空白と苦痛の始まり
—— 痛い……。
熱い……。
助けて……。
頭の中が混沌とした状態で、私は繰り返し、誰に向けたわけでもないが願い助けを乞うた。
しかし誰からの言葉も返ってこない。どこからが現実でどこからが夢の世界なのかは分からなかった。
ただ確かなのは、この苦痛から逃れたい、それだけだった。
見知らぬ人、見知らぬ言葉、見知らぬ場所。
—— あぁ、これは夢の世界だ。
そう思い、私はあたりを見渡した。
—— 間違いない、これは夢だ。
けれど、夢の中にいるはずなのに、熱を持った身体は痛みを感じるし、まだ眠い。
なんとも不思議な夢だ、と思いながらまた瞼を閉じた。
次に目を覚ました時、私は困惑した。
見知らぬ人、言葉、場所……それが夢ではないと悟ったからだ。
それだけではない。私は自分のことも分からなかった。名前も年齢も性別も……。
目を彷徨わせても、視界に映るのは布に覆われた天井と、垂れ下がったその布の隙間から覗くわずかな光景だけ。
右半身と頭部に強い痛み。少しでも動けば、その痛みに呼応するように全身が激しく疼く。
完全に混乱していた。知っているものが何ひとつとしてない。言いようのない不安が鳩尾あたりで激しく渦巻き始める。そして、その不安を煽るようにまた痛みにも襲われる。
呼吸もままならない。息苦しさに『このままでは死んでしまう』と思った。そして目が霞み、視界は白くなる。
—— 苦しい…痛い……誰でもいい、助けて……。
その後も、目覚めてから気を失うまでを何度も繰り返した。
そしてある時、頭の内から外へ向け、釘を打たれるような頭痛に襲われた。その頭痛は前触れなく突如として訪れ、決まって不快な映像が頭の中に、強制的に流れてくる。
見知らぬ男性、女性、そして少女が“わたし”を殴る光景。見知らぬ少女が、顔中にアザを作り、泣きながら何かを懇願する場面。
—— 映像の“わたし”は私? これは、自分に起きた出来事?
疑問が一瞬浮かぶが、それは激しい痛みによってかき消され、ただ苦痛から逃れたいという感情に変わる。
大抵はその後意識を失う。失わなかったとしても頭痛による疲弊で思考する気力すら持てない。
そうして目覚めてから、おそらく1週間ほどが経った。依然として頭痛は一日に一から五度襲ってくる。その度に苦しめられ、身体も痛いままだ。私は常に意識が朦朧としている状態だった。
けれどそれでも、ほんの少しだけ周囲を観察する余裕が出てきた。そして記憶を戻すための手がかりを探す。
—— 天蓋? そうだ、これは天蓋付きのベッドだ。
部屋……は広い。無駄に広い……。
天井を覆う布が天蓋のものだと気づく。何もかもが分からないわけではないらしい。その小さな発見が、ほんの少しだけ私を安心させた。
目を動かせる範囲で部屋を観察する。家具や布地はどれも高級そうだった。
—— ここはどこなんだろう。
私は……誰なんだろう。
溢れ出ようとする不安を抑えるように、今度は人に目をやる。部屋には女性が六、七人出入りしていた。その内の一人が私が目を覚ましていることに気づき、声をかけてくる。
—— ……分からない。何を言っているのか、何も分からない。
私は、首をわずかに振り、何も分からないという現状を伝えようとした。けれど、言葉が出てこない。頭の中で考えている言語と、実際に使用されている言語が違うのだ。
「……分からない。私は……誰?」
私は掠れた小さな声で話すも、やはり伝わらない。身体も思うように動かせない状態では、身振り手振りで伝えることもできない。意思疎通がままならない現状に、またも不安が襲い始める。
女性は何かを話しながら、私の口元に器を近づけた。唇が僅かに濡れ、味を確かめる。どうやら水を飲ませてくれるらしい。私は小さく口を開き催促した。
目覚めてから初めて口にした水は、身体全体に染み渡った。どうやら水分が足りていなかったらしい。まだもっと飲みたかったのだが、すぐに器は空になってしまった。
その後も私はぼんやりとした頭で人間観察をしていた。
部屋にいる女性たちは、年齢も顔つきも髪の色もバラバラだった。家族や親戚というわけではなさそうだ。
仕事をしている雰囲気で『お手伝いさんや介護士さんのような人たちかな?』と予想する。
けれど不思議なのは、二十歳にもなっていないような女の子が、三十代後半の女性に指示を出している事だった。よく見れば、指示をする女の子たちと、指示を受けている年嵩の女性たちの服装の違いに気付く。
女の子たちは鮮やかな布地に刺繍を施した衣装。一方、年嵩の女性たちは刺繍のない藍色や茶色といった地味な色合いの衣装で、腰に巻くタイプのエプロンを着けている。
どうやら肉体労働を担うのは年嵩の女性のようだ。おそらく同世代だろう私は、どことなくほろ苦い気持ちになった。少しくらいは手伝えばいいのに……などと回らない頭で考えていると、ふと思う。
—— ん? 同世代…?
