「手紙なんてお姉様が書いておいて」と妹が言うので二年間代筆したら、北の公爵様が求婚した相手は私でした
「手紙なんて、お姉様が書いておいて。どうせ北の田舎の話でしょう?」
妹のロゼッタがそう言って、封を切ったばかりの手紙を私の膝に放り投げたのは、二年前の春のことだった。
差出人は、ヴィクトル・アイゼンベルク公爵。
妹の婚約者で、北の国境を守る人。
そして私は、それから二年間、その人に四十七通の恋文を書いた。
――妹の名前で。
◇
私、リディア・ベルクールは、子爵家の長女だ。
この家には、決まり文句がある。
「リディアは後でいいわね」
母の口癖だ。
食卓の肉料理は、父と母とロゼッタが取り分けたあとに回ってくる。新しいドレスは、ロゼッタが三着選んでから、残りの生地で一着。私の縁談の話が来たときも、母はにこやかにこう言った。
「リディアは後でいいわね。まずはロゼッタを良いお家に」
二つ年下の妹は、金の巻き毛に薔薇色の頬をした、誰が見ても可愛らしい子だった。
私は、母方の祖父に似た、くすんだ茶色の髪をしている。
だから、後でいい。
そういうものだと、ずっと思ってきた。
ロゼッタに縁談が来たのは、二年前。
相手は、北辺の守り手アイゼンベルク公爵家の若き当主。爵位も財産も、子爵家には過ぎた相手だった。
ただし、噂が一つあった。
「戦場で顔に大きな傷を負って、それはそれは恐ろしいお顔だそうよ」
「熊のように大きくて、口をきけば怒鳴り声だとか」
ロゼッタは、肖像画が届く前から泣いて嫌がった。
それでも両親は、話を受けた。公爵家から届いた支度金が、我が家の借金をちょうど埋める額だったからだ。
公爵様は国境の戦が片づくまで王都に来られない。だから婚約は、手紙のやりとりから始まった。
最初の返事だけは、ロゼッタが自分で書いた。
三行だった。
『お手紙ありがとうございます。北は寒いと聞きました。王都で流行りの紅玉の首飾りがほしいです』
二通目が届いたとき、妹は読みもせずに私に投げた。
「お姉様、字が綺麗でしょう。私の名前で、適当に書いておいて」
「適当に、と言われても……」
「何でもいいのよ。どうせ会うまで分からないわ」
母も、刺繍の手を止めずに言った。
「書いてあげなさい、リディア。あなたは暇なんだから」
私は、その夜、屋根裏の自分の部屋で手紙を開いた。
大きな、角ばった字だった。
『紅玉の首飾りは、北の職人に頼みました。ですが私は、あなたが本当は何を好きなのかを知りたいと思っています。北では今、雪の下から雪割草が顔を出し始めました。王都では、何の花が咲いていますか』
怒鳴り声の熊が書いたとは思えない、静かな手紙だった。
私は、しばらく迷ってから、ペンを取った。
嘘を書くのは、性に合わなかった。
だから、本当のことを書いた。
屋根裏の窓から見える沈丁花のこと。朝いちばんに鳴くひばりのこと。書庫で見つけた古い旅行記に、北の雪原の話が載っていたこと。
それから、手紙の最後に、こう書き足した。
『北の雪が、今日も少しだけ解けていますように』
署名は、ロゼッタ・ベルクール。
妹の丸い字を真似て書いたその名前だけが、手紙の中でたった一つの嘘だった。
◇
返事は、ひと月後に届いた。
『ひばりの話を、部下に読んで聞かせました。皆、笑っていました。戦場では、朝に鳥が鳴くと、今日も生きていると思うのです』
その次の手紙には、こうあった。
『眠れない夜があります。明日、誰かを死なせるかもしれないと思うと』
私は、書庫の旅行記を何度も読み返して返事を書いた。
『眠れない夜は、温めた牛乳に蜂蜜を少しだけ。それでも眠れなければ、眠れないまま朝を待ってください。ひばりは、必ず鳴きますから』
