13 隣国
ルーグナ湿原は広大だ。低地で水位が高く、細い葉の植物が群生している。大きな川に沿って堤防があるおかげで、馬車での往来ができる。
「もっと近くに橋があれば楽なのに⋯⋯ん? ねぇ、エリザベータ、何か臭わない?」
ミルシュカが眉をひそめたが、特に変なにおいはしない。
「ミルシュカは鼻が良いね」
バルナバーシュがミルシュカを褒めてこう答えた。
「この辺りは沼が多いんだ。きっと泥のにおいだね。――とはいえ透明度の高い湖もあるよ。例えばほら、あの細長い湖。昔は川の一部だったんだ」
「……」
においの原因がわかり、ミルシュカは完全に興味をなくしたようだ。顔をそらして黙り込んだ。エリザベータはバルナバーシュの解説に耳を傾けながら、荷台から顔を出した。
人間の腰ほどの丈がある草むら。三日月の形をした湖。渡り鳥の群れ。穏やかな景色のその先で、人間同士が血を流しながら争っている――そんな思いに耽っていると、白犬に乗ったヤロミールが近づいてきた。
「ねえさん、ねえさん! 水たまりがたくさんあるよ! これくらいなら飛び越えられそうじゃない?」
「待って、ヤロミール! ぬかるんでいるから危ないわよ!」
「平気、平気!」
「戻るんだ、ヤロミール!」
バルナバーシュも慌てて呼び止めるが、ヤロミールは道からそれていった。そしてイゴルを乗せた黒犬も後をついていく。イゴルが「止まれ」と叫んでも、チェルナは言うことを聞かない。
大変!
エリザベータは荷台から大きく身を乗り出した。
水たまりを飛び越えようとしたビーリーは、急に足を引いて立ち止まった。ぬかるみに気付いたようだ。しかしチェルナは泥に足を取られ、地面に沈み込んだ。イゴルも頭から泥に飛び込んでしまった。
「イゴル!」
エリザベータは走る馬車から飛び降りた。早く引き上げなければ窒息してしまう。
「おっと、ねえさん待って。落ち着いて」
私の身体はヤロミールの片腕で止められた。
「でも! 早く助けないと!」
「大丈夫。力仕事は俺に任せてよ!」
「私も手伝っ……」
追いかけてきたミルシュカが私の手を強く引いた。『皆に任せろ』という目だ。それでも人数は多い方が良い――そう思ったが、ヤロミールは軽々とイゴルを持ち上げた。イゴルは激しく咳き込みながらも自力で立ち上がった。今朝ミルシュカに整えてもらった髪も、バルナバーシュが用意してくれた服も泥だらけだ。
体の大きなチェルナはゾルターンとヤロミールの二人がかりで引き上げられた。茶色くなった体を振るわせて泥を撒き散らすものだから、全員が泥だらけになってしまった。
* * *
「まったく、何をやっているんだお前たちは! 遊びに来ているわけじゃなんだぞ!」
「ごめんなさい……」
「クゥーーン……」
川で泥を洗い流し、着替えをすませると、ヤロミールとチェルナはゾルターンに厳しく叱られた。ヤロミールは大きな身体を小さく丸め、チェルナは耳を寝かせて申し訳なさそうに伏せている。
「まったく信じられない! 本っ当に子どもなんだから!」
《水神の力》で私の濡れた髪を乾かすミルシュカの口から不満がついて出た。
「身体は大きくなったけれど、あの子はまだ子どもなのよ」
「もう15歳でしょ! 本っ当にエリザベータはあいつに甘いんだから……」
「いざという時には頼りになるわ」
「どうだか……」
ミルシュカはまったく信じてくれないけれど、ヤロミールは本当に頼りになる猟師だ。
彼の長所は恵まれた体格だけではない。獲物の動きを読む観察力、猟犬たちへ的確な指示を出す判断力、獲物を仕留めるためにじっと待ち続ける忍耐力、そのどれもが彼の叔父も目を見張るほど優れている。戦場では無茶をしないだろう。
私の髪を乾かして編み込みまで終えたミルシュカは、怒りを含んだ声でイゴルを呼びつけた。彼は気だるい声で「何だ?」と返した。
「こっちに来て。髪を整えてあげる」
「えっ……」
「……何よ。エリザベータまでそんな顔して。またやってあげるから。早くして!」
「あ、ああ……」
世話好きな彼女の性格を知らないイゴルは、困惑しながら身体を低くした。不機嫌な態度とは裏腹に、彼女は丁寧に彼の髪を整えた。
バルナバーシュに連れられてヤロミールがやってきた。ゾルターンに怒られて堪えたのだろう。すっかり縮こまっている。
「イゴル。……ごめんなさい」
「ああ。ヤロミール、顔を上げろ」
ヤロミールはおずおずと視線を上げた。イゴルは立ち上がり、両手を広げて「ほら、何も問題はない」と笑った。
「私のおかげでしょ」とミルシュカが呟く。
「ああ、ミルシュカのおかげだ。だから気に病むな。な?」
