オタクになりたかった少女と、私と、左斜め前の君
午後の教室に、教科書を読み上げる涼しげな声が響き渡る。
「We all want to find something special about ourselves.」
英語の時間は私にとって特別な時間だった。
私の左斜め前に座る彼女、『村上紗良』から発せられる英語の発音はまるでネイティブで、「ディス・イズ・ア・ペン」のような日本語然とした発音とは一線を画していた。
彼女の流暢な発音を、一部の連中は揶揄したりしたが、彼女はそんな事を気にする様子もなく、常に凛とした表情で教科書を熱心に読み上げるのだった。
英語教師もそんな彼女の発音を好み、英語の時間に彼女が教科書を読み上げるのはもはや恒例行事となっていた。
「Trying new things, like reading a book or talking to someone new, can help us grow. 」
いかにも教科書に出てきそうな真面目な文章、それでも彼女が読み上げると不思議と魅力的な言葉に聞こえてくる。
ちら、と教科書を読み上げている彼女に視線を送る。
手入れが行き届いている、黒くて艶やかな長い髪、教科書を見つめる知的な眼差し。
私は、
彼女のその凛とした横顔が好きで
彼女の口から発せられる流暢な英語の発音が好きで
彼女の涼しげな声が好きで
彼女の声が響くたび、胸のどこかが締め付けられるようだった。
「But growth sometimes brings unexpected challenges. With each step we take, we learn more about who we are and who we want to become.」
彼女が読み上げると同時にチャイムが鳴る。
特別な時間が終わってしまう寂しさを感じながら席に座る。彼女の朗読を永遠に聴ければ良いのに。
「あのー、ちょっといい・・・かな・・・?」
クラスメイトの高坂あかりに声をかけられ、私はドキッとした。
快活で交友関係も広い彼女と私は特に接点も無かったからだ。
「あ、ああ、高坂さん、どう・・・したの?」
普段の彼女の快活な姿とは異なる切迫した表情で、言い淀みながら彼女は続けた。
「いや、あの、この前借りた本を返しに来たんだけど・・・」
「あー、そういやそんなこともあったね。」
1ヶ月前に「オタクになりたい!」と突然私に相談してきた彼女に、私は一冊の本を貸していた。その後特に反応も無かったため、私は興味がわかなかったのかな?とそれ以上深追いをせず、たった今彼女に言われるまでその事を忘れていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。実は借りた後にあの、その・・・」
「・・・どうしたの?」
言いづらそうにしている彼女に私がそう促すと、彼女は決心したようにぐっと手を握ると言った。
「えっと、実は本、無くしちゃって・・・で、新しく買って返そうと思って探したんだけど同じタイトルなのになんか見た目がちょっと違うやつしかなくって・・・」
「あー、高坂さんに貸したやつ初版だし、今はレーベル自体が変わってるから・・・」
「ほんとごめんなさい。」
と彼女は深々と頭を下げながら両手で恭しく本を差し出した。
『空の王国と蒼穹の乙女』その第一巻、発売当時はS文庫だったが今はD文庫から出版されている。
旧S文庫版の初版は中々手に入らないし、続刊と見た目が違うのが1冊並ぶと本棚の見栄え的にもよろしくない・・・中身はほぼ同じとはいえ、とても『等価交換』とは言えない代物。
ただ、レーベルを移籍しての再出版にあたって、表紙も後書きも書き下ろしなのは評価ポイントだろう・・・と無理やり自分を納得させる。
「中身はほぼ一緒だから。わざわざ探してくれたんだね、ありがとう。」
半分は本心、半分は社交辞令で私はこう答える。
「ごめんね〜、ありがと〜」
と彼女はやっと表情を崩す。その表情には先ほどまでの切迫感は無く、いつもの彼女の明るい表情に戻っていた。
「でも流石だね〜君がおすすめしてくれただけあってとっても面白かったよ」
「え、読んだの?」
「そりゃせっかく借りたんだから読むでしょ!オタクの道も一歩からってね!」
彼女は胸を張り何故か自慢げにそう言う。
「はー、そう言えば高坂さんって何でオタクになりたいの?」
私の言葉に彼女の目が一瞬泳いだが、出てきた言葉はそれを感じさせないものだった。
「なんか、みんなと同じじゃつまんないなって思ってさ、オタクってなんか自分だけの世界持ってる感じでカッコいいじゃん?」
かっこいいならもっとみんなこぞってオタクになろうとするのでは?と若干疑問を感じたが、それ以上は突っ込まなかった。それ以上に、私は彼女が本を読んで「面白い」と言ってくれた事が嬉しかった。
「次もなんか読んでみる?」
「えー、いいの?じゃあ続き読みたい!」
「いいよ、明日持ってくるね、でも今度は無くさないでよ?」
「ありがとー、今度は気をつけるよ〜、あ、ゆうこ達と約束してたんだった。じゃ明日ね〜」と言うなり、彼女は手を振りながら教室の外に駆け出して行った。
席に残された私がふと左斜め前の席に目をやると、その席の主と目がった。
その席の主、村上紗良は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに私に微笑みかけた。
窓から差し込む午後の光が彼女の黒髪を柔らかく照らし、その輪郭まで淡く縁取っていた。
英語の教科書を見つめる知的で、真剣な眼差し、その眼差しが私に向けられているだけで自然と私の胸は高鳴るのだった。
こらえきれず私はすぐさま目を逸らす。
(・・・なんだ、高坂さんと話してたの見られてたのか・・・?)
