12 馬車
これから馬車が向かうのは、昨日夕陽が沈んでいった山脈だ。あの太陽のまばゆさは、身体が震えるほどの衝撃だった。
「オクラホリ山脈……確か国境があるのよね?」
「さすがエリザベータ、よく知ってるね。これから隣のロビニエ王国に向かうよ」
「敵対国家はスターリッヒ王国、だったわよね?」
「そうだよ。少し説明しようか」
バルナバーシュは荷物から1枚の地図を取りだし、国を一つ一つ指差していく。
「僕たちが暮らしているソレイユ王国は5つの国に囲まれた内陸国だ。西側に接しているのがロビニエ王国。ソレイユとは友好関係にある。そのロビニエ王国のさらに西側に、現在戦争中のスターリッヒ王国がある。君たちは戦争のきっかけを聞いたかい?」
「2ヶ月前に留学中の王子様が暗殺されて、遺体も引き取れていないと聞いたわ」
ミルシュカは興味なさそうに外を見ているので、エリザベータが答えた。
「そう。クリシュトフ殿下は寄宿舎の自室で刺殺されたと報告されている。遺体の返還を拒否されてから、軍の先陣がスターリッヒ王国の国境に到達するまで2週間だ」
「えっ? それは……早いわね……」
「ふふ、引っかかるかい?」
地図で見る限り、武装した軍隊が2週間で到達できる距離とは思えない。
「2週間はかなり無茶だけど、馬を乗り換えながら行軍したんだ」
「隣国でどうやって馬を調達したのかしら……」
「どうしたと思う?」
「……」
馬の乗り換えは、ロビニエ王国でも行われたはずだ。まとまった数の馬を集めるとなると、敵国に気づかれる危険性もある。
どうしてそれが出来たのかも気になるが、どうしてそこまで急いだのかも気になるところだ。
「もったいぶらずに教えてやれ」
御者席のゾルターンが呆れた声でバルナバーシュに言った。それほど難しい謎ではないのだろうか。私の答えを待っていたバルナバーシュはふっと笑った。
「ごめんごめん。ロビニエ王国で密かに馬や物資を用意したのはね……僕たちなんだ」
「えっ!?」
「ポセルボフ商会は他国にも支部を持っている。商人の僕たちが馬を大量に仕入れても怪しくはない。……けれど、その密命を受けたのはクリシュトフ殿下が暗殺されるよりも前。……どうだい、おかしな話だろう? ひょっとすると、殿下が殺されたのは、戦争を始めるための――」
「やめろ。それはお前の憶測でしかない。妙な先入観を持たせるな」
ゾルターンが低い声でバルナバーシュをたしなめた。
「安心して、ゾルターン。どちらの国が悪いかなんて、私には関係ないわ。目の前のケガ人を治療するだけよ」
「それはいつ終わると思う?」
「いつって……」
「補給線が伸びきった今の状態は長続きしない。遅かれ早かれ王国内まで攻め込まれるだろうね。厳しい前線に立たされる第三騎士団の治療を任された君たちは……さて、いつ解放されるかな?」
その言葉を聞いて、さっきまで無関心だったミルシュカが声を荒らげた。
「やっぱり危険な場所に行かされるんじゃない! エリザベータに何かあったら許さないんだから!」
「やめて、ミルシュカ! 落ち着いて、ねっ? 私に救える命があるのなら、私は治療し続けるだけよ」
「……そうだ!」
何を思いついたのか、バルナバーシュが急に立ち上がった。お願いだからこれ以上ミルシュカを刺激しないで欲しい。
「エリザベータ、今王都で大人気の物語を読まないかい? 君のために入手しておいたんだ!」
「こんな時に――!」
「えっ、いいの!?」
エリザベータとミルシュカは同時に声を上げた。互いに顔を見合わせる。
「……こんなところまで来て、本が読みたいの?」
「だ、だって、王都で人気ってことは、最新の物語ってことよ? それも大の人気なんて、面白いに決まっているじゃない! それを今、ここで読めるなんて……嬉しいに決まっているわ!」
ミルシュカは呆れ顔だ。
「我慢しなくていいって、言ってくれたのはミルシュカよ?」
「うっ、それは……確かに…………ああ、もう! わかったよ!」
「ありがとう、ミルシュカ! さあバルナバーシュ、早く私に読ませて!」
