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第1章:問いの始まり

 京都の街に、秋の気配が忍び寄っていた。村上沙織は、哲学科の研究室の窓から、銀閣寺の方角を眺めていた。紅葉はまだ始まっていないが、空気の中にかすかな冷たさを感じる。彼女は深呼吸をし、目を閉じた。


「存在とは何か?」


 沙織は、今日の講義のテーマを心の中で反芻した。プラトンのイデア論から始まり、カントの物自体、そしてサルトルの実存主義へと話を進める予定だった。しかし、彼女の心の奥底では、別の問いが渦巻いていた。


「私は本当に存在しているのだろうか?」


 この問いは、彼女を長い間、切実に悩ませ続けていた。

 彼女には現実と夢の境界線が、時として驚くほど曖昧に感じられることがある。

 特に、京都のような古い都市では、過去と現在が絡み合い、時間の流れさえも疑わしく思えることがあった。


 沙織は目を開け、机の上に置かれた哲学書の山を見つめた。そこには、西洋の哲学者たちの名前が並んでいた。プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ニーチェ……。そして、その傍らには和辻哲郎の『風土』が置かれていた。


「東洋と西洋、過去と現在、存在と非存在……」


 沙織はつぶやいた。彼女の頭の中で、これらの概念が渦を巻いていた。


 突然、部屋の空気が変わったように感じた。沙織は背筋を伸ばし、周囲を見回した。何か異変があったわけではない。しかし、確かに何かが違っていた。


 そのとき、研究室のドアをノックする音が聞こえた。


「はい、どうぞ」


 沙織が答えると、ドアが開き、一人の学生が顔を覗かせた。


「村上先生、お時間よろしいでしょうか?」


 その学生は、田中美咲と言った。沙織の担当するゼミに所属する3年生だ。


「ああ、田中さん。どうぞ入ってください」


 沙織は微笑みながら、美咲を招き入れた。


 美咲は少し躊躇しながら部屋に入ってきた。彼女の表情には、何か言いたいことがありながらも、どう切り出せばいいか分からないという戸惑いが浮かんでいた。


「どうしました? 何か悩み事ですか?」


 沙織は優しく尋ねた。


「はい……。先生、私……私は本当に存在しているのでしょうか?」


 その言葉を聞いた瞬間、沙織の体が凍りついた。まるで、自分の内なる声が目の前の学生の口を通して発せられたかのようだった。


「それは……深い問いですね」


 沙織は慎重に言葉を選んだ。


「どうしてそう思うのですか?」


 美咲は目を伏せ、しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。


「最近、夢と現実の区別がつかなくなってきて……。時々、自分が本当にここにいるのか分からなくなるんです」


 沙織は深く息を吐いた。まるで鏡を見ているかのような感覚に襲われた。


「美咲さん、その問いは哲学の根本的な問いの一つです。デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言いました。しかし、それは本当に存在の証明になるのでしょうか?」


 沙織は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では、銀杏の葉が風に揺れていた。


「私たちが感じる現実は、本当に現実なのか。それとも、誰かの見ている夢なのか。あるいは、コンピュータシミュレーションの中の出来事なのか……」


 沙織は振り返り、美咲の目を見つめた。


「これらの問いに、簡単な答えはありません。しかし、問い続けることに意味があるのです」


 美咲はじっと沙織の言葉に聞き入っていた。その瞳には、混乱と同時に、何かを理解しようとする強い意志が宿っていた。


「先生……私、怖いんです。自分が消えてしまうんじゃないかって」


 美咲の声は震えていた。沙織は彼女に近づき、優しく肩に手を置いた。


「美咲さん、あなたはここにいます。私にはあなたが見えるし、聞こえる。そして、あなたの存在が、この瞬間の現実を作り出しているのです」


 沙織は静かに、しかし力強く語りかけた。


「存在の不確かさに怯えるのではなく、むしろそれを受け入れることで、私たちは自由になれるのかもしれません。『私は存在しているのか?』という問いを持ち続けることで、逆説的に、私たちは自分の存在を確かめ続けることができるのです」


 美咲はゆっくりと頷いた。その表情には、まだ戸惑いは残っているものの、少し安堵の色が見えた。


「ありがとうございます、先生。少し……心が軽くなりました」


 沙織は微笑んだ。


「哲学は時に私たちを不安にさせますが、同時に私たちに力を与えてくれるものでもあります。これからも一緒に考えていきましょう」


 美咲が部屋を出て行った後、沙織は再び窓際に立った。外の景色は変わらず、銀杏の葉は風に揺れ続けていた。しかし、何かが確実に変化していた。それは外の世界ではなく、沙織の内側で起こっていた変化だった。


「私は存在している」


 沙織は小さくつぶやいた。その言葉は、問いであると同時に、答えでもあった。



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