1 日常
「――起きて! 起きてったら!」
身体を揺さぶられて、エリザベータはゆっくりと顔を上げた。青い大きな瞳。濃い栗色の髪。自分とお揃いの耳飾り。困った顔をしている彼女は――
「…………ミルシュカ?」
「もう、おばば様に見つかったら怒られるよ!」
ぼうっとする頭で状況を確認する。ここは村の書庫だ。壁一面の本棚に書物がびっしりと保管されていて、エリザベータがいる窓際は暖かい光が差し込んでいる。
だんだんと思い出してきた。
森の村の長であるおばば様の指示で、ミルシュカと共に写本を作っていた。今日は陽光があまりにも心地よくて、うっかり居眠りをしてしまったようだ。
机上の紙は半分ほど書き込んでいるが、徐々に文字が崩れ、擦れた跡が残っている。ペンを握ったままの右手の側面を見ると同じ色がついていた。
やってしまった――エリザベータは深く溜め息を吐いた。
「順調かい?」
背後から声がして、飛び上がるほど驚いた。とっさに右手を隠して振り返ると、おばば様が杖を突いて立っていた。灰色がかった青い目を細めてこちらを見ている。
「エリザベータ……」
「ど、どうしたの、おばば様?」
「さっさとその顔と手を洗ってきな!!」
「はっはい!」
雷のような怒声を浴びて、弾かれたように井戸へ向かった。石造りの家の間を駆け抜け、井戸の縁石に勢いよくもたれかかる。
どうにもおばば様には隠し事ができない。誤魔化そうとしてもいつも見透かされてしまう。
水を汲んで桶を覗き込むと、片頬に寝跡がついた間の抜けた顔が映った。これのせいかと苦笑する。
誰にも会わなくて良かった。こんな顔、村のみんなには見せられないもの。
冷たい地下水は寝ぼけた頭を覚醒させてくれた。
「あ〜れ〜? ねえさん、おばば様の手伝いは……あははっ、どうしたの? そのほっぺ」
2頭の大きな猟犬を連れたヤロミールが楽しそうに駆け寄ってきた。恥ずかしいところを見られてしまった。言葉を濁していると、彼はふざけてエリザベータの頬を両手で挟み、左右に引っ張った。
「や、やめなひゃい!」
「あははは。面白い顔〜」
うう、こんなところ、誰かに見られたら示しがつかないわ……
15歳の少年ながら身長も力も村一番の彼に抵抗できるはずもなく、エリザベータはされるがままになる。
「そうだ、向こうのベリーがそろそろ食べ頃なんだ。一緒に採りに行こうよ。こいつらに乗ればすぐ戻って来れるからさ。なっ、お前たち!」
エリザベータから手を放すと、自慢の2頭を撫でまわした。白犬のビーリーと黒犬のチェルナは仔犬の頃から彼が大切に育ててきた猟犬だ。2頭は甘えた声を出しながら、お返しとばかりに彼の顔を舐める。
全身がふわふわの毛で覆われていて、とても愛らしい顔つきだが、大人一人を乗せて森中を走り回れるほど逞しく、熊に立ち向かうほどの勇敢さを持ち合わせている。
ヤロミールの赤みがかった茶色い髪もふわふわで、2頭と並んでいると、まるで本当の兄弟のようだ。
「なぁ、ねえさん。早く行こうよ」
「ごめんなさい。また今度行きましょうね」
「え〜〜?」
申し訳ないが、おばば様の機嫌を損ねたくはない。
彼は不満そうだったが、待ち切れなくなったビーリーとチェルナに押されて仕方なく小屋に帰っていった。あれではどちらが世話をされているのかわからない。
「ふふ。さあ、私も早く戻らないと……」
踵を返すと、石壁の陰からミルシュカが顔を覗かせていることに気付いた。
「びっくりした……いたのね」
「ヤロミールが来たから、出て行きづらくなって……」
「あの子は身体が大きくて、ちょっとやんちゃなところもあるけれど、とても優しい子よ。怖くないわ」
「うん。わかってる。でも男の人はちょっと……やっぱり苦手」
指に髪を絡ませながら彼女は呟いた。
