プロローグ
き――――ん、わんわんわん………
男は両耳に詰められたシリコン素材の耳栓を突き破って聞こえてきたその音の響きにうっとりした。
わんわんわん、頭の中で無限に音が増幅して広がっていく。
強張っていた全身の筋肉が弛緩して、尻のあたりに生暖かいものを感じる。
窓越しに見える曇天の隙間からわずかに陽が差して、男の周囲だけを柔らかに包む。
音が血管を通り、全身を駆け巡っていく。
心臓のリズムがわんわんわん、という音に書き換えられていく。
語彙に乏しい男だが、この不思議な音を適格に表現する言葉が男の脳の引き出しのかなり手前に見つかる。
『福音』
そう、福音だ。
聖書に関係する言葉というくらいでしか知らないし、福音に明確な音があるのかもわからない。
だが、男の脳を埋め尽くすこの音はそうとしか言いようのないものだった。
雑多な畳敷きの6畳間には男ひとりのはずだが、上から、横から、下から、ずりずりと何かが這い寄ってくる気配がする。
指先に何かが触れ、それが誰かの指だとわかり、男の指が一瞬跳ね上がる。
だが、拒む必用はないのだと男は指を差し出す。
男の顔に、首に、肩に、腹に、腿に、脛に、足首に、指先が触れる。
ざらついたもの、滑らかなもの、ごつごつしたもの、すべて違う誰かの指だ。
わんわんわん、これ以上は体が内側から破裂してしまいそうだ……!
と、鳴っていた音がピタリと止んだ。
突然の静寂。
多幸感の喪失。
男の息遣いのほかに、耳栓を貫通していくつもの息遣いが聴こえる。
生臭い息が男の頬を撫で、毛穴という毛穴から汗が吹き出る。
「あっ」
男の体が持ち上げられ、浮き上がる。
両腕を水平に、首をだらりともたげた姿はまるで……。




