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第3章:現実の輪郭


 沙織は、頭の痛みを抑えながらゆっくりとベッドから降りた。カレンダーを見ると、今日は土曜日だった。講義はない。彼女は深呼吸をし、キッチンに向かった。


 コーヒーを淹れながら、沙織は昨夜の夢の断片を思い出そうとした。しかし、それは霧の中をさまようようで、明確な輪郭を捉えることができなかった。


「存在とは、常に『なる』プロセスの中にある……」


 その言葉だけが、妙に鮮明に頭の中に残っていた。


 沙織はコーヒーカップを手に取り、小さなバルコニーに出た。京都の街並みが、朝もやの中にぼんやりと浮かんでいた。遠くに見える東山の稜線が、現実と非現実の境界線のように感じられた。


「私は本当に……ここにいるのだろうか」


 沙織は呟いた。その瞬間、彼女の視界がぼやけた。目の前の景色が歪み、まるで水中で見ているかのようになった。


 パニックに襲われそうになったが、沙織は深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。彼女は目を閉じ、自分の存在を確かめるように、両手でコーヒーカップの温もりを感じ取った。


 目を開けると、景色は元に戻っていた。しかし、何かが決定的に変わってしまったような感覚が残った。


 部屋に戻った沙織は、机の上に置かれたノートを手に取った。そこには、昨日の講義の準備で書きとめた哲学者たちの言葉が並んでいた。


「我思う、ゆえに我あり」

「存在は本質に先立つ」

「汝自身を知れ」


 これらの言葉が、今までにない重みを持って沙織の心に響いた。


 彼女は椅子に座り、新しいページを開いた。ペンを手に取り、ゆっくりと書き始めた。


『存在の輪郭 - 私は誰であるのか』


 沙織は、自分の存在について深く考察し始めた。彼女の思考は、哲学的な概念と個人的な経験の間を行き来した。


『私たちは、自分が確かに存在していると信じている。しかし、その確信はどこから来るのだろうか。記憶? 感覚? それとも他者からの承認?』


 書きながら、沙織は昨日の美咲との会話を思い出した。彼女の問いは、単なる哲学的な思考実験ではなく、現実の苦悩を反映していたのだ。


『存在の不確かさは、恐怖をもたらす。しかし、それは同時に自由の源泉でもある。もし私たちの存在が完全に固定されたものであれば、変化や成長の余地はないだろう』


 沙織は筆を止め、窓の外を見た。街は徐々に活気を帯び始めていた。人々が行き交い、車が走り、鳥が空を舞っている。この全てが、存在というドラマの一部なのだ。


 突然、沙織はある考えに襲われた。


「もし……私が見ている世界が、誰かの夢の中の出来事だとしたら?」


 その考えは、恐ろしいと同時に、奇妙な解放感をもたらした。もし全てが夢だとしたら、失敗を恐れる必要はない。同時に、全ての瞬間が貴重なものとなる。


 沙織は再びノートに向かった。


『存在とは、常に「なる」プロセスの中にある。これは、夢の中の言葉だったかもしれない。しかし、その真理は深い。私たちは、静的な「もの」ではなく、常に変化し続ける「こと」なのだ』


 彼女は、自分の手が震えていることに気がついた。これらの考えは、単なる哲学的な思索を超えて、彼女の存在そのものを揺るがしていた。


 沙織は立ち上がり、鏡の前に立った。そこに映る自分の姿を見つめながら、彼女は問いかけた。


「鏡に映る私は、本当の私なのか? それとも、私の認識が作り出した幻想なのか?」


 その瞬間、鏡の中の自分が微笑んだように見えた。しかし、それは錯覚だったのかもしれない。


 沙織は深く息を吐いた。彼女は、これらの問いに対する明確な答えを持っていなかった。しかし、問い続けることの重要性を感じていた。


 彼女はノートに戻り、最後の一文を書き加えた。


『存在の真理は、おそらく一つの答えに還元できるものではない。それは、問い続け、考え続け、そして生き続けることの中にあるのだろう』


 沙織はペンを置き、窓を開けた。新鮮な空気が部屋に流れ込んできた。彼女は深呼吸をし、自分の存在を全身で感じ取った。


 確かなこと、それは今この瞬間、彼女がここにいるということだった。たとえそれが夢であっても、幻想であっても、今のこの感覚は真実だった。


 沙織は微笑んだ。存在の不確かさを受け入れることで、逆説的に、彼女は自分の存在をより強く感じることができた。


 そして彼女は決意した。この経験を、哲学の授業だけでなく、自分の人生そのものに活かそうと。


 沙織は外出の準備を始めた。今日は、京都の街を歩き、自分の存在を世界の中で確かめてみようと思う。それは、存在という永遠の問いへの、彼女なりの小さな、しかし確かな一歩となるだろう。


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