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第6章:存在の交響曲

 その日の午後、沙織は大学の講義室に立っていた。彼女の前には、哲学概論の受講生たちが座っている。しかし、今日の沙織は、いつもとは少し違っていた。


 彼女は、黒板に大きく「存在とは何か」と書いた。


「皆さん、今日は少し違ったアプローチで講義を進めたいと思います」


 沙織の声には、普段にない熱が込められていた。


「哲学は、単なる抽象的な思考の遊びではありません。それは、私たちの日常の中に深く根ざしているのです」


 学生たちは、いつになく真剣な表情で沙織を見つめていた。


「皆さんは、自分が確かに存在していると信じていますか?」


 教室に、少しの静寂が流れた。


「はい」「えっと……」「分からない」


 様々な声が、おずおずと上がり始めた。


「その答えに、絶対的な確信はありますか?」


 沙織は、さらに問いかけた。学生たちの間で、小さなざわめきが起こった。


「実は、この問いは哲学者たちを何世紀にもわたって悩ませてきました。デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言いました。しかし、それは本当に私たちの存在を証明しているのでしょうか?」


 沙織は、教室を歩き回りながら話を続けた。


「私たちの存在は、単に思考する主体としてだけでなく、感じ、行動し、他者と関わり合う存在としても定義されます。そして、それは常に変化し、形成され続けているのです」


 彼女は、ふと窓の外を見た。キャンパスの桜の木々が、風に揺れていた。


「見てください。あの桜の木々を。彼らも、ある意味で存在しています。しかし、その存在の仕方は、私たちとは異なります。では、何が私たちの存在を特別なものにしているのでしょうか?」


 一人の学生が、おずおずと手を挙げた。


「それは……意識ではないでしょうか?」


 沙織は、その学生に向かって微笑んだ。


「良い指摘です。確かに、意識は私たちの存在の重要な側面です。しかし、意識とは何でしょうか? それは、単なる脳の活動なのか、それとも何か別のものなのか」


 別の学生が発言した。


「でも先生、私たちの存在が確実でないとしたら、どうやって生きていけばいいんですか?」


 沙織は、深く息を吐いた。


「それこそが、私たちが探求し続けなければならない問いなのです。存在の不確かさは、恐れるべきものではありません。むしろ、それは私たちに自由をもたらすのです」


 彼女は、黒板に新たな言葉を書き加えた。


『存在は選択である』


「サルトルは、『人間は自由の刑に処せられている』と言いました。私たちの存在が固定されたものでないからこそ、私たちは自分自身を選び取り、創造していく自由と責任を持つのです」


 教室全体が、深い思索の雰囲気に包まれていた。


「そして、その選択の連続が、私たちの人生という物語を紡いでいくのです。それは、ある意味で壮大な創作活動と言えるかもしれません」


 沙織は、ふと自分の夢のことを思い出した。記憶の川、そして年老いた自分との対話。


「私たちの存在は、単独で成り立つものではありません。それは、他者との関わり、世界との交流の中で形作られていくのです。まるで、壮大な交響曲のように」


 彼女は、学生たちの顔を一人一人見つめた。


「皆さんも、この存在という交響曲の演奏者なのです。そして同時に、聴衆でもあります。私たちは互いの存在を認め合い、影響を与え合いながら、この世界という舞台で共に演奏しているのです」


 講義が終わる頃には、教室には通常とは異なる空気が漂っていた。学生たちの目には、普段とは違う光が宿っていた。


 沙織は、最後にこう締めくくった。


「存在の謎を完全に解き明かすことはできないかもしれません。しかし、その探求の過程こそが、私たちの人生を豊かにし、意味あるものにしていくのです。今日からは、自分の存在について、そして他者の存在について、より深く考えてみてください」


 学生たちが教室を出ていく姿を見ながら、沙織は静かに微笑んだ。彼女は、自分自身もまた、この講義を通じて新たな気づきを得たことを感じていた。


 存在という大きな問いは、答えを見つけることよりも、問い続けること自体に意味があるのかもしれない。そう、彼女は思った。


 沙織は窓際に立ち、キャンパスの景色を眺めた。学生たちが、それぞれの道を歩いていく。その一人一人が、かけがえのない存在の物語を紡いでいく。


 彼女は深く息を吐き、そして静かにつぶやいた。


「私たちは皆、存在という奇跡の中を生きているのだ」


 その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。しかし、それは沙織の心の中で、大きく反響していた。


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