十通目を過ぎた頃、公爵様が尋ねてきた。
『あなたが一番好きなものは何ですか。誰かに譲ったあとの残りではなく、あなたが最初に選ぶものを』
ペンを持つ手が、止まった。
最初に選ぶもの。
そんなことを聞かれたのは、生まれて初めてだった。
長いこと考えて、私は一行だけ書いた。
『雪割草です。冬の終わりに、誰よりも先に咲く花だから。花言葉は、希望というそうです』
次の手紙には、押し花が一輪、挟まっていた。
白くて小さな、雪割草。
『北の野で摘みました。あなたが最初に選んだ花です』
私はその花を、ずっと枕元の聖書に挟んでいた。
それからは、私も手紙に押し花を一輪ずつ添えるようになった。
庭の隅の菫。屋根裏の窓辺の勿忘草。
ロゼッタは、私が手紙を書いていることすら、そのうち忘れていった。返事が届けば、首飾りや毛皮の包みだけを抜き取って、手紙は私の部屋の前に置いておく。
だから、公爵様の手紙を全部読んだのは、私だけだ。
四十八通。
読み返すたびに、胸の奥が少しずつ痛くなった。
この手紙は、私宛てではない。
分かっているのに、返事を書く夜だけは、自分が誰かの一番になれたような気がした。
二年目の冬、手紙が途絶えた。
ひと月。ふた月。
北で大きな戦があったと、王都の新聞が小さく報じていた。
ロゼッタは「あら、じゃあ婚約もなくなるのかしら」と言って、新しい帽子の話に戻った。
私は毎朝、誰よりも早く起きて、郵便受けを見に行った。
手紙の来ない朝が、こんなに長いとは知らなかった。
三月目の終わりに、ようやく一通が届いた。
封筒の角が、黒ずんでいた。乾いた血の色だった。
震える手で封を切ると、いつもの角ばった字が、少しだけ乱れていた。
『心配をかけたなら、すまない。矢を一本、胸に受けた。だが、懐に入れていたあなたの手紙の束が、鏃を止めてくれた。軍医が、こんなに分厚い恋文は初めて見たと笑っていた』
私は、屋根裏の床に座り込んだ。
泣いたのは、何年ぶりだったろう。
『あなたの手紙に、命を救われたのは二度目です。一度目は、眠れない夜に。二度目は、今度は本当に』
その手紙の最後には、私の一行が、彼の字で書き写してあった。
『北の雪が、今日も少しだけ解けていますように。――あなたの住む王都にも、同じように』
一度だけ、公爵様はこう書いてきた。
『いつか、あなたの本当の名前で手紙をもらえたら嬉しい』
どきりとした。
けれど、すぐに気づいた。
きっと、ロゼッタという名前ではなく、愛称で呼んでほしいという意味だろう。
私はその問いにだけは、とうとう返事を書けなかった。
◇
この秋、北の戦が終わった。
公爵様が、婚約式のために王都へ来られる。
知らせが届いた日、ロゼッタは社交界から帰ってくるなり、頬を上気させて言った。
「ねえお母様、聞いて! 公爵様、傷はあるけれど、とても美しい方なんですって。陛下から勲章を賜るほどの英雄で、北の領地は王都の三倍も豊かなのよ」
それから、私を振り返った。
「お姉様。代筆は、もういいわ」
にっこりと笑う。
「これからは私の婚約者だもの。手紙は全部ちょうだい。会ったときに困らないように読んでおくから」
私は、黙って四十八通の束を差し出した。
押し花は、一輪も残っていなかった。全部、手紙と一緒に北へ行ってしまったから。
手元に残ったのは、自分が書いた手紙の下書きだけだ。
その夜、父が私を書斎に呼んだ。
「リディア。お前の縁談が決まった」
「……私の、ですか」
「南のドレイク男爵だ。奥方を亡くされて、後添いを探しておられる」
ドレイク男爵。
父の借金の、もう一人の貸し主。歳は、父より上のはずだ。
「ロゼッタの婚約式が済んだら、すぐに向こうへ行きなさい」
