10.5 友のために
ポセルボフ商会ザペス支部の2階の一室。ミルシュカはエリザベータの寝息を確認して、液体の入った小瓶にフタをした。これは安眠効果がある嗅ぎ薬だ。《水神の力》で霧状にすれば、相手に気付かれずに眠らせることができる。
こうでもしないと、この子は神経が高ぶって寝つけなかっただろう。
長時間の移動、知らない土地、さらに《神の力》を使った治療、そしてこれから向かうのは死と隣合わせの戦場だ。エリザベータが心身共に疲れているのは明白だった。
私も昨日から信じられないことの連続で、気が休まる暇がない。
エリザベータ……今だけでもゆっくり休んで……
彼女を起こさないようにそっと部屋を抜け出す。
薄暗い廊下に出ると、どこからか音楽が聞こえてきた。静かな夜に似合う繊細な音色だ。誘われるように廊下の奥、透明ガラスが張られた扉を開く。そこはバルコニーになっていた。月明かりの下、白で統一された丸テーブルと2脚の椅子、そして手すりにもたれかかって楽器を奏でる金髪の男が一人。
「こんばんは」
金髪の男――バルナバーシュが微笑んだ。
「どうだい? 僕の演奏は」
「別に……」
「素直に褒めて欲しいなぁ。これでも王都で評判の腕前なんだよ?」
「そんなことよりも……どういうつもり? 戦場にあの子を連れていくなんて聞いていない。あなたが手引きしたの?」
「野営地までだよ。……国王陛下のご命令なんだ。しがない商人の僕にはどうすることもできないさ」
バルナバーシュはわざとらしく溜め息を吐いた。王族御用達の商人が何を言っているのだろうか。
「医者が不足しているというのなら、エリザベータの存在は喉から手が出るほど欲しいでしょうね。瀕死のケガさえ治せるんだもの」
「ああ、今日の治療は本当に素晴らしかった。もし僕に《神の力》の光が見えていたら、涙を流しながら跪いただろうね。向こうに着いたらまた神の御業を見てみたいものだ」
「戦場で使わせるわけないでしょ!」
「ふふっ、そんなに怒らないで。女の子には笑顔でいて欲しいな……」
慣れた手つきでミルシュカの腰を引き寄せると、艶っぽい声で顔を近づけてきた。
「っ……!」
この男のこういうところが嫌いだ。力を誇示する《湖の村》の男たちとは別の意味で厄介な男。距離が近いだけで動揺して赤くなってしまう自分自身にも嫌気が差す。
「やっ……放して!」
「しっ。静かに……大きな声を出すと、みんなが起きてしまうよ……」
『誰のせいだと思っているんだ!!』と口から出そうになる怒りをぐっと飲み込む。この男と会っているところを誰にも見られたくはない。
「……そうやって、エリザベータにも言い寄る気じゃないよね?」
「心外だな。下心なんて全くないよ。これは女性に対する礼儀だよ」
この男は本気でそう思っているのだろう。
「あっそ。でもその礼儀はなし。エリザベータには絶対にしないで」
「……」
「ひゃっ!?」
バルナバーシュは流れるような動きでミルシュカを椅子に座らせ、自分は対面に腰をおろすと、嬉しそうに微笑んだ。
本当に調子が狂う。
「……君、嫉妬してるのかい?」
「はあ?」
「僕が彼女に優しくするのが嫌なんだろう?」
「そういうことじゃな……っ……」
テーブルの下で、バルナバーシュの足がミルシュカの足に触れた。
「安心して。君は特別だよ。僕の大事な協力者だからね」
「しっ!」
ミルシュカは慌てて廊下や手すりの下を覗き込んだ。誰もいない。ほっと胸を撫でおろす。この話は誰かに聞かれるわけにはいかない。非難を込めてバルナバーシュを睨みつけるが、平然とした顔で「大丈夫だよ」と返された。
思わず深い溜め息が出る。
「……とにかく、この状況はあなたにとっても予定外と言い張るわけね?」
「僕たちにとって悪い状況じゃないだろ?」
「大問題だよ。確かに外の世界に来ることはできたけれど、素性不明の若い女性がいきなり現れて治療をすれば、他の医者は良い気はしないでしょうね」
「騎士団には貴族がいる。面識を得るにはちょうど良い機会だし、大ケガを治療すれば恩も売れる」
「言ったはずだよ。貴族に飼われることになるなら協力しないって」
「わかっているよ。あくまで後ろ盾のためだ。有力な味方は多いほうがいい。髪色の問題はなかなか根深いんでね。せめて先代国王の時代だったら……おっとこれ以上はよそう。誰かに聞かれたら不敬罪になる」
