの田舎っぷりに苦笑を浮かべてしまうほど、この景色に驚いたものだった。
人通りも店も少なく、山肌がすぐそこに見える。古くからありそうな日本家屋が立ち並んでいて、大学へ進学をする時は一人暮らしをしようと、そう心に誓ったのだった。
けれど、慣れてみればここもそう悪いところではない。空は綺麗で、景色もなかなかのものだ。
「夏休み、どっか行こうな」
唐突に伊勢谷が言う。
「そうだね、どこ行こうか。ていうか、ここら辺、遊べるところあるの?」
「川とかは、腐るほどあるけど」
「どうせなら海がいいかも」
笑みを浮かべ、私はそう言った。
他愛ない会話をし、伊勢谷とは途中の別れ道で別れる。
暑い日差しを浴びながら、一人でぽつぽつと歩いていると、ふと、森の奥へと向かう小道が視界に入る。
毎日、学校への往復をするたび、この道の横を通るのだが、何か頭に引っかかるものがあった。
もしかしたら、私は一度ここへ来たことがあるのかもしれない。根拠などないが、頭の隅ではそう思っている。
ここに引っ越してきたから気になってはいたものの、なかなか足を踏み入れる気にはならなかった。しかし、半年前くらいに――雪が降った翌日、年がいもなく雪にはしゃいでしまった私は、この小道にも足を踏み入れたのだった。
あたりは静かで、自分の息遣いしか聞こえず、歩いているうちに、だんだんと不安になり――早々に引き返したのだった。この先に行けば、戻ってこれないような、そんな気がしたのだ。
「……」
足を止め、その小道を眺める。
もう一度、足を踏み入れたい気持ちはある。しかし、どうにもその一歩が踏み出せない。
――そういえば、今は何時なのだろう。
ふと、そう思い、スクールバッグから腕時計を取り出す。
この時計は去年の誕生日に買ってもらったものだが、腕につけるのがどうにも苦手で、こうしていつも鞄の中へ入れているのだ。
時計は一時を示していた。
ちんたら掃除をしていたせいか、随分と時間がたってしまった。過保護な母親が、心配するかもしれない。
そう思い、歩きだそうとしたのだが――猫の鳴き声が聞こえ、思わず足を止めた。
足元に、小柄な黒猫がいた。私をじっと見つめ、にゃあと鳴く。
――か、可愛い。
私はしゃがんで、猫をなでた。
「……首輪、ついてない」
ぽつりと、そうつぶやく。
じゃあ、この猫は野良猫なのか。……か、飼いたい! いや、でもだめだ。そんなお金は我が家にない。
諦めて立ち去ろうと、ゆっくりと立ち上がったその瞬間。
「なっ――!」
その黒猫は、いきなり私の手元へと高くジャンプをし、流れるような動作で森の小道へと入って行く。
「……び、びっくりした」
その後ろ姿を見送りながら、ため息交じりにそう言った。
まったく、あの猫は一体何だったんだ。いきなり飛びついてくるなんて――
と、そこまで考えて、私は気づいた。
今まで左手に持っていた腕時計が、消えていることに。
「――」
さっと血の気が引き、私は慌てて走り出す。
あの猫が持って行ってしまったのだ。なぜ? 光ってたからとか?
小道は緩やかな坂道となっており、私は必死にその中を走る。
黒猫の後姿が、ちらりと視界に入った。
「ま、待てこら!」
そう言って走るスピードをあげるが、追いつかない。
しばらく走っていると、石段が見えてきた。猫はそれを軽快に上って行き、私もその後を追う。
上には小さな鳥居があった。鳥居をくぐると、本堂がある。そこそこ立派なところだったのかもしれないが、しかし今では廃れており、参拝者もほとんどいない様子だ。
猫は本堂の後ろの方へと走り去って行く。
「もう、なんでこんなことに……」
大きくため息をつき、再び猫を追う。
本堂の後ろにはまだ森が続いていた。
まるで猫に先導されるかのように、道なき道を進む。
坂道も急になり、そろそろ私の体力も限界だった。
くそっ、この猫め!
「待て、って――言ってるだろうが!」
私はそう叫んで、思い切って猫に飛びついた。
運よく猫をキャッチし、私はうつ伏せに倒れる。
顔をあげ、猫の顔を見た。
口にくわえているのは、私が持っていた腕時計だった。私はそれを奪い取り、立ち上がる。
「もう、これは大事な物なんだか――ら……」
一瞬言葉が止まったのは、いつの間にか開けた場所に出ていたことに、気づいたからだった。
木々に囲まれている広い場所に、古びた日本家屋がぽつりと建っていた。
伸び茂る雑草に、廃れた屋根。
猫が鳴く。私をちらりと見たあと、その家の中へと入って行く。
「……」
腕時計を握りしめ、私は土の汚れを払うと、猫に続いて家の中へと入った。
埃っぽい、と思わず顔をしかめた。
長い廊下には土や泥といった汚れが見えた。――誰かが、土足で出入りをしているのか?
さすがに靴下でこの廊下を歩くのは気がひけたので、申し訳ないとは思ったが、ローファーのままで私は廊下を歩く。
視界に入った襖を開くと、大きく開かれた窓が見えた。
「――」
窓から入る風が私の髪と風鈴を揺らし、頭の奥底に眠っていた記憶が、呼び起こされたような気がした。
私は昔、ここに来たことがあるような……そんな気がする。
「……うーん」
思い出せないので、すぐに考えるのをやめてしまった。
畳の敷かれた広い居間。中央にはちゃぶ台。棚は一つほどしかなく、必要最低限の物しかおいていない殺風景な部屋。
窓があいているせいか、あまり埃っぽい感じはしない。
少し奥の縁側に、黒猫が座っていた。ちらりと私を見る。
懐かしいけれど、誰もいないせいだろうか――寂しい場所だと、そう感じた。
「――あっ」
はっとして、時計を見る。
いつの間にか時刻は一時十五分。十二時半には帰ると言ってしまったのだ、これはやばい。
「や、やばい。早く帰らないと!」
そう言って、私は慌てて家を出て行く。
猫の鳴き声が聞こえたが、私は振り返らなかった。――心なしか、悲しげな声色のように聞こえた。