新居
踏み込んだ夜の日以降清華がよそよそしい。理由はおおよそ見当がついている。あの夜、私は清華に人との別離の恐怖を思い起こさせてしまったのだと思う。
あの夜清華がうなされていたことは薄弱な根拠ながら1つの傍証になる得ると思う。
私は清華にまた一歩踏み込んだのと同時に、清華の私に対する壁を高くしてしまった。いや、高くしたというよりも再建させてしまったと言うべきかも。時間をかけて徐々に崩していたのを、前回のことで壁を築き直させてしまった感じ。
挙句には「新しい家はいつ見つかりそう?」と婉曲な表現でさっさと出ていけとまで言われてしまった。
というわけもあって今日は内見に行く。ちなみに妹ちゃんも一緒。タワマンの中を見てみたいらしい。
「Я верю, друзья(友よ、私は信じる)」
駅までの道中、やたら時計を眺めていた妹ちゃんは唐突にそう言った。
「……は?」
発音とか文法が変なわけじゃない。ただ考えても意図していることが読み取れない。妹ちゃんが変人なのは今さら論を俟たないが、しかし意思の疎通まで困難になるとは……。
何言ってるんだお前は、と反応に困っていると妹ちゃんは「やれやれ、こいつ使えねぇな」みたいなノリで溜息を吐いた。
え、結構イラつく。
「14 минут до старта(出発まで14分)」
意味はわかる。きっと電車が出発するまでの時間ってことだろう。問題は一向に意図がわからないことだ。
「意味がわからないよ」
「歌だよ歌。あるじゃん、Я верю, друзьяって曲が」
別名14 минут до стартаだよ。ったくもぉ……。なんて妹ちゃんは続けた。
いやあのね、いくら私でもロシアの歌全てを網羅しているわけじゃないんですよ?ていうかそれロシアの歌?君のことだからロシアよりソ連の方が好きでしょ?チロリと抗議と疑問の視線を向けるが、妹ちゃんはどこ吹く風とばかりに歩いていた。
陽気な天気に誘われたかランランと歌うその歌詞は、そういえばどこかで聞いたことがある。ああそうだ、宇宙への期待を込めた歌だ。
しかし随分上手に歌うじゃん。昨日過去形に苦戦してたとは思えないほどだ。大体どの言語もそうだと思うけどロシア語は暗記だよ!
聞けば単語を調べ発音をコピーして真似しているだけだと言う。とは言え発音に不自然な箇所はなく、かなり流暢だ。
こいつ昨日本当に現在進行形ってどんな形だっけ?って聞いてきた子?ロシア語に現在形と現在進行形の区別はないよ!基本のキだよ!
「こ↑こ↓。ベラルーシ駅」
「なわけ」
ベラルーシ駅ってのはモスクワにある駅だ。目的地がベラルーシだからベラルーシ駅。日本とは違う命名の仕方だよね。
ところでなんで急にベラルーシ駅……。
聞けば妹ちゃんの中で駅と言えばベラルーシ駅しかないのだとか。マジ知らん。
Нам нужна одна победа(求めるのは勝利のみ)。お気に入りの軍歌に関係があるから、らしい。
やってきたのは電車で一本、主要な駅の近くに所在するタワマン。高校からもほど近く、また清華の家からのアクセスも容易。地理的な不満は一切ない。
「はえ〜、すっごい」
エントランスに入る前から妹ちゃんは興奮しきりだった。部屋に入るとなおさらで、私は妹ちゃんの気の赴くままに好きにさせた。
「いいなー。ここに住みたいなー」
羨望の色を覗かせながらそう言う妹ちゃん。ほう、じゃあ部屋交換する?私妹ちゃんの部屋に住んで清華と同じ屋根の下に住みたい。
が、非常に残念ながらそれが叶わないことはよーく知ってるから何も言わない。
私は内見を進めた。冷蔵庫用のスペースとか家具用のスペースがあるかを計測。
あと特に気になるのが景色。窓から西を見る。地平線まで高さのある建物はなく、そのため夕暮れ時には地平線の限りなく近くまで沈む夕陽が見えるだろう。清華の好きな。
素晴らしいのは寝室からもこの眺望を得られることだ。いつか清華を招いて一緒にベッドから暮れなずむ夕焼けを見たい。
決して不可能ではないだろう。私の家に招いたこともあるし、今は清華と一緒に寝ている。
うん、決めた。ここにする。
転居にともなう諸々の費用については先日私の所属事務所の所長が全額負担することで話がついている。後は業者経由で請求書を突き付けてもらえば良いだろう。
入居は一週間後の予定。清華の家から出て行かなくちゃいけない。結構寂しい。辛い。
……と、思っていた時があったんだけど。私は妹ちゃんの部屋で恐ろしいものを見てしまった。
まず入って正面に旭日旗。日の丸じゃないのがやや気になるが、まあ日本を象徴する旗だ。愛国的だね、としか思わない。
左に目をやると少し雲行きが怪しくなってくる。ソ連国旗がある。まあでも妹ちゃんソ連好きらしいしなんとかわかる。
ヤバイのはここらからだ。視線を右に向けると旭日旗の右に『滅共』の達筆。怖い。一体何を滅ぼすというのだろうか。
視線をさらに右に巡らせると……。なんと鉤十字。そう、ナチスの旗である。しかも旗だけにとどまらない。ルーン文字のSSの字の踊るポスター。親衛隊、それから親衛隊の軍事部門である武装親衛隊の隊員募集ポスター。
ヤバい。こいつマジでヤバい。お前まともか?と聞けば思想の反復横跳び!と返ってきた。かなり結構切実に恐怖を感じる。
さて、ここに小さなソ連国旗があります。これを妹ちゃんの頭頂部に差します。するとなんということでしょう……!妹ちゃんが実に流暢なロシア語でソ連国歌を歌い出すではありませんか!ちなみに1944年版。一般に広く知られている1977年版とは違い、歌詞二番にスターリンが登場し、三番は我が軍は栄光の道から侵略者を追い出すのだ!(大意)となっている。
他にもチャンネルをぐるぐる回せば幅広く軍歌を歌ってくれる。
次にナチス・ドイツの旗を差してみる。すると歌い出すのはホルスト・ヴェっセルの歌。ナチスの党歌。他にも親衛隊は敵地を進むとか有名どころのエリカとか色々。
「あっ」
楽しくて色々してたら妹ちゃんがショートしてしまった。何やら焦げ臭い臭いが立ち込めブスブスと黒煙が上がる。
「やっべ……。い、妹ちゃん?」
ヤバい。妹ちゃん、清華の人間関係のベクトル家族にばっかり向いてるって言ってたもんな。それに私の部屋に男が押し入ってきた時のことを考えると、もしこのまま妹ちゃんが壊れたら私が凄惨な清華に拷問の末殺される。爪と歯を一本ずつ丁寧に抜かれた後目をくり抜かれて鼻と耳を切り落とされそう。あと皮膚を丁寧に切りとられて精肉みたいにされそう。なんなら自分の姿見たいよね?とか言って片方の目だけ抉り出されて殺される直前に残された目を潰されそう。
妹ちゃんはひょいと振り返った。
「……どうした劣等人種?」
「ウ……(絶句)」
とりあえず大変によろしくないのはわかった。一旦ベッドに寝かせて水を飲ませた。シャットダウンしたように眠り始めた妹ちゃん。
よかった。これで清華に拷問の末殺されるなんてことはなくなったろう。
……ふむ?身内に対する防御や報復に際して清華は非常に暴力的になる。男が私の部屋に押し入ってきた時、そして推測だけど逢に報復した時もそうだった。……ということは?