はやる気持ちを抑えきれず、バルナバーシュを急かす。ところが荷物に近寄った彼は戸惑いの声を上げた。
「イゴル? 君、どうしたんだい!?」
ずっと静かに座っていると思っていたイゴルは、顔が真っ青だった。
「大変! 酔ってしまったの? 渡した薬は?」
「飲んだ……けれど、何か……においがして……いろんなにおいが……」
「におい?」
「ああ、そういえば、彼が寄りかかっているのは薬草の箱だ。香りの強い物も入っているね」
「においで酔ったの? 軟弱ね」
「もうミルシュカったら、そんな言い方しないの。イゴルは鍛冶師だから馴染みがないのよ」
背後の騒ぎに気づいたゾルターンが馬車を止めた。並走していたヤロミールも白犬から降りて駆け寄ってくる。上空を飛んでいた鷹もヤロミールの肩で翼を休めた。
状況を把握したゾルターンは「馬車を降りろ」とイゴルに助言した。
「な、なぜ……」
「犬に乗って外の空気を吸うほうがいい。なに、《月の巫女》特製の犬酔い薬を飲んだのなら心配ないさ。それと二人乗りはやめろ。馬車の速さについていけなくなるぞ」
「また……犬……」
「大丈夫だよ。チェルナは優しいから絶対振り落とさないよ!」
「……お、おぅ」
ヤロミールが自慢気にドンッと胸を叩いた。イゴルは諦めた顔で黒犬に乗った。
* * *
南北に連なるオクラホリ山脈はソレイユ王国内で最も長い山脈だ。その南部、隣国と繋がる重要な交易路を馬車は駆けていく。
山の斜面を削って設けられた崖道を落石を警戒しながら進むと、曲がりくねった道の先に石造りの建造物が見えた。
「あれはハロスト砦。関所があるから、念の為にこれを着て、髪を隠して」
バルナバーシュにフード付きの外套を渡される。
ゾルターンに呼ばれたヤロミールとイゴルも荷台に乗ってきて外套をまとう。
「何々〜? これから何が起こるの〜?」
「少しの間大人しくするんだよ。衛兵と揉め事を起こしたくはないからね」
バルナバーシュにフードを深く被せられたヤロミールは元気よく返事をした。ゾバークを鳥籠へ戻し、ゾルターンはチェルナに、バルナバーシュは御者席に移った。
左右に塔が建つ堅牢な石壁。大きな門の前まで来ると「止まれ!」という声がした。ゾルターンと門番の会話が聞こえてくる。
「ポセルボフ商会だ。第三騎士団まで物資と人員を運んでいる」
「ほう、おたくらが犬を乗り回していると風の噂で聞いてはいたが……本当だったんだな。こんなでっけえ犬は初めて見る」
「おっと、不用意に手を出すな。馬と違って噛みつくぞ」
「そいつは怖いねぇ。ははは」
「急いでるんだ。さっさと通行証を確認してくれ」
「はいよ。身分証も……は? ししし、失礼いたしました! お通りください!」
慌てた様子の門番が許可を出すと、バルナバーシュは馬車を動かした。アーチ状の重厚な門を通り、広場を抜けて、西側の門を何事もなく通り抜ける。
「あの人、どうしたのかしら……」
通行証と身分証を確かめた途端に態度を改めた門番の声は、どこか怯えているようにも聞こえた。ヤロミールとイゴルも私と同じ考えのようだ。不思議そうに首を傾げている。
ミルシュカは「無事に通れたならどうでもいい」と興味がなさそうにフードを脱いだ。
「ははは。国王陛下から発行された通行証を見せられたら、誰でも萎縮するさ」
門番に同情するように、バルナバーシュが笑った。
山を下りる前に、ゾルターンはロビニエ王国が一望できる場所で私たちを降ろした。見下ろす先には大きく蛇行する川が横たわっている。その周辺には木々がなく、大小様々な湖が点在している。
「ルーグナ湿原。馬車が通れないほどぬかるんだ地帯だ。少し南へ迂回することになる」
「湿原! あそこにはどんな生き物がいるのかしら。植生は? 薬になる植物はあるのかしら!?」
「エリザベータ……言っておくけれど、私たちに調べる時間はないからね?」
「うっ……も、もちろんわかっているわよ」
内心がっかりしたが、目的は忘れてはいない。早く第三騎士団の下へ向かわなくては――エリザベータたちは再び馬車に乗り込んだ。