机に突っ伏し、胸の高鳴りを抑えながら自問する。
(いや、見られてたから何だと言うのか・・・)
と自分を落ち着かせる。
数分後、彼女の席に目を向けた時、そこには既に席の主の姿は無かった。
窓の光だけが、まだ彼女の席を照らしていた。
***
その日以来、高坂あかりは私を「師匠」と呼び、何かと「オタク道」について指導を受けようとしてくるのだった。
私が紹介する物は、彼女にとっては全てが新鮮だったようだ。
そんな彼女の素直な反応は、私にとっても嬉しい物だった。
「師匠〜これもう読んじゃったから次貸してよ〜」
「このキャラかっこいいよね〜」
「ちょっとこの表紙エッチすぎない?本屋さんで自分で買えないよ。中身は面白いのに」
気づけばいつしか、私と高坂あかりは週に何度か、読んだ本の感想を語りあい、本屋に新刊を一緒に探しに行くような関係になっていた。
その日も私とあかりはいつものように本屋に新刊を探しに行く途中だった。
並んで歩いている私にあかりが突然声をかけた。
「そういえばさあ、師匠って村上さんの事好きでしょ」
「えっ・・・!?」
「英語の授業の時いっつも見てるじゃん、バレバレだよ」
「いやっ、そのっ・・・」
「村上さん綺麗だもんね〜、さすが師匠はお目が高い。でも村上さん男子に人気だからな〜、競争激しいと思うよ?」
「そっ、そうなの・・・?」
「え、知らないの?村上さんが今まで何人の男子を撃墜してきたか」
そうだったのか、さすが女子のネットワークは情報が出回るのが早い、自分も気をつけなければ。いや、私のような空気みたいな存在は女子の関心を引かないか・・・
「ふーん、でもその反応はやっぱりそうなんだね〜、ここはいっちょ師匠のために一肌ぬいじゃおっかな〜」
「いや、僕は、別に・・・」
「まあまあ、遠慮しないで〜師匠には色々お世話になってるからさ〜」
あかりはいつになく強引だ。何が彼女をここまでさせるのだろうか・・・
「で、でも高坂さん村上さんと仲良いんだっけ?」
「いや、そうでもないよ、何度か話したことあるぐらい。けど今から仲良くなればいいでしょ?」
「えっ・・・?」
「まあ任せときなさいって〜」
私は一抹の不安を覚えながらも、あかりのその言葉に密かに期待していた。
本屋に向かう足取りが心なしか軽くなる。その日の2人での本屋めぐりはいつになく楽しかった。
***
数日後、放課後にあかりが私の席にやってきた。
「師匠〜、今日、本屋寄って帰ろう」
「ああ、新刊出るの今日だっけ、ちょっと待って、すぐ行くよ」
いつも通りのやりとりをし、あかりと連れ立って教室を出る。
校門を出ようとした時、あかりが思い出したように私に言った。
「あ、今日私の友達も一緒でいい?」
「え、友達・・・?い、いいけど・・・」
一体誰だ・・・正直気乗りはしなかったが仕方なくそう答える。
「よかった!校門前で待ち合わせしてるんだ〜、もう来てると思うけど・・・あ、いたいた、こっちだよ〜」
とあかりが手を振る。
その先には村上紗良が両手でカバンを体の前に下げて立っていた。
私は思わず息を呑み、あかりを見る。
あかりはニヤニヤしながら意味ありげに私を見返す。
「ごめんね〜村上さん、待った?」
「いいえ、私も今来たところだから」
村上紗良の声は英語の教科書を読み上げるその声そのままの涼しげで、落ち着いた、よく通る声だった。
私の頭の中はパニックだった。いったい何故・・・
いや、数日前に確かにあかりが「一肌脱ぐ」と言っていたがまさかこんなに直接的な行動に出るとは・・・
「師匠?どうしたの?固まっちゃって」
ニヤニヤしながらあかりが私に言う。
(こいつ・・・)
内心の動揺を悟られないようになんとか言葉を捻り出すがどうにもうまくいかない。
「あ、ああ、村上さん、本日はお日柄もよく・・・・」
「ぷはっ、師匠、何言ってるのよ」とあかりが笑いながら私の背中を叩く。
その衝撃が私の緊張をほんの少し和らげた。
ちらと紗良を見ると口に手を当ててくすくすと笑っている。
嫌味の無い上品な仕草、なんだよそれ、反則じゃないか・・・
「村上さんもね『空の王国と蒼穹の乙女』好きなんだって。ね?」
「ええ、そうなの」
「あ、ああ、そうなんだ、奇遇だね」
少し落ち着きを取り戻したものの、完全にキャパシティを超えている私の脳からはそのようなありきたりな言葉しか出ない。
