11 出発
エリザベータが目覚めると、ミルシュカはすでに身支度を終えていた。珍しい……普段なら私が水汲みや薬草園の手入れを終えて朝食を作る頃にようやく起きてくるのに。
「おはよう。今日は早いのね」
「おはよう、エリザベータ。星の観測がなければ私だって早起きできるんだよ」
「ふふ。そうよね」
ミルシュカの手が頬に触れた。
「良かった……顔色は良いみたいだね」彼女は微笑んだ。
昨日は色々とあったけれど、不思議と疲れは残っていない。そういえば眠る前に何か良い香りがしたような気がする。気持ちが安らぐあれは――
「もしかして……昨日何かしてくれた?」
「……さあ?」
教えてくれない彼女に、私は小さく「ありがとう」と呟いた。
バルナバーシュが用意してくれた服に着替えて一階に降りると、従業員用の部屋でヤロミールとイゴルが食事をとっていた。
「あ、ねえふぁん」
「行儀が悪いぞ。飲み込んでから話せ」
イゴルに注意されたヤロミールは、口いっぱいに頬張っていた食べ物をごくりと飲み込んだ。
「ねえさん、おはよう!」「おはようございます」
「おはよう、ヤロミール、イゴル」
「……おはよう」
ミルシュカは目をそらしながらも二人に挨拶を返した。
「バルナバーシュ! スープとパンおかわりちょうだ〜い!」
「ちょ、ちょっと、ヤロミール! 少しは遠慮したほうが……」
「はい、どうぞ」
バルナバーシュが持ってきたおかわりを、嬉しそうに食べはじめる。
「ヤロミールったら、食べすぎよ」
「おいしいよ。ねえさんも食べよう」
「もう……」
「そんなこと気にしなくて良いんだよ。君たちに頑張ってもらうためにサポートするのが僕の役目だからね。ほら座って。二人の分もすぐ持ってくるから」
バルナバーシュが椅子を引いてくれたので、座って待つことにした。対面のヤロミールは、スープを飲みながら耳から落ちる横髪を何度もかけ直している。
「髪が邪魔なら結び直してあげるわ」
「うん。お願い」
「待って。先に食べようよ」
「私たちが食べている間にヤロミールは食べきってしまうわよ」
ミルシュカには「先に食べて」とお願いして、ヤロミールの後ろにまわる。
「それなら、はいどうぞ」
食事を持ってきてくれたバルナバーシュが櫛を渡してくれた。早く早くとヤロミールに急かされながら、ふわふわの赤みがかった茶髪をとく。邪魔な横髪を編み込んで、後ろで一つにまとめた。
「エルザベータ。終わったのなら早く食べよう」
「ええ。……あ、イゴルは寝癖がひどいわね。といてあげましょうか?」
「エリザベータ!」
「ん? あーー……いや、自分でやるので気にしないでください」
「ああ言っているよ。ほら、座って座って」
ミルシュカに強引に座らされて、ようやく自分の食事をはじめる。温かいスープに小さくちぎったパンを浸して食べると、香辛料と肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
「嬉しいね。作った甲斐があるよ。エリザベータもおかわりしていいからね」
「ふふっ。ありがとう」
イゴルもバルナバーシュの櫛を借りて寝癖をとくが、まったく落ち着きそうにない。ヤロミールがはねた髪を引っ張って怒られている。
「一度濡らさないと駄目そうね」
「……もう一度水を被ってくる」
「あぁーもう! ちょっと貸して!」席を立とうとするイゴルをミルシュカが制止した。
驚いた。ミルシュカが自分から男の人に関わっていくなんて。
彼女はイゴルの手から櫛を奪い取り《水神の力》を使ってイゴルの髪を根元からしっかり濡らし、解きほぐそうとするが――
「くっ、このっ……何、この髪」
「す、すまない……」
「ちょっと、バル……」
ミルシュカはバルナバーシュの名前を呼びかけて、なぜか言い淀んだ。
「ああ!」
バルナバーシュは指をパチンと鳴らすと、商会の奥から陶器製の小さな入れ物を持ってきた。
「これなら髪にも使えるよ!」
「……ありがとう」
ミルシュカがうつむき加減に手を出した。バルナバーシュは入れ物をミルシュカの手の平に乗せて、そのまま両手で包み込んだ。
「ひゃっ!」
驚いたミルシュカが腕を引いて後ずさる。バルナバーシュは満足げに両手を上げた。
「あまりからかわないで。この子は男の人が苦手なのよ」
「反応が可愛いからつい……ね。ごめんよミルシュカ。もうしないからそんなに怒らないでくれよ」
ミルシュカは顔を真っ赤にして頬を膨らませ、まったくバルナバーシュを見ようとしない。彼から受け取ったのは固形油だった。手の平に広げてイゴルの髪を整える。
「お前たち、もう食事は済んだか?」