書斎の隅で、母が穏やかに付け足した。
「リディアは後でいいのよ。ロゼッタの式が先」
いつもの言葉だった。
いつもと同じように、私は「はい」と答えた。
屋根裏に戻ってから、下書きの束を一枚ずつ燃やした。
最後の一枚だけ、どうしても手が止まった。
『北の雪が、今日も少しだけ解けていますように』
その一行を、私は長いこと見つめていた。
◇
公爵様は、婚約式の三日前に我が家を訪ねてこられた。
噂どおり、背の高い方だった。黒い髪に、灰青色の瞳。左の頬から顎にかけて、白く古い傷が走っている。
けれど、熊には少しも似ていなかった。
応接間には、着飾ったロゼッタと両親。
私は茶器を運ぶ役だった。母に「侍女が足りないから」と言われて。
「ようこそおいでくださいました、公爵様。ロゼッタでございます」
妹が、完璧な礼をした。
「……ヴィクトル・アイゼンベルクだ」
低い、落ち着いた声だった。怒鳴り声とは程遠い。
「ずっと、お目にかかりたいと思っていた。手紙を、ありがとう」
「まあ、そんな。私こそ、素敵な首飾りをありがとうございました」
ロゼッタは、昨夜一晩かけて手紙を読み込んだらしい。北の雪原のこと、部下の名前、勲章のこと。滑らかに話を合わせていく。
公爵様は、静かに頷いて聞いていた。
それから、ふと尋ねた。
「七通目の手紙に、ひばりの歌のことを書いてくれただろう。あの続きを、聞かせてほしい」
ロゼッタの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「ひ、ひばり……ええ、ひばりは、とても可愛い鳥ですわね」
「歌の続きを」
「それは……覚えていなくて。ごめんなさい、たくさん書いたものですから」
私は、茶器を置く手が震えないように気をつけた。
歌の続きは、手紙には書いていない。
七通目の最後に、『続きは、いつかお会いしたときに』と書いたのだ。
書いたのは、私だった。
公爵様は、「そうか」とだけ言った。
そして、紅茶を受け取るとき、ほんの一瞬、私の手を見た。
右手の中指にある、ペンだこを。
インクの染みが、まだ薄く残っている指を。
「……ありがとう」
灰青色の瞳が、何か言いたげに私を見た。
私は目を伏せて、応接間を下がった。
後でいい人間は、前に出てはいけない。
この家で二十年かけて覚えた、たった一つの作法だった。
その夜、書庫で旅行記を棚に戻していると、背後で扉が鳴った。
振り返ると、帰ったはずの公爵様が立っていた。
「……失礼。忘れ物をして、書庫にあると侍女に聞いた」
忘れ物など、見当たらなかった。
公爵様は、私の手の中の古い旅行記に目を留めた。
「北の雪原の旅行記か」
「は、はい。祖父の本で……」
「見せてもらっても?」
断る理由が思いつかなかった。
公爵様は、ページをゆっくりとめくった。余白には、私の小さな書き込みが残っている。『雪原の夜明け、ひばりはいるのか』『国境の砦、眠れない兵士たち』。
手紙の返事を書くために、二年かけて書き足していった、私の字。
公爵様の指が、その一行の上で止まった。
右上がりの、癖のある字の上で。
「この本の持ち主は、北に行ったことは?」
「……ありません。この家から、ほとんど出たことがありませんので」
「そうか」
公爵様は本を閉じて、そっと私に返した。
「いつか、本物の雪原を見せたい人がいる」
それだけ言って、彼は書庫を出ていった。
残された私は、旅行記を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
期待しては、いけない。
明後日、あの人は妹と婚約する。そして私は、南へ行く。
