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不在

 私はしばらくの期間学校と仕事を休むことにした。事件の衝撃は大きく、とてもじゃないがすぐに元通りにはできない。


 それでも清華は普段通りに学校に行っていた。行動にも事件の余波のような不審なところは一切見えない。


 大半の人にとって非日常の暴力は、やはり清華にとってはなんてことはない日常の一角を成すものであるらしかった。


 陽光の燦々と降り注ぐ日中、私は清華の部屋で読書に精を出していた。以外、と言い表すかは悩むが清華は多岐にわたるジャンルを読むようだった。戦争からラブコメ、文芸からライトノベルまで様々。時代も中世から現代まで。


 テレビの下に多分あなたが好きになる映画がある、と言われたけど今日はもう本とマンガだけで時間が無くなりそう。


 そう、それから新しい部屋も探さないと。あの男がどのように私の住所を知ったかは不明だが、十中八九逢は私の住所を知っているのだろう。であれば今後のためにも部屋を変える必要がある。


 いっそこのまま清華と同棲できねぇかな……。


 読書の休憩に紅茶を淹れ、ふとリビングを見回してみた。テレビの横に何葉かの写真があった。清華と妹の写真、またそれに父親を加えた3人でのもの。


 ……母親は?昨日も今日も母親に会っていない。そもそも、どうやら姫舞家に母親はいないようだった。


 一時的な不在ではなく永久の不在。


 玄関に成人女性用の靴は無く、歯ブラシも清華、清華の妹、そして父親の3つしかない。他にも衣服やなんやも無い。そういえば清華から母親のことを聞いたことはなかった。


 ここまでで私が感得するのは、母親の存在が抹消されているということ。


 思い返してみれば清華が私の家で料理を作ってくれてた時、私が言ったお母さんという単語に反応していた。それもあまり良くない反応の仕方だった。


 過去を暴いて良いのか、という良心の呵責が顔を出し始めた。意図的に母親を無視しているのは明らかで、ということは過去に何らかの後ろめたい事態があったことも予期される。


 あるいはそれは事故や災害による死別、離別かもしれない。


 けどどちらにせよ、清華にとって、もしかしたら妹や父親にとっても封印したい過去という可能性はある。


 けれど私は清華を振り向かせると決めたから。だから私は敢然と踏み込むのだ。


 ガチャリと玄関が開いた。一瞬、昨夜を思い出して嫌な汗が背中を流れる。けれどすぐに気の抜けたようなただいま〜、という女の子の声で落ち着きを取り戻した。ああ、清華が帰ってくるにはちょっと早いと思ったけど妹ちゃんか。


 「こんにちは」


 飲んでいた紅茶のカップを掲げるとこんにちは、と頷いて特にはなかった。


 切れ長な目や全体的なツンとした雰囲気はよく清華に似ていた。やや幼い清華、みたいな。確かに妹だ。黒髪は肩にかかるくらいで、腰のあたりまである清華とは趣味が違うらしい。


 「あのさ」


 良ければご一緒にいかが?とお茶に誘う。将を射んと欲すればまず馬を射よ、って感じで清華について外堀を埋めつつ情報を引き出そうと考えてのこと。


 「はあ、」

 

 まあ、予定も無いし良いですよ、と妹ちゃんは応諾してくれた。


 どうやら妹ちゃんはモデルとしての私は知らないか興味が無いようだった。この姉妹、ファッションには無頓着なのだろうか。


 そういえばチャイコフスキーの白鳥の湖を聞くと八月クーデターを連想するっていう人だったなこの妹。


 けれどこの場合はありがたい。例えば私のファンであった場合は私に突っ込んできたり、最悪の場合事件のことをみだりに周囲に言いふらす可能性がある。特に事件のことはモデルとしてのイメージのために表沙汰にしたくなかった。


