開かれる運命の狭間(前)
深夜と呼ばれる時刻――それなのに昼間と変わらないほどの人間が溢れ返っている。
眠りとは縁のないネオンと喧騒の溢れる雑踏の中、走る人影があった。
振り返っては背後の音を聞き、再び足に力を入れる。道を塞ぐ人込みをすり抜け、時には細い裏道へと入り込んだ。
人にぶつかろうと、謝る暇なんてない。今は、逃げ出すのが先決だ。
「――くそっ」
まだ足音が追ってくるのは気のせいではないだろう。人数がいるせいもあって、こちらには不利なのはわかっている。それでも、逃げなければならない理由があった。
思い出したように胸ポケットにある硬い感覚を確かめては唇を噛み締める。ここでへばっては意味がなくなってしまう。
迫る追っ手を意識しながら再度人込みの中へ紛るべく、大通りへと足を向ける。
『無理だけはするな』
忠告に従い、急な深入りをせずに周りに溶け込むことを心がけた一月足らず。そのおかげで順調とは言い難いが、迫るタイムリミットまでには目的のものを入手できた。あとはこれを確実に手渡すだけ。店を辞めるのも時間の問題だった。
それなのに、こうして走らなくてはならないなんて実に不合理だ。今夜の出来事さえなければ、全てがスムーズに終えたはずなのに。
思考に囚われ、俯き加減で先を急ぐ蒼の視界にあるのは数メートル先の道路ばかり。角を曲がってきた人物は入らなかった。
「―――――!!」
気がついたときには遅く、二人は正面衝突をする。勢いのある分こんな時飛ぶのはやはり体重が軽いほうで、弾みで転びそうになったその身体を脇から伸びてきた手が支える。
「おいおい、気をつけろよ」
「す、すみません」
「―――おまえ」
相手の顔を見ないまま謝った蒼の耳に、驚きの声が届いた。息を切らしながら身体を起こした蒼は、あっと声を挙げる。
顔を合わせた回数は一度のみなのに見られたくない現場を目撃してくださった店の客であり、それまでは一方的な顔見知りだった相手。
職業柄、ジャケットを着慣れない生活のはずなのに当然のように似合うのは嫌味としか思えない。平均を超えた見上げるほどの身長をもち、女性なら目を奪われて、男性なら憎憎しげに振り向くだろう甘いマスクを授かった男。黒のロングコートが余ることなく彼の全身を覆っていた。
初めて会ったときから、発展途上の身としては羨ましさと悔しさが綯交ぜになる人物だ。
こんな形で遭遇するとは思わず、どう繕おうかと自分の目が泳ぐのがわかる。こんな状況でなければいくらでも誤魔化しの言葉が浮かぶはずなのに。
言葉を探す蒼を現実に戻したのは皮肉なことに背後の声だった。男たちの声に蒼の身体が反応する。
取り繕う暇もなく慌てて走り出そうとした蒼は、その直後引き戻されるように動きを止めた。
「な……っ」
見れば男が蒼の腕を掴んだままだ。文句を言おうと振り返ると、男は蒼が現れた方向を向いていた。
「追われてるのか?」
「わかってるなら手を離せよ……っ」
のんきに会話をする余裕などないのだ。今はあの追っ手たちを撒くのが先だという焦りが蒼にはある。だが、男が手を離すよりも先に男たちの気配が近づくのを悟り、蒼は舌打ちをした。
近くに身を隠す場所などないし、今から走れば追っ手に目をつけられる可能性が高い。ここまで逃げておきながら捕まるのは真っ平だ。
だとすれば単純な方法しかない。
「――自業自得だからなっ」
「お、おいっ」
彼の襟首を問答無用で掴むと、蒼は無遠慮に引き寄せた。傾いた身体を支えるために彼の腕が壁を突く。蒼を囲むような体勢になったのをいいことに、蒼は空いている手を彼の後頭部へと回した。
「おまえ……」
「いいから、黙って」
彼の頭を抱き寄せると、蒼は彼の胸へ埋もれるように体勢を変える。
自分より年上の、しかも同性に抱きつくなんてどれくらいぶりだろう。馴染みのない煙草の匂いが蒼の鼻をくすぐる。
「少しだけ我慢してよ」
懇願の意をこめて囁くと、体を硬くしていた男はやがて溜息をついた。そして蒼の意図を読んだようにその腰へと片腕が回り、開かれた彼のコートが夜の空気を遮断する。
まさか彼が乗るとは思わなかった。蒼がとっさに身体を退くと、逆に強く抱きしめられる。
「あんた……っ」
「協力してやろうかと思ってな」
俺のせいなんだろう? と耳元に息とともに吹き込まれ、蒼は小さく身震いする。
反応したのはいきなり囁かれたからだ。改めて思い込む必要もないのに、なぜか自分に言い聞かせてしまう。
密着させているのか、それともさせられているのかも徐々に判断できなくなってきた。
心音がだんだん大きくなってきているのは逃げられるかどうかの瀬戸際だからで、決して彼のせいではないはずなのに。
ほんの数十秒の接触。
蒼は騒がしい心音から目を逸らした。