あくびを噛み殺しながらゾルターンが現れた。
「おはよう、ゾルターン。昨日は遅くまで飲んでいたの?」
「馬鹿言え。患者を診ていただけだ。俺には他にも色々とやることがあるんだよ」
そう言って机にもたれかかると、パンを掴みあげてかぶりついた。
「あ、ゾルターン、行儀が悪いぞ!」
「はは、今日も元気そうだな。ヤロミール」
「……」
嬉しそうに指摘するヤロミールに、物言いたげな顔のイゴル、ゾルターンは食事もそこそこに「支度ができたら荷物を持って裏に集合だ」と言って出ていった。
* * *
商会の裏手に向かうと、四輪の大きな荷車があった。
「あ、あれは……!」
あの厚手の布でできた特徴的な屋根は、本で見たことがある。前方には四足歩行の動物が2頭。艷やかで筋肉質な茶色の体、黒く長い鬣と尻尾、面長な顔、つぶらな瞳、そして厚く大きな蹄。
エリザベータは興奮を抑えきれなかった。
「馬、馬だわ! ねえ見て見てミルシュカ、馬がいるわ!」
後ろを振り返ると、皆の視線が自分に集まっていた。背筋に冷たいものが走り、思わず顔を伏せる。
気を緩めすぎた。皆の前なのに、《月の巫女》として相応しくない振舞いをしてしまった。
ミルシュカのため息が聞こえる。
「エリザベータ……ここは森の村じゃない。おばば様もいない。だから、我慢することはないんだよ?」
ミルシュカに軽く肩を叩かれて顔を上げた。全員が温かい笑顔を浮かべている。怒ったり、呆れたりする人は一人もいない。
「そうだよ、ねえさん。嬉しいなら飛び跳ねちゃってもいいんだよ!」
「遠慮することはないです」
「バルボラには報告しないから安心しろ。ほらっ」ゾルターンが背中を押してくれた。
そうか……私、はしゃいでもいいのね。
「みんな、ありがとう」
相手は繊細な草食動物だ。怖がらせないように正面からそっと近づく。
いる……目の前にいる。私を見ている。まつ毛がとても長いのね。大きい体なのに、なんて優しい目をしているのかしら。
手の平を近づけると、馬は暴れることなく私のにおいを確かめた。もう一頭も擦り寄ってくる。
「不思議だね。初めての人にこれだけ気を許すのは珍しいよ」バルナバーシュが馬の背を撫でる。
「そうなの? ふふ。ふたりとも、これからよろしくね」
エリザベータは2頭を優しく撫でた。
「ねえ、ヤロミールもおいで。この子たちとっても大人しいわよ」
「ん〜〜俺はいいかなぁ。犬のにおいで警戒されるかもしれないし」
「あなたと似た毛色で可愛いわよ?」
「んん? ……うん、そ〜だね〜。でもやめておくよ〜」
「そう……それじゃあミルシュカとイゴルはどう?」
二人も誘うが、近づこうとしない。
「もー、みんなも我慢しなくていいのよ? 初めての動物を目の前にして、どうしてそんなに落ち着いていられるの?」
「無理強いすることでもないだろう。さあ後ろに乗ってくれ。出発しよう」
「え? ま、待ってよゾルターン。まだ馬車の仕組みを見ていないわ」
慌てて馬具を観察する。操るための長い手綱は頭の装具についている。大きな荷車と胴体の装具が繋がっていて、馬の動きを制限しないようになっているようだ。それから――
「そっか。2頭がぶつかり合わないように……」
「おいおい。この先も長いんだ。もうその辺にしといてくれ」
「ああー、もう少しだけー」
「ほらほら、行くよ」
ゾルターンとバルナバーシュに二人がかりで馬から引き離されて、しぶしぶ荷台に乗り込んだ。隣に座ったミルシュカに「楽しかった?」と聞かれて、私ははっきりと答えた。
「ええ、とっても!」
彼女は満足そうに微笑んだ。
ゾルターンが手綱を握り、馬を走らせる。
ヤロミールだけは馬車に乗らなかった。荷台でただ揺られるよりも、自分の犬たちと共に風を切りたいのだという。《風の加護》を持つ彼らしい選択だ。
彼はイゴルに一緒に犬に乗っていかないかと誘ったが、もう犬酔いは嫌だと断られた。
「馬車も揺れるから酔うとは思うけどね」
バルナバーシュの無慈悲な言葉に、イゴルはげんなりした顔で荷台の隅に座り込んだ。犬酔いの薬を渡して、先に飲むように伝える。
馬車が商会の正面にまわると、外から犬の鳴き声とヤロミールの声がした。
「どうしたのかしら……」
「エリザベータ、ミルシュカ、後ろを見ろ」
ゾルターンの言う通りに見ると、商会の前に昨夜の中年の男が立っていた。こちらに向かって祈るように胸の前で手を組んでいる。
「早朝に発つと伝えておいたから見送りに来てくれたんだな。手でも振ってやってくれ」
「さよーならー! お元気でー!」
手を振り返す男の姿がどんどんと遠ざかる。
馬車はザペス村を出て、整備された道を山脈の方へと向かう。