 たかが女子中学生とはいえ、交友関係がどう繋がっているかは分かったものではない。情報というものは、知っている者の数に指数関数的に比例して広がっていくものなのだ。


 「清華ってさ、結構色んな本読むんだね」


 私は当たり障りない会話から段々と清華の情報を引き出していく算段。


 「あぁ、一時期熱中してましたからね」


 「小説に?」


 「いえ、小説に限らず創作物全般に」

 

 「あんまり想像つかないね」


 何せ私の第一印象は喫茶店で一心に夕焼けを見ていた姿である。


 物静かな性格だから本を読んでる姿なんかは文学少女って感じでとてもよく似合う。けれど夢中になっている姿というのはあまりうまく像を結ばない。


 「まあ過去のことですからね」


 過去。そこを詳しく聞こうと思ったが妹ちゃんはそのことを話す気は無いようだった。


 「ところでロシア語話せるんですよね?教えてくれませんか?」


 「ロシア語?別にいいけど」


 妹ちゃんとの仲を深めるのは悪くない。それが私が知っていることを教えるだけなんて楽な手段だ。


 「ロシア語に興味が?」


 そりゃあソ連の八月クーデターなんて言い出すくらいなんだから興味があってもおかしくない。マジでなんでそんなの知ってるんですかね……。


 「ええ、とても。Я давно изучаю русский язык, а я не говорю по-русски.

Но трудно изучать по-русски.(私は長いことロシア語を学んでいますが、しかし喋れません。ロシア語を話すのは難しいです。)」


 「話せるじゃん」


 「これだけですよ」

 

 私は結構妹ちゃんのことが気に入った。相当変なところがあるけどロシア語話そうと頑張ってくれてるらしいのがとても嬉しい。


 「そういえばお名前聞いてなかったね。Могу ли я узнать ваше имя?(お名前うかがっても?)」


 「Я Сатуки. 姫舞冴月(さつき)です。よろしくどうぞ」


 いつの間にか普通にロシア語教室になっていた。けど全然悪い気はしないし、打算抜きに私は楽しい時間を過ごしていた。


 「Знамя とФлагの違いって何です?どっちも旗って意味ですよね?」


 「えっとね、平たく言えば規模の違いかな。Знамяは基本的にグループに使うんだよ。ギルドとか軍の部隊とか街とか。んでФлагは基本国だね」


 「ああなるほど。それでЗнамя Советскаяか 」


 「……はい?」


 Знамя Советскаяは訳せばソビエトの旗という意味になる。ロシア語初心者がなんでそんな単語さらっと出てくるんですかね。


 その疑問を察した冴月ちゃんが応える。


 「好きなんです。ソビエト社会主義共和国連邦国家の1944年バージョンが」


 「いや知らない知らない知らない」


 正直怖くなってきた。まずソ連国歌を正式名称で言うし、しかもバージョン指定である。ソ連、何回か国歌変わってるからね。


 なぜお前がそれを知っている。知るに至った。一種、恍惚の表情を浮かべる冴月ちゃんが相当の奇人変人であるのはもう疑いの余地が無い。この家姉妹揃って変わり種である。


 「どうしてそうなった……?」


 「教育の結果としか。お父さん寛容だから」


 なんでも姫舞家の父は興味関心のあることをのびのびと実施させる方針らしかった。


 ところで父親だけが出てきた。では母親は?奇貨居くべし。


 「お父さん?」


 表面上、ではお母さんはどのような方針なのだと尋ねる。


 「んぁ、お母さんはね……。いないよ。死んだんだ」


 一息置いた後、冴月ちゃんはなんてことないみたいに簡潔に言った。


 「あ、いや、それは……。その、何と言うか、お悔やみを……」


 あんまりあっさり言うからむしろ私が困惑してしまった。


 「お姉ちゃんはまだ引きずってるから言わないでね」


 「そりゃ、もちろん」


 種々の状況、清華の反応から察するに、清華は何かしら母親に関することにトラウマを抱えているのは間違いなさそうだった。

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