不意
何と何と。冷蔵庫の中に清華からのプレゼントが入っていた。苺とその他果物をふんだんに使ったケーキ。なんと外箱には『|с днем рождения《お誕生日おめでとう》』と書いてあった。こんなにも心温まることはない。
ふへへ、と我ながら気味悪く笑いながらケーキを取り出し、それから上等なシャンメリーも用意した。
ステーキもデザートも平らげて、その上デザート第二弾なんてカロリー爆弾もいいとこ。だけど今日だけはもう、うんと特別な日。
本当に気持ち悪くてしょうがないが、まだ部屋に清華の残り香と温もりを感じる。
これ以上ない多幸感に包まれていると、ガチャリと玄関の鍵が開く音がした。
惚気のままに、ははーん、さては清華、忘れ物したな?と思ったのも一瞬、私は清華に合鍵なんてわたしてない。
じゃあ親?とも思ったが両親は外国だし、母方の祖父母は日本人だけど離れた距離に住んでる。第一両親であろうと祖父母であろうと、来る時は事前に連絡をもらうしインターホンだって鳴らす。
思考に直接南極の冷水を注ぎ込まれたように急速に冷静になる。
もしかしたらサプライズ訪問かもしれないと、有り得ないと知りつつ一抹の希望を抱きつつ玄関を確認した。
玄関につながる廊下にいたのは知らない男。フードにマスクを被り外見は杳として伺い知れないが、その血走った目を見れば、邪な意図を抱いていることだけは明らかだった。
私を視認し走る男へ咄嗟に物を投げつけると鍵のかかる寝室へ間一髪逃げ込んだ。
男はドアノブをガチャガチャと乱暴に扱い、さらにドアを何度も叩く。
私は理性も何もあったもんじゃなく、ただ恐慌に陥って、気付けば清華に助けを求めていた。
私のただならぬ様子、背後から響く怒声、ドアを叩く音に容易に非常事態であると把握できたらしい。
「とにかく落ち着いて。それから何でもいいからドアを補強して」
私は部屋の中を見渡して、小型のテーブル、物入れ、冷蔵庫をドアの前に押し付けた。男が体当たりしてもそう簡単には破れないように。
それから、清華は追加で指示を出す。もし窓のある部屋にいるなら、窓から迂回されないようにドアの近くで相手の気を引き続けろ。どうやら相手は激昂しているようだから、気を引き続ければより容易に侵入できる窓という選択肢を見逃すだろう。
そして、もし相手が侵入してきたならば。殺せ。一切の躊躇、容赦、呵責無く殺せ、と。
真実、私は男と同じくらい清華に恐怖した。別ベクトルの恐怖。いくら非常時とは言え何の躊躇いもなくあっさりと殺せと言い放つ清華の異様さ、冷酷さ。
けれどその酷薄さは、この非常事態ではかえって心強かった。
私は清華に言われた通り、男の気を引き付けるために扉越しに叫ぶ。
「何が欲しいの!?お金ならいくらでもあげるから!」
どうせ目的は私の体だろうと知りつつ叫ぶ。男からの返事は無く、ただドンドンと扉が叩かれる。体当たりで軋む。
このマンションは高いだけあって防音に優れているから、この騒動を隣家の人が聞きつけてくれることは望めない。
どのくらいそう怯えていたかわからない。ただただ怖くて呼吸が浅く頻拍になり、心臓は痛いくらいにバクバクと暴れる。皮膚を突き破ってしまうんじゃないかというほどだ。
武器になり得る物は乏しい。そもそもが寝室。広さはあっても装飾品は少ない。精々が本とかバックくらい。
もしあの男がとうとう扉を破って部屋に侵入してきたら。私は見知らぬ男に体を許すつもりは無い。絶対に無い。
だから、いざその時が来たら私は自死を選ぶ。ここはマンションの高層階。ベランダから宙に身を放れば重力に引かれるまま地面は一直線。墜死。人体として原型を留めないだろうことは想像に難くない。
こんなことになるなら無理矢理にでも清華の唇を奪ってしまえば良かった。
ガキンと異質な金属音が響いた。
「ひっ……」
とうとう扉が破壊されたのかと後ずさる。死んでやる。恨んでやる。男も、助けに来てくれなかった清華も。
けれど男は入って来ず、というか男も戸惑っているようだった。直後、男の驚く声、続くうめき声に何かが倒れた音。
一体何が起きたのか事態を把握できず呆然としているとコツコツと扉を叩く音。
「幸」
私を呼ぶのは良く知った清華の声。
「幸……?」
反応が無いのを訝しむ清華。違うんだ。力が抜けて上手く声が出ないの。
さては別の場所にいると清華は考えたか電話が鳴る。
「い、いるよ!ここにいる!」
私は一心不乱に扉を塞いでいたテーブルやらを払い除け、清華の姿を認めると一も二もなく抱きついた。そして外見も醜聞も関係なくわんわん泣いた。
安心感から涙は滂沱と流れ、嗚咽も止まらなかった。今ばかりは清華も私に抱き付かれるがままにしていた。