イゴルがヤロミールの頭に手を伸ばして優しく叩いた。
「……うん!」
ヤロミールは背筋を伸ばし、いつもの笑顔に戻ると、イゴルの頭を軽く叩き返した。イゴルは怒ったが、ヤロミールは楽しそうにビーリーの方へ走っていった。
「さあ、僕たちもそろそろ行こうか」
バルナバーシュの声かけに従い、私たちが馬車に乗り込むと、ゾルターンが覗き込んできた。
「ミルシュカ、随分あいつらと仲良くなったみたいだな」
「別に……仲は良くない」
「ははは。……イゴルの髪、整えてくれてありがとう。おかげで手間が省けた」
「え?」
ゾルターンはチェルナに乗るイゴルを一瞥すると、御者席へ戻っていった。何だったのだろう。ゾルターンの言動に違和感を覚えながら、馬車に揺られていく。ようやく川を渡ったところで、エリザベータはバルナバーシュからフード付きの外套を渡された。
「私、だけ?」
「ごめんね。君の髪はどこへ行っても目立ってしまうんだ」
「もうすぐ着くの?」
エリザベータは受け取った外套を強く抱き締めた。
「あーいや、まだ野営地には着かないよ。次に立ち寄るのはトルフビエ村。雰囲気は――ザペス村とあまり変わらないかな」
バルナバーシュの言う通りだった。到着した村の様子は、家屋が石造りである以外はあの村とよく似ていた。見たところ村人の髪色は様々で、バルナバーシュやゾルターンほど明るい金髪の人はいない。
エリザベータはフードを深く被り直した。
商会の裏手で馬車を降りる。ゾルターンはそのまま馬車を移動させ、ヤロミールは鷹と猟犬たちを休ませるためにゾルターンについて行った。
私たちはバルナバーシュの案内で小部屋に通された。
「他の従業員は立ち入らないように伝えてあるから、好きに寛いでいて。僕は少し支部長に会ってくる」
「バルナバーシュ、ありがとう」
「うん。すぐ戻るよ」バルナバーシュは優しく微笑んで出ていった。
好きにと言われたが、この部屋には4人掛けの机しかない。とりあえず座って待つことにした。私の隣にミルシュカが座った。イゴルは私たちの前の席を見比べたが、結局は座ることなく壁に寄りかかった。行商たちの慌ただしい声が聞こえる。私たちは無言で時を過ごした。
扉が開いた。ゾルターンが顔を覗かせてイゴルを呼ぶ。
「イゴル、お前に会わせたい奴がいる」
「俺に? 誰ですか?」
「行けばわかる」
イゴルに心当たりがあるはずもなく、不思議そうな顔をしながらゾルターンについていった。室内は私とミルシュカだけになった。
「はぁーー。疲れた……」
ミルシュカが両手を上げて背筋を伸ばし、足をだらりと投げ出す。私しかいないとはいえ、これほど気を緩めるのは珍しい。
「……ミルシュカ、大丈夫? 無理はしないでね」
心配して声をかけると、ミルシュカが驚いた顔で私を見た。
「何を言っているの? エリザベータが無理をしないように私がついて来たんだよ? そう思うなら頑張りすぎないでよね!」
「うっ、はい。気をつけます……」
なぜか逆に怒られてしまった。
足音が聞こえてミルシュカは姿勢を正した。バルナバーシュが扉を開ける。
「あれ? 二人だけ?」
「ゾルターンとイゴルは一緒にどこかへ行ったわ。ヤロミールはまだビーリーたちのところじゃないかしら」
「そうか。父さんもいないのか……」
バルナバーシュはトレイに乗せてきた4つのコップを机に置いた。
「あまりは君たちで飲んでいいよ。みんなが揃うまでは動けないから、暇つぶしに何か欲しい物はないかな? ここはポセルボフ商会。色んな商品を取り揃えているよ」
バルナバーシュの魅力的な提案に、いつもの私なら迷うことなく『本』と答えただろう。けれど戦いの地はすぐそこまで近づいている。
エリザベータは席を立った。
「戦況を教えて。もうここから近いのでしょう? 詳しい地形図はある? どんな武具が使われているの? 毒は使われている?」
「ま、待って、待ってくれ。エリザベータ……君は戦わないんだ。そんなことまで気にしなくてもいいんだよ」
「私が治療するのは戦場で負傷した人よ。理解していた方が早く処置できるわ。行商のみんなが忙しくしているのに、《月の巫女》の私がじっとしているわけにはいかないの。今も私たちを除け者にして、あなたとゾルターンで情報共有をするつもりだったのでしょう?」
バルナバーシュが持ってきた飲み物は4つ――私とミルシュカ、ヤロミール、イゴルの4人分だ。バルナバーシュとゾルターンの分がない。ここで休む気がないのは明白だ。
「ははっ……まいったな。僕らの月の巫女様は仕事熱心だね」
彼は「仰せのままに」と私に深く頭を下げ、資料を取りに行った。