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第4章:交差する存在

 京都の街を歩きながら、沙織は自分の周囲の世界をこれまでとは違う目で見ていた。通り過ぎる人々、古い町家、近代的なビル、そして頭上を飛ぶ鳩たち。全てのものが、存在というミステリーの一部のように感じられた。


 彼女は四条通りを歩いていた。突然、人混みの中で見覚えのある顔を見つけた。


「田中さん?」


 美咲が振り返った。彼女の表情には驚きと、何か別の感情が混じっていた。


「村上先生……こんなところでお会いするなんて」


 美咲の声は、少し震えているように聞こえた。


「散歩をしていたんです。ちょうどいい機会かもしれません。少し話をしませんか?」


 沙織は近くのカフェを指さした。美咲はためらいがちに頷いた。


 二人は静かなカフェの隅のテーブルに座った。窓の外では、人々が行き交い、時折、電車の音が聞こえてきた。


「田中さん、昨日の話の続きをしてもいいですか?」


 沙織は優しく尋ねた。美咲はコーヒーカップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと頷いた。


「先生……私、昨夜、奇妙な夢を見たんです」


 美咲の声は、ほとんど囁くように小さかった。


「どんな夢?」


「私が……消えていく夢です。周りの世界はそのままなのに、私だけが徐々に透明になっていって……」


 美咲の目に涙が浮かんでいた。


 沙織は深く息を吐いた。彼女自身も、似たような経験をしたばかりだった。


「美咲さん、あなたは消えていないわ。ここにいる」


 沙織は静かに、しかし力強く言った。


「でも、先生……どうやって確信できるんですか? 私が本当にここにいるって」


 沙織は少し考え、そしてゆっくりと話し始めた。


「美咲さん、哲学者のサルトルは『存在は本質に先立つ』と言いました。これは、私たちの存在そのものが、私たちが何者であるかという定義よりも先にあるということです」


 美咲は真剣な表情で聞いていた。


「つまり、あなたが存在しているという事実は、あなたが誰であるか、どのように定義されるかよりも根本的なものなのです。あなたは、ただそこにいるだけで、既に存在しているのです」


 沙織は美咲の目をしっかりと見つめた。


「そして、その存在は常に変化し、形成されつつあるものです。昨日のあなたと今日のあなたは、微妙に違う。それでいて、根本的には同じあなたなのです」


 美咲はゆっくりと頷いた。彼女の表情に、わずかな安堵の色が見えた。


「でも、先生……私たちの認識が、現実を作り出しているのではないですか? もし私が自分の存在を疑うなら、それは現実になってしまうのでは?」


 沙織は微笑んだ。


「いい質問です。確かに、私たちの認識は現実の一部を形作ります。しかし、それが全てではありません。あなたが自分の存在を疑っているという事実自体が、あなたが存在している証拠なのです」


 沙織はコーヒーを一口飲み、続けた。


「デカルトの『我思う、ゆえに我あり』を覚えていますか? 疑うという行為自体が、疑っている主体の存在を証明しているのです」


 美咲の目に、理解の光が宿った。


「つまり……私が自分の存在を疑っているということは、疑っている『私』が確かに存在しているということですね」


「そうです。そして、その『私』は固定されたものではなく、常に変化し、成長し続けているのです」


 沙織は窓の外を指さした。


「見てください。あの通りを歩いている人たち。彼らも一人一人が、自分の存在について悩み、考え、そして生きています。私たちは孤立した存在ではなく、この世界の中で互いに影響し合い、形作られているのです」


 美咲はしばらく黙って外を見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「先生……私、少し分かった気がします。存在するということは、単に『ある』ということではなくて、『なっていく』ということなんですね」


 沙織は嬉しそうに頷いた。


「その通りです。そして、その『なっていく』プロセスの中に、私たちの自由があるのです」


 二人は、しばらく静かにコーヒーを飲みながら、窓の外の景色を眺めていた。やがて美咲が静かに言った。


「先生、ありがとうございます。私……もう少し自分自身と向き合ってみようと思います」


 沙織は優しく微笑んだ。


「それが大切です。そして、迷ったときは、いつでも相談に来てください」


 美咲が帰った後、沙織はしばらくカフェに残った。彼女は自分のノートを取り出し、新しいページを開いた。


『存在とは、孤立したものではない。それは、世界との、そして他者との関わりの中で形作られていくものだ』


 沙織はペンを置き、深く息を吐いた。彼女は、自分自身の存在についての理解が、この対話を通じてさらに深まったことを感じていた。


 カフェを出た沙織は、再び京都の街に溶け込んでいった。彼女の周りでは、無数の存在が交差し、影響し合い、そして共に「なっていく」プロセスを続けていた。


 沙織は、自分もその大きな存在の織物の一部であることを、今までになく強く感じていた。


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