その後の記憶は曖昧だった。とりあえず本屋に行き、その後ファストフード店で談笑し、家に帰ったのだけは間違いない。
紗良は確かに『空の王国と蒼穹の乙女』が好きなようだった。
彼女の記憶はとても正確で、具体的なシーン、セリフの一つ一つまでほぼ完璧に覚えていた。
「あ、それ三巻の50ページのセリフでしょ。私もそのセリフ好きだな。主人公の今までの集大成って感じがして」
あかりは私と紗良の会話に途中までは付いて行こうとしていたようだが、最後には諦めてスマホを弄っていた。
私はそんなあかりの姿を横目で見ながらも、紗良との会話に夢中になっていた。
ひとしきり語りあって興奮さめやらぬ私を尻目に、あかりが紗良に質問した。
「村上さんって英語の発音良いよね〜子供の頃から英会話とかやってたの?」
紗良は一瞬逡巡したがはっきりとした口調で答えた。
「私、10歳まで両親の仕事の関係でイギリスに住んでたから」
「へ〜、そうだったんだ!なんかかっこいいね〜帰国子女ってやつ?」
「別に私がすごいわけじゃないよ」紗良の表情が一瞬だけ曇ったのを私は見逃さなかった。
紗良が腕時計をちらと見る。
スマートフォンを見れば時間がわかるこの時代に、彼女は腕時計をしているのだった。スマートウォッチでもないアナログの文字盤。彼女の印象そのままの、とてもシンプルで知的なデザイン。見るからに高級そうな腕時計。
「私、そろそろ帰らなきゃ。ありがとう、今日はとても楽しかったわ」
「どういたしまして〜、またよかったら付き合ってね〜」
「あ、ああ、僕も楽しかったよ、こちらこそ、ありがとう」
紗良は私とあかりにそれぞれ会釈をし、軽く手を振って店の外に出て行った。
私は紗良の後ろ姿が見えなくなるまで、そこから目を話せなかった。
先ほどまで紗良が座っていた席が空になり、私とあかりだけが残されていた。
「師匠〜、盛り上がってましたな〜」
とあかりがニヤニヤしながら私に言う。
「あ、ああ、そうだね・・・」
「でも、ちょっと悔しかったな〜私、話にぜんぜん付いてけなかったから」
あかりは紙コップのストローをくるくると回している。
「え?」その言葉に私ははっとする。
そういえば途中から紗良とばかり話していてあかりの事は全く目に入っていなかった。
「私ももっと勉強すれば師匠と村上さんみたいに話せるようになるのかなぁ〜」
普段通りの明るい表情だが、少し遠くをみつめながらあかりがそう言った。
私は何かを言いかけたが、適切な言葉が見つからず飲み込んだ。
***
翌日、登校した私に「おはよう」と紗良が声をかけてきた。
「昨日はありがとう、とても楽しかったわ。また誘ってね」
「あ、ああ、こちらこそ楽しかったよ」
ぎこちなく答える私を見て紗良は微笑む。今日は朝から良い気分だ。
そこに「師匠おっはよ〜」と明るい声であかりが割り込んできた。
「高坂さん、おはよう、昨日はありがとう、楽しかったわ」と紗良が言う。
「次は私も負けないからね〜」
「何の勝負だよ・・・」
「師匠に言ってるんじゃなくて村上さんに言ってるの!」
「どういう事・・・?」
紗良は私とあかりのやりとりをくすくすと笑いながら見守っている。
チャイムが鳴り今日の授業が始まる。
1時間目は・・・「英語」
英語教師が紗良を指名し、紗良はいつもの通り音読を始める。
どうやら今日からは「小説の読解」のようだ。
「It was in spring when I first met Emma and Jack.
We laughed together, and we shared many stories.」
紗良がいつもの涼しげな、教室内に良く通る声で音読する。
私はいつものように左斜め前の彼女の横顔を見つめていた。
ふと、紗良と視線が合う。彼女が一瞬私に微笑みかけたように感じた。
(・・・いやいや、妄想も甚だしい)と私は頭を振る。
そんな私の姿を、右斜め後ろのあかりがじっと見つめている事に、私は全く気づかず、紗良の声に耳を傾ける。
「But in autumn, something between them began to change.
I could feel the distance, but I didn’t know who was moving away.」
英語の授業も、放課後の寄り道も、何気ないやりとりも。
その全てが、少しずつ私を変えていく。
悪くない変化だ。そう思えた。