第2章:記憶の迷宮
その夜、沙織は不思議な夢を見た。
夢の中で、彼女は古い寺院の境内を歩いていた。周囲には霧が立ち込め、木々の輪郭をぼやけさせていた。足元には苔むした石畳が続いており、その隙間から小さな草が顔を覗かせていた。
沙織は自分がどこにいるのか、どうしてここにいるのか分からなかった。しかし、不思議と不安は感じなかった。むしろ、この場所に来るべくしてきたような感覚があった。
ふと、霧の向こうに人影が見えた。沙織は思わずその方向に歩み寄った。
「誰かいますか?」
沙織の声は、霧に吸い込まれるようにかすかに響いた。返事はなかったが、人影はゆっくりとこちらに近づいてきた。
やがて、その姿が霧の中から現れた。それは……沙織自身だった。
目の前に立っているのは間違いなく沙織だったが、どこか違和感があった。その沙織は、少し年老いているように見えた。髪に白いものが交じり、目の周りにはしわが刻まれていた。
「あなたは……私?」
沙織は困惑しながら尋ねた。
年老いた沙織は静かに頷いた。そして、口を開いた。
「私はあなたの未来だ。そして、あなたは私の過去だ」
その声は、沙織自身のものでありながら、どこか異質な響きを持っていた。
「どういうことですか?」
沙織は混乱を隠せずにいた。
「時間は直線ではない。それは螺旋のようなものだ。過去と未来は、常に交差している」
年老いた沙織は、まるで古い格言を語るかのように静かに言った。
「でも、それはどういう意味を……」
沙織が言葉を続けようとした瞬間、周囲の景色が急に変化した。彼女は自分の研究室にいた。しかし、それは彼女が知っている研究室とは少し違っていた。壁には見覚えのない写真や賞状が飾られており、本棚には未だ出版されていない本が並んでいた。
机の上には、「存在の螺旋:時間と意識の哲学」というタイトルの原稿が置かれていた。著者名は村上沙織。
「これは……私の未来の著書?」
沙織は困惑しながらも、興味深そうに原稿を手に取った。
「そうだ」
年老いた沙織の声が聞こえた。しかし、彼女の姿は見えない。
「この本を書くことで、あなた……いや、私は多くのことを理解することになる。存在の本質、時間の性質、そして記憶の役割を」
沙織は原稿をパラパラとめくった。そこには、彼女がまだ思いもしなかった哲学的洞察が綴られていた。存在と非存在の境界、時間の可逆性、意識の多層構造……。
「でも、なぜ私にこれを見せているんですか?」
沙織は尋ねた。
「それは、あなたに選択をしてもらうためだ」
年老いた沙織の声が響いた。
「選択?」
「そうだ。この未来を受け入れるか、それとも別の道を選ぶか」
沙織は困惑した。
「でも、もし私がこの未来を知ったら、それはもう変わってしまうのではないですか?」
年老いた沙織の声に、かすかな笑みが感じられた。
「そう考えるのが普通だろうね。でも、時間はそれほど単純ではない。未来を知ることが、必ずしもその未来を変えることにはならないんだ」
沙織は深く考え込んだ。彼女の頭の中で、哲学的な概念と現実の狭間で思考が渦巻いていた。
「つまり、私がこの未来を選んだとしても、それは既に決まっていたことになる……?」
「それとも、君がこの未来を選ぶことで、この未来が実現する……?」
年老いた沙織の声が、部屋に満ちていた。
突然、沙織は激しい頭痛に襲われた。目の前が暗くなり、意識が遠のいていく。
「選択は君次第だ。ただし、覚えておいて欲しい。存在とは、常に『なる』プロセスの中にあるということを」
それが、沙織が意識を失う前に聞いた最後の言葉だった。
沙織が目を覚ましたとき、彼女は自分のアパートのベッドの上にいた。朝日が窓から差し込み、部屋を柔らかな光で満たしていた。
彼女はゆっくりと体を起こし、夢の内容を思い出そうとした。しかし、断片的な記憶しか残っていなかった。古い寺院、霧、そして……自分自身との対話?
頭がずきずきと痛んだ。