後でいい人間に、順番は回ってこない。
婚約式の朝、ロゼッタが屋根裏に駆け込んできた。
こんなところまで妹が上がってくるのは、何年ぶりだろう。
「お姉様、ひばりの歌って何なの! 手紙のどこにも書いてないじゃない!」
髪も整えきらないまま、ロゼッタは私の机を引っかき回した。
「下書きがあるでしょう? 出しなさいよ。あの方、また聞いてくるに決まってるわ」
「下書きは、燃やしたわ」
「じゃあ歌を教えて。今すぐ」
私は、トランクに最後の一枚の肌着を詰めて、ふたを閉めた。
それから、妹の顔を見た。
「いやよ」
ロゼッタが、目を丸くした。
私が妹に「いや」と言ったのは、たぶん、生まれて初めてだった。
「あれは、私が、あの方に歌うと約束したものだから」
「な……何よ、それ。お姉様のくせに!」
ロゼッタは顔を真っ赤にして、階段を駆け下りていった。
一人になった部屋で、私は自分の手を見下ろした。
震えていた。
けれど、ほんの少しだけ、胸が軽かった。
◇
婚約式は、王都のアイゼンベルク公爵邸で開かれた。
広間には、王都じゅうの貴族が集まっていた。北の英雄の婚約者を一目見ようと。
ロゼッタは、公爵様から贈られた紅玉の首飾りをつけていた。
私は、壁際に立っていた。明日の朝には、南へ発つ馬車が来る。
祭壇の前で、公爵様が婚約の誓約書を広げた。
「始める前に、一つだけ」
広間が静かになる。
「私はこの二年、一人の女性と手紙を交わしてきた。戦場で眠れない夜、その手紙だけが、私を朝まで生かしてくれた」
ロゼッタが、うっとりと微笑んだ。
「だから、誓約の前に確かめたい」
公爵様は従者から紙とペンを受け取り、ロゼッタに差し出した。
「手紙の最後に、いつも同じ一行があった。それを、ここに書いてほしい」
ロゼッタの頬から、すっと血の気が引いた。
「そ、そんなこと……今ここで?」
「一行でいい。四十七回、読んだ一行だ」
広間の視線が、ロゼッタに集まる。
妹は震える手でペンを取り、しばらく迷ってから書いた。
『心からの愛をこめて ロゼッタ』
公爵様は、その紙を見て、静かに首を横に振った。
「違う」
「ち、違わないわ! 私は、いつもそう書いて――」
「では、雪割草の花言葉を」
「え……?」
「十二通目に、あなたが教えてくれた」
ロゼッタは、答えられなかった。
私の唇が、勝手に動いていた。
――希望。冬の中で咲く、希望。
声には出していない。出していない、はずだった。
けれど公爵様は、まっすぐに広間を横切って、壁際の私の前に立った。
「あなたが書いてくれないか」
差し出された、白い紙とペン。
「公爵様、お待ちください!」
母の声が、高く響いた。
「その子は姉です。手紙とは関係ございません。リディアは、後でいいのです!」
いつもの言葉。
私は、反射のように一歩下がりかけた。
その手首を、大きな手がそっと止めた。
「いいや」
公爵様は、母を見もせずに言った。
「今日は、この人が先だ」
――先。
生まれて初めて、言われた言葉だった。
私は、紙を受け取った。
指が震えた。けれど、ペンを握れば、字は勝手に出てきた。四十七回書いた一行だから。
『北の雪が、今日も少しだけ解けていますように』
公爵様は、紙を受け取って、長いこと黙っていた。
それから、懐から古い押し花の束を取り出した。
菫。勿忘草。沈丁花。
三十六輪の、色あせた花。
「三通目で、もう分かっていた」
低い声が、広間に響く。
「最初の手紙は三行で、首飾りがほしいと書いてあった。二通目からは、ひばりと旅行記と、北の雪の話になった。同じ人が書いたとは、とても思えなかった」
広間が、ざわめいた。