普段はしっかり者なのに、男性を前にすると途端に口数が少なくなる。ミルシュカが湖の村からこの村に移り住んでもう3年になるが、誰かと親しくしている姿をあまり見たことがない。理由を聞いても「なんでもない」と笑うだけ。
どことなくこの話題を避けている気もする。
「さあ、急いでおばば様のところへ戻りましょう」
「うんっ」
彼女は嬉しそうにエリザベータの手を取った。こうして自分の前では笑顔を見せてくれるのだから、いつかきっと村の皆と馴染める日が来るだろう。
「こっちから行こう!」
と言う彼女に導かれて、森と集落の境界にある小道を足早に進む。人通りが少ない道を選ぶのは彼女の癖だ。上機嫌で手を引いているかと思うと、何かに気付いて、ぱっと手を離し、エリザベータの後ろに隠れた。
「何? どうし……」
「巫女様〜!」
遠くから声をかけてきたのは畑帰りの村人たちだった。作業を終えて井戸に向かうところのようだ。エリザベータは背後を気にしながらも、笑顔で手を振る。
彼らは土汚れを拭いながら近づいてきた。
「巫女様……方もお帰りですか?」
後ろにべったりと張り付いているミルシュカに気付いた村人は、不思議そうな顔をした。彼女への視線を遮ってエリザベータが質問に答える。
「いいえ、書庫に用事が残っているの。力仕事は大変でしょう。身体の不調を感じたら無理をしないで、私に教えてね」
彼らは日頃の感謝を述べると恭しく頭を下げて去っていった。
書庫に戻るまで、ミルシュカはずっと背中に張り付いたままだった。男性に会えばいつもこの調子だから、彼女を内気で大人しいと思っている村人は多い。
「ねえ、もう着いたわよ。ミルシュカ――」
「相変わらず、エリザベータは人気者ね!」
ミルシュカがわざと言葉を遮った。
先程までの態度が嘘のように明るくふるまう彼女を見て、ふっと吹き出してしまう。そして二人でクスクスと笑い合った。
書庫に入るとおばば様が二人の帰りを待っていた。
「今日はもう終いだ。片付けは済んでいる」
「え? でも太陽はまだ……」
「ミルシュカ、夕飯の準備を始めておくれ。エリザベータは一緒に来るんだ」
空はまだ青い。もう少し作業できるのだが、おばば様はさっさと部屋を出て行ってしまった。エリザベータはミルシュカに目配せをしてから急いで後を追った。
背中の曲がった老婆ながら、薄暗い森の中をしっかりとした足どりで歩いていく。この道の先にあるは森の村の住民にとって神聖な《祈りの場》だけだ。
巫女のエリザベータにとっては儀式を執り行う重要な場所――そこに連れていかれるということは、これからおばば様の長い説教が始まるのだろう。
こんなことならヤロミールと一緒にベリーを摘みに行けば良かったかも……
少し後悔していると、森の開けたところに出た。
板状に加工された巨大な石が5枚、広々とした空間を囲うように等間隔に直立している。その一番奥の巨石の前には石の祭壇がある。
先祖がこの地に移り住んだ際に、この《祈りの場》は造られた。遠くの岩山から切り出して加工し、ここまで運ばれたのは何百年も前の話だ。長年風雨に晒され続けているというのに、大人2人分はあるこれらの巨石が倒れたという記録は一つもない。高い技術力――現在は失われてしまったものだ。
おばば様が祭壇の横にあぐらをかいて、杖を突き出した。
「さあ、舞を見せな」
「え? 鈴も何も持ってきてないわ」
「ただの稽古だ。なくていい。ほら、さっさと靴を脱いで準備しな」
ここで執り行うのは月を讃え、加護を授かり、神への感謝の詞を唱える儀式だ。稽古とはいえ、手を抜くわけにはいかない。
エリザベータは裸足になると、祭壇前に敷き詰められた石の上に乗った。歴代の巫女たちが月に祈り、舞を捧げてきた舞台だ。彼女たちが踊った軌跡が硬い石に刻まれているのを見ると、自然と背筋が伸びる。
