第26話
「ですから、逢が起こした事件ですから事務所所長であるあなたにも責任を取ってほしいわけですよ」
私は事務所所長や弁護士をせっつきまわして新居獲得とその費用の獲得に奔走していた。新居についてはいくつか候補があって、だからあまり問題無い。
問題はその費用だ。逢に支払い能力はなく、所長はこの事件を表沙汰にして事務所の評判に傷をつけたくないからと逢の関係者に費用を請求することを避けるよう求めている。そのくせ自分や事務所の費用で贖うことはしない。
事務所移籍しようかな。今在籍してるとこも条件悪くないんだけど今回の対応はなあ……。幸い私の外見への需要は高い。いきなり移籍したら契約関係が面倒になるだろうけど、そこは事情を話せばむしろ同情してもらえるだろう。
「あのですね、私はなにもあなたの事務所だけでしか働けないわけじゃないんですよ」
お前が動かないなら移籍だってできる。そうなれば事件を隠す必要はないんだぞと伝える。
『いやぁ、それはね……』
止めてほしいよ、と所長は言い募るものの、かといって費用を負担するとは言わない。さすがにタワマンの費用は高いよ、とは言うものの、でも事務所の予算からしたら微々たるものだろう。言い訳に過ぎない。
「よく考えといてくださいよ。でも早くね」
半ば言葉を投げつけるようにして電話を切った。一応移籍先の事務所候補もいくつかある。引き抜きのための接触を受けたこともあって、その名刺もある。
とはいえ移籍のための行動、例えば交渉なんかはまだ実施に移すには時期尚早。移籍しなかったら不用意に事件を周囲にバラすことになるだけだし。
まったく憤懣やるかたない。
部屋探しの作業に戻った。とりあえず費用面は無視して部屋の所在地や間取りなんかから選んでいく。色々候補や確認事項があって迷ってるけど、半分くらいはこのまま清華の家に留まるためにわざとゆっくりやってる。清華に嫌われたくないからさすがにあからさまにはしないけど。
けど。密かな不安がある。事件の日以来、私は夜が怖い。特に、夜に鍵と扉の開く音がするととてつもない恐怖に駆られる。また1人で暮らせるだろうか?
ため息1つ。気分転換に紅茶でも飲もうとリビングへ。
「うわあっ!?」
ガスマスクを装面した人が上階から降りてきた。思わずフライパンを握りしめて臨戦態勢。
「落ち着けよ」
ガスマスクの中から響くくぐもった声。その声と2つのレンズから覗く目、それから体つきからようやく妹ちゃんだとわかった。
「驚かさないでよ」
「いやあ悪いね。最近毒ガスにハマってて」
「いや知らんし」
「いやぁ私ね、赤と言えば我ら人民の党、共産党だけだと思ってたんだよ。でもジフェニルシアノアルシンって解釈もあったんだね!」
ほんと己の不明を恥じ入るばかりだよ、と妹ちゃんは話すが本当に意味がわからなくて怖いし詳細を聞くのも怖い。ジフェニ何とかって響きとそのガスマスクからして化学物質でしょ。しかもヤバイやつ。
私の無言をなんと捉えたか妹ちゃんは余計な補足を始めた。
「ジフェニルシアノアルシンってのは嘔吐剤だよ。日本軍ではね、あか剤って呼称してたんだ」
突撃は毒ガスの散布後30分以内に発起しなきゃダメだよ!と続ける妹ちゃんを制止。待て待て待て。そうじゃない。
「ていうかさ、それ何?」
話を逸らすために妹ちゃんの持っている袋について尋ねた。
「ああこれ?代用コーヒー。こっちがチコリの根で、こっちがたんぽぽの根」
飲み比べるんだと声を弾ませる。多分表情も弾んでるんだろうけどガスマスクのせいで見えない。
「ああ、そう……」
るんるるんるーん、らんららんららーんと心躍らせている様子はとても女子中学生らしい。けどガスマスクと代用コーヒーとかマジで感性がわからない。清華も変人だけど妹ちゃんも別ベクトルの変人なんだよなぁ……。
妹ちゃんの淹れたコーヒーは、やはり代用なせいかまったくコーヒーの香りがしない。ていうか土っぽい。たぶん湿った地面に転んだらこんな匂い感じるだろうなって。
「……外さないの?」
ずっとガスマスク装着したままだけど、そのままじゃ何も飲めないでしょ。
「ふっ……」
いやいや私には秘密兵器があるのだよ。妹ちゃんは大胆不敵に笑いじゃじゃーんと取り出したるは……、ホース?
流用品や改造品、応急品ではなく正規のものらしく、先端をガスマスクと合体させるともう一方の端をカップの中に入れた。どうやらストローらしい。
妹ちゃんはズゾゾー、とすすり一言。
「美味くはない」
その言葉とは裏腹に喜色満面といった様子。それまあ自分で望んで代用コーヒーを飲んでるわけで、美味しさは最初から求めてないんだろう。
代用コーヒーを飲みたいという理由も、どうせミリタリー的な観点からだろうから聞くのも止めた。
「飲む?」
「いや、遠慮しとくよ」
紅茶あるし、否定するわけじゃないけどわざわざ土っぽいコーヒーを飲もうとは思わない。
「コーヒーじゃなくて別種の飲み物だと思えば美味しいよ」
「だとしてもいいよ」
ブルリと業務用のスマホが震えた。何かと見ればメールを受信してる。『悲しいお知らせ』その件名に非常に不穏なものを感じた。まだ事件の影響を引きずっていて、神経が過敏になっているだけかも。
とにかく私はメールを開いた。マネージャーからではなく事務所からというのも気になった。
内容は逢のマネージャーが自殺したというものだった。急に心臓を掴まれたような感覚に襲われた。背中を嫌な汗が流れる。
このタイミングで逢のマネージャーの死。嫌な想像だと思う。誇大妄想の謗りを受けても仕方ないとも思う。けどこのタイミングで?自殺とはあるけど本当にそうなの?自殺した日付。これが清華が真夜中に出かけた日と一致する。
ニュースサイトを見て回っても、そもそも掲載されていないか、されていても扱いは小さく氏名も公表されていないため、マネージャーの件とも断定できない。
薄弱な根拠とはいえ、私は清華がこのマネージャーの件に関わっていると妙な確信があった。
「あのさ、清華って強いじゃん?なんで?」
外苑部から清華の深層に迫るために妹ちゃんに聞いてみた。