序章
はじめまして。
この小説は、卒業研究という私の学校の授業の一環で執筆した小説です。4月から今月までの半年間、今まで書いたどの小説よりも時間と労力をかけました。
拙い文章ではありますが、最後まで読んでくださると幸いです。
辺りの景色が何も見えぬ程、激しい雨が降っている。
男は雨音を聞きながら、忙しなく産屋の前を歩きまわっていた。
男の名は安倍保名。
顔立ちは凛々しく、肌は毎日の激務で日に焼けたせいか、小麦色をしている。
全体的に逞しい風貌の保名だが、当時の美男像からは程遠い。
だが、彼に恋こ焦がれる女性は少なくはなかった。それはきっと、彼のおんわ温和な人柄とその一際目立つ瞳の美しさゆえ故だろう。
保名の瞳は、異国の者のように薄い褐色をしていた。日光に照らされると、反射して緑色に光って見える。他の男にはないその神秘的な瞳に、当時の女性達は惹かれていたのだろう。
だが当の本人は、女性達の気持ちに全く応えようとしなかった。
なぜなら、保名には葛の葉という最愛の妻がいた。保名は葛の葉を溺愛していた。他の女など目に入らないくらい、愛していたのだ。故に、保名には葛の葉以外の妻を持とうとしなかった。
今夜、その葛の葉が赤ん坊を産み落とすのだ。保名は不安でたまらなかった。そして思わず、産屋まで来てしまったのだ。保名は赤ん坊が生まれるのを産屋の前で待っていた。だが、出産は長引いているらしく、産屋からは葛の葉のすすり泣き混じりの呻き声が聞こえてくるばかりだ。
「かわいそうに……」
保名は拳を強く握り締めた。
自分がせめて妻の身代わりになれたらと思うが、こればかりはどうにもならない。彼には赤ん坊が生まれるのを待つ事しかできないのだ。保名は自分の無力さをなげ嘆いた。
産声が産屋中に響いた。
同時に、ようや漸く陣痛から解放された葛の葉は、その端正な顔に安堵の色を浮かべた。
――これで、私がやるべき事は終わった。後は、来るべき時を待つだけ……。
脳裏に、保名の顔が浮かぶ。
初めは、ただ恩を返したい一心だった。だが、保名と暮らしているうちにそれが恋心へと変わった。
彼の蜜色の瞳に見つめられる度に、心臓が跳ね上がった。その優しい声で名を呼ばれる度に、心が幸福で満たされた。保名と過ごす時間は、楽しかった。自分の使命を忘れる程に。保名の傍を離れたくなくなる程に。でもその幸福ももうすぐ終わりを告げるだろう。愛しい我が子の成長を見る事もできずに。
産湯で清められた赤ん坊が、産婆の手で葛の葉の横に寝かされた。
「大変美しい女の子じゃ。きっと大人になったあかつき暁には、大層綺麗な姫君になるに違いなかろう」
産婆の言葉に、葛の葉は赤ん坊に目を向けた。
確かに赤ん坊は美しかった。透き通るような白い肌。整った目鼻立ち。産婆の言う通り、恐らく男達が惑わされずにはいられない程、美しい娘へと成長するだろう。
葛の葉は、すやすやと寝息を立てて寝る赤ん坊の頬に手を添えた。
「できることなら母親としてあなた貴女の傍に居たかったのですが……、ごめんなさいね」
葛の葉の頬に、一筋の涙が伝った。
その時――雨に濡れた男が、葛の葉の身体を包んだ。
「……保名様」
名を呟く、優しい声。保名はおずおずと葛の葉の顔を見つめた。
「葛の葉。具合は悪くないか?」
まるで母親の機嫌を伺う子供のようだ。その様に、葛の葉は思わず笑みを零した。
「ええ。子も無事ですよ。大変美しい女子です」
刹那、保名の顔が曇った。
「女子、だったのか?」
「ええ」
葛の葉がもう一度うなず頷くと、保名は葛の葉から身体を離し、「そうか」とため息をついた。
葛の葉はそれを見て眉を顰めた。以前、保名は葛の葉との子供を酷く欲しがっていた。子宝と病気の完治を祈って、信太神に三十七日間の祈願をした程に。だから、葛の葉には今の保名の態度が不思議でならなかった。
そんな葛の葉の心情を見抜いたのか、保名は重々しく口を開いた。
「……待望の我が子が生まれたのは嬉しいが、俺は世継ぎが欲しいのだ。しかし俺にはお前の他に妻がおらぬし、娶る気もない。かといって病弱のお前にこれ以上無理をさせたくはない。そのせいでまた里帰りでもされたら、俺が辛い」
そう呟く保名の顔は悲しみに満ちていた。
恐らく病気がちだった妻が里帰りをする度に、辛く寂しい思いをしてきたのだろう。
「……」
葛の葉は掛ける言葉が見つからず、黙り込んでしまった。
二人を静寂が包み込む。ただ、女房や産婆達が産屋の中を忙しなく動き回る音だけが辺りに響いていた。
すると突然、保名は赤ん坊を抱き上げ、高々と上に掲げ叫んだ。
「決めたぞ、葛の葉! 俺はこの子を男として育てる!」
家来や女房達は、いつもの温厚さからかけ離れた保名の剣幕に唖然としていた。葛の葉は冷静だったが、保名のことを止めようとはしなかった。保名は一旦言い出したら聞かない頑固な性格なのだ。そのことを葛の葉は誰よりも良く知っていた。
それに、先程の保名の悲しそうな顔を思ったら、止められる筈がなかった。
「この子は我が息子・安倍童子だ! 見ていろ。この子は今に立派な男になるぞ!」
外が青白く光り、雷が落ちた。同時に、保名に抱き上げられた赤ん坊が、再び声をあげて泣き始めた。
それは、激しい雨が地面を濡らす、夜のことであった。