当たり前のようにそう思っていたが、私は自分の容姿をまだ確認していなかったことに気付く。けれど、そんな気力は湧かない。身体は動かせず、倦怠感に支配されたままだからだ。とりあえず今は『そんな気がする』それだけでいい。
やがて、人間観察に飽きてきた私に睡魔が訪れる。
うつろうつろしていると、先ほど水をくれた女性が、今度はスープ皿を手にして戻ってきた。
彼女はスプーンで中身をすくい、私の口元へ運んでくれる。琥珀色のスープは薄味だけれど、野菜の優しい旨みを感じた。ハーブの香りも、ほのかに甘味と爽やかさを加えているようだ。温かく、ほっとする味に少しだけ胸が軽くなった。
もっと欲しいと口を開き催促をする。女性は私の反応を見ながら、スープをよそってくれる。スープのみならず、柔らかく煮込まれた具材の野菜も全て完食し、生き返った気持ちになった。
何とか表情だけで女性にありがとうを伝えてみたが、実際に伝わったかどうかは不明だ。お礼をする前も後も、終始無表情で何のリアクションもないのだ。けれど、彼女が私を気にかけていることは分かる。何故なら彼女の視線が痛いと感じるほど私を見つめていたからだ。
視線は痛かったがスープを食べ終え、私はこの上ないほどの満足感に浸っていた。その心理状況に何故だと少し疑問に思う。
—— ……あぁ、そうか、水を飲むのも初めてだったけど、ご飯を食べるのも初めてだ。そりゃ、潤うわ。どうりで今までやる気も何もかも、出なかったわけだ。
食事で満たされ、私は程なく眠りに落ちた。そして、願っていた心安らぐ夢を見た。
苦痛がない。不安も恐怖もない。
私の目に広がるのは広大な畑。雲ひとつない空と、野菜の緑。頬を掠める風。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、土と植物の匂いを味わう。
音のない静かな夢だったが、名前を呼ばれた気がした。私は振り返り、呼んだ人を探す。遠くに何人もの小さな人影が見えた。
頬が緩む。その人たちはきっと私にとって大事な人なのだろう。弾んだ気持ちで、私はゆっくりとその人達の元へ向かった。
そこで夢は終わり、私は目を覚ました。涙が溢れ落ちている。
頭痛を伴うあの不快な映像よりも、夢の世界の方が過去の出来事なのではないかと思った。
しかし、そんな幸福の余韻に浸る間もなく、直後また鋭い頭痛の痛みが足の爪先まで響いた。
—— もういい……。見せないで……。
流れてくる映像に碌なものはない。大抵は暴力に耐えている場面や、誰かが暴力を受けている場面。見ていて感じの良いものでは全くない。
—— もう、見たくない……。
そう心の中で願ったところで映像は否応なしに流れてくる。
この時、私の頭の中に流れて来たのはただの暴力シーンではなかった。
“異様”……そう感じざるを得ない光景だった。
これまでも何度か映像で見たことのある三十代後半の男性。そして彼を取り巻く三人の若くて綺麗なスタイルの良い女性たち。皆が裸だった。
女性たちが“わたし”の腕を掴む。その人たちに“わたし”は服を脱がされた。そしてベットへと“わたし”を引っ張り込み、力づくで両手両足を広げるように押さえつけた。
男性……いや、男は汚らしい顔で涎を光らせながら近づいてくる。
その情景が流れてきた時、私は嘔吐した。咳き込みながら呼吸ができるように体位を反射的に変える。激痛が走るも、吐瀉物が器官に入ってしまったので咳き込みは抑えられない。
そんな混乱状態でも、映像は止まらない。
“わたし”は男の舌で身体を舐められた。足の指、ふくらはぎ、太もも。男は舌を這わせながら徐々に近づいてくる。
そんな映像を見ながら、不快感とは違う思考が頭をよぎる。
“わたし”のその目線に映る“わたし”の身体は未熟な身体だった。
—— 子供…?
