水
散々泣き腫て落ち着くと、傍らに両手首と両足首を拘束された男が横たわっていた。気絶しているのかピクリとも動かない。
清華は風呂借りるよ、言うと男の髪を引っ張って風呂場へ運ぶ。
さっきまでパニックで真っ先に清華に連絡した私が言うのも変とは思うけど、普通こういう時って警察に連絡するものなんじゃないの?
それにしても何で風呂場?一時的に男を拘束しておくとかそういうことじゃないよね?
私は、清華が男を見る顔が異常なまでに怖い顔をしていることに気付いた。尋常一様ではない。というより人の顔と認識できない。心底からの敵意、憎悪の発露。
顔が歪んでいるのではなく、能面のような無表情。けれど異常な鬼迫がある。
マンガやアニメの表現みたいな、黒いモヤがかかっていて、目だけが爛々と怪しく光っていた。
清華が意図していることが警察が来るまでの拘束でないことは明らかだった。
「清……華……?」
私は本当に清華なのか、また一体何を始める気なのか怖くなった。
清華は表情を変えないまま、どうしたと首を傾げる。その動作もまた戦慄を誘うものだった。動作そのものは人間なのに人間としての感情およそ全てが欠落している。
端的に表せば、人の皮を被った怪物。
一体何をしようとしているのか。その疑問を読み取ったかのように清華は言う。
「殺しはしないよ」
普段ならそうするけど今回は事情が違うし、と配慮をのぞかせる。殺すことが基本、さも当然であると平然と言ってのけた。
当たり前だ。そう簡単に殺人なんかされてたまるか。
「情報が必要でしょ?」
でもそれも護身にはやむなしなんだと清華は主張する。
この男が鍵を用いて侵入したのは清華も把握していた。清華としては偶然鍵を取得したのかそれとも誰かの手引きがあったのか、そこを追求する必要があるとのこと。
もっともだとは思う。私だって気になるし、確かに対策は必要。誰かが裏で手を引いているならその人物への追求だってだ。
しかし、それは警察の仕事ではないのか。
私が困惑していると清華はタオルを男の顔に被せた。端から清華には警察による事情聴取を待つという選択肢は無いようだった。
「だってそれまでに第二第三がないとは限らないじゃん」
それはまあ、一里はある。組織ぐるみだったら警察の取り調べを待っていては手遅れになる事態もあり得るだろう。
たしかに、理屈の上では清華の意図は十分理解できる。できるのだがだからといって即座に行動に移すその精神、思考回路がまったく理解できない。
誰が言ったか、『行き過ぎた、純粋な合理性は狂気である』とはまさしく今の清華を表すのにこれ以上なく相応しい。
これでも容赦してるんだ。本当はもっと手っ取り早い手があるんだとばかりの清華の表情を見て私はいよいよ言葉を無くした。疑いの余地無く清華は別世界の人間である。
そして、私は。何もしない。私は清華の主張に一定の合理性をみとめあ、また法律に反しているのを承知だが、そんなことよりも脅威が排除されることを願っていたからだ。
清華はこの手の仕事に随分と慣れているようだった。よくよく思い出してみれば、男を取り押さえたのも非常に迅速だった。男の驚く声が聞こえた次の瞬間には鈍い音がして、その後間を置かず私の安否を確かめた。男を気絶させたのと拘束はほとんど同時に行われたのだろう。
清華は男を固定すると、叩き起こし、まだ何が起きているのかを把握できていないままタオルの上から水を注いだ。
男は即座に呼吸が不可能になり、激しく頭を左右に振るが大きめのタオルが濡れて密着しているから窒息から逃れられない。
いよいよ息が続かなくなって男が動かなくなる寸前に清華はタオルをどけた。いつの間にかされている目隠しは恐怖を煽るためのものなのだろうか?
清華は何も尋ねずに何回も水責めを繰り返す。男は最初の2回で完全に打ちのめされたように見えたけれど、清華にはそれでは不十分だったらしい。
「聞きたいことがあるんだけどさ、素直に答えてくれる?」
否は無く、激しく首を縦に振って答える男に清華は「答えてくれない?そりゃ残念」と言ってまた水責めを始めた。
さらに何回か繰り返してようやく清華は情報を聞き出し始めた。男の名前を始めとした個人情報、そして重要な襲撃の手順。男はある人物の手引きを受けて今夜の襲撃を実行に移すことができたらしい。
その人物の名前を、さすがにあり得ないと否定しつつ、けれどどこかで予期していた。けれど実際に名前が出た時には衝撃を隠せなかった。
逢。モデル事務所に先に入所していただけの先輩。人間としては表層的、自分が一番でないと気が済まない承認欲求の塊、お山の大将気取り、腹黒いが底は浅く、自分の欲望に忠実で、私をさらりと枕営業の道具にしようとしたなどなど、およそ最底辺の人物である。
私に容姿や実績で劣っていることに大層腹を立てていて、逆恨みを受けていたが、まさか実力行使にまで及んでくるとはまるで思っていなかった。
清華は情報の確度を上げるため、別の情報を引き出すためになおも拷問を続ける。
ただ水責めを繰り返すだけでなく、「嘘だ!」、「誰がお前のような腑抜けを信用するか!」、「正直に言わないなら爪を剥がしてやる!」など恫喝を織り交ぜ、かと思えば急に「私はお前を心配してるんだよ」と気を遣い出す。
その的確に相手を追い詰める緩急の付け方は一朝一夕、見様見真似で可能なレベルではない。明らかに拷問に慣れている。
私は途中で見ていられなくなって逃げた。
拷問を終えた清華は私に聞いた。「殺す?」。もし望むならそうする。ベランダから落としてもいいし、もし男が死ぬのを見たいと言うのなら血管を傷付けて失血死に至る様子を見せる、と。正当防衛で突き通せるとも付け加えた。
私は恐怖に怯えながら首を振った。
自分の家で死人が出てほしくない。それにいくら正当防衛でも死者が出ると今後の芸能活動に大きく影響するから、と説得した。まさか自分が殺さないでと説得することになるなんて本当に思ってもいなかった。
私の意向を受けて、最終的に清華は警察を呼んで男を引き渡した。男がずぶ濡れなのは拘束中に暴れたからだと説明していた。
状況が状況ゆえに私と清華が責められることはなかった。男は完全に精神を壊していて、あれでは警察は、いくら男が拷問を受けたと主張してもまともに取り合わないだろう。精神錯乱ゆえに証拠能力無し、となるのだろう。
私は平然と警察に嘘を語る清華に何度目かわからない恐怖を抱いた。