「宛名の字は、いつも丸い。だが本文の字は、ときどき癖が出て、右上がりになる。押し花の茎は、いつも几帳面に紙で留めてある」
公爵様は、私のペンだこのある指を、そっと見下ろした。
「だから、あなたの本当の名前で手紙がほしいと書いた。返事は来なかったが」
「……あれは、妹宛ての手紙でしたから」
「最初の二通以外、全部あなた宛てだ」
喉の奥が、熱くなった。
広間のあちこちで、ささやき声が上がる。
「では、北の英雄が恋をしたのは、姉君の方……?」
「妹君は、婚約者の手紙を一通も読んでいなかったというの?」
「お姉様のほうは、いつも壁際にいらした方よね。夜会で、踊っているところを見たことがないわ」
この家で、私は二十年間、壁際にいた。
それを見ていた人が、こんなにいたのだと、私は初めて知った。
◇
「う、嘘よ!」
ロゼッタが叫んだ。
「お姉様が勝手に書いたのよ! 私の名前を使って、私の婚約者を横取りしようとしたんだわ!」
「ロゼッタ嬢」
公爵様の声は、ひどく静かだった。
「では、なぜ一行も覚えていない。四十七通、すべてあなた宛てに届いたはずだが」
ロゼッタは、口を開けたまま固まった。
「二通目を読まずに投げたと、あなたの家の侍女が証言している。首飾りと毛皮の包みだけ抜き取って、手紙は姉の部屋の前に置いていたことも」
公爵様は、従者に目で合図をした。
従者が一歩進み出て、手元の帳面を読み上げる。
「ベルクール子爵家。公爵家からの支度金は、借金の返済ではなく、半分がロゼッタ嬢のドレスと宝飾品に使われております。また、ご長女リディア嬢を、明朝、ドレイク男爵の後添えとして南へ送る手はずが整っております。男爵への借金の、代わりとして」
広間の空気が、凍りついた。
「ち、違うのです、公爵様! それは、その」
父が、汗を拭きながら前に出た。
「リディアは、地味で、取り柄のない娘でして……後添えくらいが、ちょうどよいと」
「取り柄がない」
公爵様は、手の中の押し花を見た。
「私は二年間、その取り柄のない人の手紙に命を救われてきた。北の兵たちも同じだ。ひばりの手紙を、皆で回し読みした」
灰青色の瞳が、冷たく父を射た。
「婚約の申込書を、読まれたか、子爵」
「は……?」
「『ベルクール子爵家の令嬢を妻に迎えたい』。そう書いた。名前は書いていない。どちらの令嬢かを決めたのは、あなた方だ」
父が、言葉を失った。
「本日をもって、ロゼッタ嬢との婚約の話は白紙とする。偽りの手紙で受け取った贈り物と、使い込まれた支度金は、すべて返していただく」
「そんな……! そんなお金、うちには……」
母が、その場に崩れ落ちた。
ロゼッタは、首の紅玉を両手で押さえて、泣きじゃくっていた。
「だって……だって、お姉様はいつも後でいいって、お母様が……」
その言葉に、私は少しだけ目を閉じた。
この子もまた、この家の決まり文句の中で育ったのだ。
欲しいものは、全部先に。
姉の分は、残りでいい。
「ロゼッタ」
私は、妹の前に膝をついた。
「首飾りは、お返ししましょう。それから、これからは――手紙は、自分で書きなさい」
ロゼッタが、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「まずは、公爵様への謝罪の手紙から。三行では、足りないわよ」
広間の隅で、誰かが小さく吹き出した。
◇
騒ぎのあと、私は公爵邸の庭に出た。
秋の夜気が冷たい。北の雪は、きっともう降り始めているだろう。
「寒くないか」
肩に、重い外套がかけられた。
「……公爵様」
「ヴィクトルでいい。手紙では、そう呼んでくれと何度も書いた」
「あれは、妹への……」
「あなたへの、だ」
ヴィクトル様は、少し困ったように頬の傷に触れた。