そう思った瞬間、映像の“わたし”は、現実の私と同じように嘔吐をした。吐瀉物が視界に入り、その直後、“わたし”は痙攣を起こした。
女性たちが慌てる様子、男が激怒する様子、そして男による暴力。
私は、映像と同じように痙攣を起こした。過呼吸で息もできず、徐々に意識が遠くなっていくのを感じた。映像の“わたし”は、何度も殴られ、蹴られ、同じように過呼吸にもなり、気を失ったのだろう。
私が意識を手放す直前、暗闇の視界の中で、聞き馴染みのない男性の声が聞こえた気がした。何を言っているのかは分からなかったが、その声には、僅かに焦りと懇願、そして優しさが含まれてるように感じた。
どれくらい意識を失っていたのかは分からない。けれどこの眠りでは夢を見なかった。心地よい夢を見たかった、と目を覚ました時に思った。ささやかで小さな幸せに縋ったのだ。
しかし現実は現実で、その後の日々は変わらない。身体は痛いし、発作的な頭痛もよく起きる。意識を失っては目を覚ますを何度も繰り返した。
あの強烈な性的暴行を超える映像は見てはいないが、反吐が出ることには違いがない。
けれど、そうした映像を見れば見るほど違和感を抱かずにはいられなかった。“実感”が持てないのだ。身体は嘔吐や震え、発汗といった症状を示すけれど、どうにも精神が追いつかない。視線は確かに“わたし”なのに、他人事のように感じる。
—— 映像の“わたし”は私じゃないかもしれない。
思考は憶測の域を出ない。それに、実感があろうがなかろうが、現実は変わらない。どうする事もできない。
—— 夢の世界に行きたい。あの夢を見たい。
意識が薄れていく度に、私は願った。神様とやらがいるのなら、どうかあの穏やかで幸せな夢を見せてほしい。大層な願いではないのだから。
この願いは、たびたび叶えられた。正直、あの夢がなければ心が疲弊するばかりで、耐えられなかっただろう。記憶がないので、元来の自分がどうゆう人間なのかは分からない。けれど、優しく凪いだ感情が、自我を取り戻してくれる気がするのだ。
その日見た夢も、幸せだった。音声はないが、静かで穏やかな夢だ。
登場する人物には靄がかかっており、顔の識別はできなかった。けれど身振り手振りから暖かさを感じた。
お爺さんもお婆さんもいる。働き盛りな人たちに、わんぱくそうな子供たち。赤ん坊もいた。
大人数で食卓を囲み、話し声や笑い声が聞こえてきそうな雰囲気だ。
大人たちは肩を震わせたり、腹を抱えたり、きっと笑っている。
子供たちは椅子の上を飛び跳ねたり、食卓の周りを駆け回ったり、きっと楽しいのだろう。
そして私は…きっと頬を緩ませ、笑っている。
音はなくても楽しかった。顔に靄がかかっていても愛しいと感じた。
本当に幸せな夢だった。
幸せな夢を見た日は、大抵涙を流しながら起床する。
けれど目覚めは良い。右半身と頭部の痛みも、幾分かは和らいでいるように感じる。
私の目覚めに気付いた女性が、声をかけてきた。やっぱり何を言っているかは分からない。
けれど、私が意識を取り戻してから2週間弱で、彼女の名前がビリアナということは分かった。
ビリアナは黒茶色の髪に、灰色がかった緑色の目をした22、3歳くらいの娘だ。くりっとした目と薄いそばかすが特徴で、笑えばきっと可愛らしいことだろう。
けれど彼女は常に無表情だ。とても私によくしてくれ、本当にありがたいのだが、少しだけでも笑顔が欲しいと思ってしまう。
彼女は私が目を覚ますと必ず水を飲ませてくれる。そして私の様子を観察し、食事が取れそうだと判断すると、料理も食べさせてくれる。そのおかげか、以前よりは倦怠感が減り、頭の中の霧も少し晴れた気がする。
この調子で頭痛も良くなってほしいのだが、そう甘くはない。
食後に薬湯のようなものを飲まされ、一息ついている時に頭痛は起きた。この時の絶望に似た感覚は、どうしようもないと思う。
頭の内側から全身へ広がるような痛み、“不快”という言葉では、あまりにも軽すぎる映像。
心の中で何度『もう嫌だ、もう耐えられない』と嘆いたことか。
悶え苦しんでいる時、誰かが私に近づいてきた。どこかで聞いたことがあるような男性の声が聞こえる。
何を言っているのか分からないし、おそらく分かったところで返答する余裕もない。
私は身体を捩らせ、少しでも痛みが治る体位を探した。
もはや右半身を動かした痛みなのか、頭から全身へと伝わった痛みなのかは分からない。どの姿勢も電撃を受けているようで、安らぎには程遠い。