足の裏で敷石の窪みを探り、立ち位置を確かめる。楽器の演奏は耳が覚えている。足さばきも手の繊細な動きもすべて身体が覚えている。あとは暗誦できるまで幾度も唱えた詞を合わせるだけ――
全力で踊りきると、おばば様の深いため息が聞こえた。
どこも間違えていない。そのはずなのに、良くないところがあったのかと不安になった。
「悪くはない……だが、お前には《月の巫女》としての自覚が足りん!」とおばば様は苦々しげに詰め寄ってきた。「写本中に寝るとはどういうことだ? だらしない人間に誰がついてくる? お前は森の村の長に――ひいてはマグ族の首長になるんだぞ?」
ああ、やっぱりそう……舞の稽古は口実で、ただ人気のない場所で説教をしたかっただけなのね。
マグ族は元々大陸各地に住んでいたが、現在は辺境の地でひっそりと暮らす少数民族だ。マグ族の首長は森の村、湖の村、山の村の3つの村に分かれて暮らす人々をまとめる役目がある。しかし現在は適任者がいないため、有事の際は各村の長たちの話し合いが行われている。
おばば様は私に期待しているけれど、もっとふさわしい人はたくさんいるわ。ミルシュカは私よりもしっかりしているし、おばば様には何もかも敵わない……
「普段からもっとこう、しっかりできないのか?」
「私が頼りないなら、おばば様が首長になればいいのに……」
「何?」
うっかり心の声が漏れてしまった。慌てて口を塞ぐが、遅かった。顔を真っ赤にしたおばば様に一喝される。
「馬鹿者が!! 《月の加護》がない者は首長になれないと何度も教えただろう! お前のように月神に愛された銀髪でなければ《月の巫女》にもなれないのだぞ! ……最後の月の巫女様が逝去したのは、あたしが若い娘の頃だった。それからようやく、ようやく産まれたのが……エリザベータ、お前だ。お前でなければならんのだ……」
エリザベータに掴みかかったおばば様の表情は、怒りから悲しみに変わっていた。
「あの、ご、ごめんなさい、おばば様…………私……」
「…………マグ族に生まれた者の定めだ。今一度、胸に刻みつけておけ」
おばば様はばつが悪そうに手を放すと、集落へ戻っていった。
「本当に、私って大馬鹿者だわ……」
伝統を重んじるおばば様に絶対に言ってはいけないことを口走ってしまった。エリザベータは銀色の髪をぎゅっと握りしめ、自分自身を責めた。
* * *
古代のマグ族は銀髪に青い瞳をしていた。神々への信仰心が厚く、《神の加護》も今とは比べ物にならないほど強かった。
『首長は生まれながらの銀髪でなければならない』
そんな掟ができたのは、マグ族が他民族と共に生活するようになってからの話だ。他の血が混ざることで、《神の加護》はどんどん弱まっていった。深い森の奥に隠れ住むようになっても、銀髪の者は減り続け、ついには一人もいなくなってしまった。
《月の加護》の恩恵を受けられなくなった村の生活は混乱を極めた。
農作物の不作。野生動物の襲撃。病気の蔓延。そして信仰の断絶。
「伝統的な儀式ができなくなっても、形だけでも残そうと頑張ったのが、おばば様たち……」
エリザベータは地面に寝転がりながらマグ族の歴史について考えていた。エリザベータが産まれた時、おばば様は『先祖返り』だと言って涙を流して喜んだという。そして儀式は無事継承され、《月の加護》は再びマグ族に恩恵をもたらした。
『お前でなければならんのだ……』
おばば様のあの言葉がエリザベータの心に重くのしかかる。
「わかっている……わかっているわ。それが、私の生まれた意味だもの……」
いい加減うじうじするのは終わりにして、覚悟を決めなければならない。皆を支え、導いていくのが《月の巫女》の定めであり、それ以外の選択肢など、どこにもないのだから。
しかし、一生をこの辺境の地で終えるはずだったエリザベータの運命は、王国の使者を名乗る来訪者によって急転することとなる。