「本当は、もっと早く確かめに来るべきだった。だが、怖かった」
「怖い……? 北の英雄が、ですか」
「この顔を見て、手紙の主に逃げられたら。四十七通の返事が、全部終わってしまう気がした」
「戦場では、誰が相手でも怖くなかった。だが、あなたに嫌われることだけは、北のどんな吹雪より怖かった」
大きな体を、少しだけ縮こめるようにして。
この人は、怒鳴り声の熊なんかじゃない。
眠れない夜に、ひばりの話を待っていた人だ。
「逃げません」
私は、彼の傷をまっすぐ見上げた。
「手紙の中のあなたを、二年間ずっと知っていましたから」
ヴィクトル様の灰青色の瞳が、わずかに揺れた。
「……ひばりの歌の、続きを」
「はい?」
「会ったときに、と書いてあった。今、聞いてもいいだろうか」
私は、思わず笑ってしまった。
この人は、本当に全部の手紙を読んでいたのだ。一行も、読み飛ばさずに。
小さな声で、子どもの頃に祖父から教わった歌を口ずさむ。
――冬が終わったら、ひばりは誰より先に空へ行く。誰にも譲らずに、いちばん高いところまで。
歌い終えると、ヴィクトル様は小さく息を吐いた。
「リディア」
初めて、本当の名前で呼ばれた。
それだけで、胸がいっぱいになった。
「北へ来てほしい。私の妻として」
彼は懐から、一通の封書を取り出した。
宛名には、角ばった大きな字で。
『リディア・ベルクール様』
「四十九通目だ。ずっと、この宛名で書きたかった」
封を切ると、中には一行だけ。
『あなたが、最初に選んでください』
雪割草の押し花が、一輪。
――誰よりも先に咲く花。
涙が、ぽたりと便箋に落ちた。
私は、二十年分の「後でいい」を全部置いて、生まれて初めて、自分のために答えた。
「……あなたを選びます。ヴィクトル様」
◇
後日談を、少しだけ。
ベルクール子爵家は、王都の屋敷を手放して、領地へ引っ込んだ。
ドレイク男爵との縁談は、もちろん立ち消えになった。代わりに、父は男爵への借金を、自分の働きで返すことになったそうだ。
ロゼッタからは、ひと月に一度、手紙が届く。
最初の一通は、三行だった。
二通目は、五行。
三通目には、『お姉様、ごめんなさい』と、不格好な丸い字で書いてあった。
今では一枚の便箋を埋めるようになって、先日はとうとう、自分で選んだという押し花が一輪、挟まっていた。
あの子も、少しずつ変わろうとしているのだと思う。
そして、私は。
北の公爵邸の朝食の席で、ヴィクトル様は必ず、焼きたてのパンの籠を私の前に置く。
「リディアが先だ」
「毎朝、言わなくても分かっています」
「毎朝、言いたいんだ」
北の兵たちは、私を「ひばりの奥方様」と呼ぶ。少し恥ずかしいけれど、嫌ではない。
ヴィクトル様が国境の見回りに出る日には、今でも手紙を書く。
署名は、リディア・アイゼンベルク。
もう、誰の名前も借りていない。
最後の一行だけは、少しだけ書き換えた。
『北の雪は、もうすっかり解けました』
窓の外では、春の最初のひばりが、誰よりも先に空へ昇っていった。
〈了〉
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
「スカッとした」「ヴィクトルが好き」「四十九通目で泣いた」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークで応援していただけると、とても励みになります。
評価やブクマが集まりましたら、北でのリディアとヴィクトルの新婚生活や、ロゼッタのその後を描く【連載版】も書きたいと思っています。
※本作は本文の執筆に生成AIを使用しています。