頭の中の冷静な部分が「今回はこのまま気絶だな」と確信した時、突如、痛みが和らぎ始めた。苦痛によって固く閉じていた瞼の力が抜け、全身の緊張もほどけていった。
息はまだ荒いままだったが、呼吸に合わせてゆっくりと安堵の息が漏れた。
「Quomodo valet, domina?」
先程部屋に入ってきた男性が、私に問いかけている。私は何も返答しなかった。言葉を理解できないのもあるが、単純に疲弊していた。まだ目は霞んでいる。
横向きになっていた私の身体は仰向けに直され、吹き出していた冷や汗を誰かが拭ってくれた。おそらくビリアナだろう。
それとは別に、誰かの手が私の額や首筋、手首を触る。身体を直接触られることが今までなかったので、誰だろう、と私は目を凝らした。
見覚えのない男性だ。話しかけてくれていた男性だろう。
中肉中背の穏やかそうな人で、癖のない落ち着いた黄土色の長い髪を背中で束ねている。一見、30代前半かと検討をつけるも、肌の雰囲気から、3、4歳若いかもしれないと思い直す。
男性の垂れ目がちな目は細められ、栗色の瞳は優しく私を見ていた。
「Paululumne tranquillata es, domina?」
何を言っているのか分からないが、口調も穏やかだ。私は“分からない”を痛みが出ない程度に首を傾げ表現した。男性はひとつ頷き、また何かを話す。私はまた首を傾け、それを何度かやりとりした。
男性は微笑みながらゆっくり深く頷き、何かを言いながら肩をさすってくれた。
目覚めてから初めて、安心できる、と思った。ビリアナは良くしてくれるが笑顔がないため不安を拭えなかったのだ。そして年嵩の女性たちは目を合わせようとしないし、若い子たちからは悪意を感じる時がある。
思わず涙が込み上げてきそうになった。頭痛直後で弱っているとはいえ、いい歳をしているであろう大人が泣くわけにはいかない。そう思い、なんとか瞬きで堪え抜き、私も軽く微笑み返した。
男性はおそらく医者なのだろう。その後は右半身と頭部を診察しているようだった。
そして、私が言葉を理解していないと分かったのだろう、質問の際は、言葉と共に身振り手振りで聞いてくれた。
彼のおかげで“痛い”という言葉を覚えることができた。
「Domina, nuncne est locus qui dolet?」
おそらく、痛いところを聞いている。右半身の熱く脈打つ箇所を、私は左指で指そうとした。だが、腕が重い。
これまでは、痛みのない部位でもわずかに動かせば、痛む箇所に伝わっていたので、身体を動かすことを避けていたのだ。
筋力の衰えを感じずにはいられない。それでもなんとか、という思いで私は震える左手を顔の付近まで移動させた。あとは、肩を指差すだけ……。
—— …………手が、小さい……。
思考が止まった。おそらく数秒だろう。
視界に移る手が自分の手なのかを確認するために、開いては握る。
脳からの指令に、目に映る幼い手の動きが合致するかを注視した。
—— ……本当に?
少しずつ鼓動が速くなってくる。それに比例して呼吸も大きくなってきた。頭の芯が冷えるような感覚に襲われる。
情景が浮かんだ。今まで見た中で一番、身の毛が逆立つ思いがした、あの映像だ。
映像では、“わたし”の視界に入ったのは、男が一人と女が三人、視線の主の少女が一人。
確かに一時は、頭に流れてくる映像は自分の過去の出来事だと思ったこともあった。けれど、あまりの実感のなさから『やはり違うかもしれない』と考えを改めたのだ。
「Quid accidit?」
何か言っている。……どうでもいい。
心臓が不快な音を立てている。
—— あの映像の少女は……私?
頭痛が再び襲ってきた。男が涎を垂らしながら近づいてくる。
息が追いつかない。吸っても吸っても空気が足りない。
全身に力が入る。
—— 『Manus pedesque fortiter tenete.(手と足をしっかりと押さえつけろ。)』
脳裏に響く下劣な声。男が舌を這わせる度に、胃が圧迫されていく。
—— 『Nolo! Desine, quaeso!(嫌です! やめてください、お願いします!)』
胃の中のものが逆流する。激しくむせ返り、身体を本能的に捩らせた。
全身が痙攣を起こす。息ができない。
—— 『Obsecro, obsecro, ignosce… mi pater!(どうか、どうかお許しを…っ、お父様!)』
脳内に響く少女の叫び声を最後に、私の意識は暗転した。