そんな心配ができるのなら、この会話自体がマグ族に対する裏切りだという自覚も持ってもらいたいものだ。私に計画を持ちかけてきた時もそうだ。人目を避ける私を捕まえて、この男はこう問いかけた。『マグ族の平穏のためとはいえ、少女一人に重責を背負わせるのは、酷だと思わないかい?』と。
おばば様に聞かれたら確実に村を追放される。《星の巫女》である私に話せば、おばば様に告げ口されるとは考えなかったのだろうか? ……いや、私が誰にも話さないと判断した上での行動だったのだろう。私の秘密をどこまで知っているのだろうか。私は誰にも打ち明けていないというのに……
おばば様に逆らえず、厳しく指導されるエリザベータを見守ることしかできない日々に激しい憤りを感じていた私は、バルナバーシュの考えに同意した。
エリザベータを《月の巫女》の責務から解放するための計画は、村を出て外の世界で暮らす方向で進めている。 バルナバーシュは外の世界で、私は森の村で、《月の加護》に頼らない暮らしの準備をしている段階だ。村人との交流ができない現状では、できることが限られるのがもどかしい……けれどすべてはあの子の自由のため。あの子が幸せに生きられるのなら、私は裏切り者でかまわない。
「いっそ国外へ逃がしてくれたらいいのに……隣のロビニエ王国とか平和そう」
「ここの領主が黙って送り出すと思うかい?」
「そこはあなたが何とかするところでしょう? しっかりやりなさい」
「やれやれ手厳しいね。善処するよ。彼女の幸せな日々のため。そして理不尽な制約から、君を解放するために……」
バルナバーシュは優雅に頭を下げて去っていった。そこまで気づいているのか。油断ならない男だ。ミルシュカも席を立ち、静かに部屋へ戻った。
ベッドでエリザベータが小さな寝息を立てて眠っている。
エリザベータ……私の大切な友達……
ミルシュカがエリザベータと初めて出会ったのは9歳の時、湖の村で約30年振りの『髪納めの儀式』が行われた日だった。
この儀式は森の村、湖の村、山の村の3ヶ所すべてで執り行われる。《月の巫女》が舞を踊り、祈りを込めた髪を村の長が切り落として祭壇に捧げるというものだ。儀式が円滑に進められるように、《月の巫女》の後ろ髪は3つに分けて結ばれる。
マグ族にとって、髪は《神の力》が宿る重要なものだ。そんな大事な髪を肩まで短くすると祖母に聞かされた日の夜、ミルシュカは怖くて眠れなくなったことを今でも覚えている。
* * *
湖の村の《祈りの場》は湖に張り出すように造られている。今夜は月が満ちていてとても明るい。これなら湖のほとりから見守っている村人たちにも見えるだろう。幼いミルシュカは母の横に座って、儀式が始まるのを待った。
シャン、シャンと、鈴の音が近づいてくる。
真新しい装束に身を包んだ銀髪の少女が、凛とした表情でミルシュカの前を通り過ぎていく。彼女の後ろ髪は右側だけ短くなっていた。すでに森の村での儀式を終えているようだ。今は残った髪を二つに結んでいる。
祭壇の前で《月の巫女》が手首につけた鈴を鳴らした。少女が唱える詞をかき消さないように、《星の加護》を持つ人たちが笛を鳴らす。小さい身体が大きく動き、裸足で床板をしっかりと踏みしめる。その姿は圧巻だった。
見事な舞を捧げる少女から銀色の光が溢れ出した。光は《祈りの場》だけでなく、村全体を包み込む。
皆がその強大な《月神の力》に圧倒され、先代の《月の巫女》を知る年代の村人は感涙にむせんだ。
その場にいたミルシュカも彼女の加護の強さに驚嘆した。そして自分の思いあがりを恥じた。
私はあの子に敵わない。本当に私と同い年?
ミルシュカは《星の加護》を授かるために必要な占星術を5歳までには覚えていた。年の離れた姉たちよりも優秀な自分は、歴代最年少で《星の加護》を授かり、先代の《月の巫女》を支えた祖母よりもすごい《星の巫女》になるのだと信じて疑わなかった。
その絶対的な自信が、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
同い年の女の子があんなに上手に舞えるなんて……それもこんな大勢の前で。
私なんて……《水の加護》は授かったけれど、肝心の《星の加護》はまだなのに。こんな調子で、私に月の巫女様を支えることなんてできるのかな……
舞い終えた《月の巫女》は祭壇の前で両膝をついた。ミルシュカの祖母である湖の村の長が、彼女の髪を一束持ち上げ、小刀で切り落とす。詞を唱えながら祭壇へ髪束を捧げ、儀式は無事終了した。役目を終えた少女はわずかに口角を上げて微笑み、《祈りの場》を去っていく。
静かに見守っていた見物人たちから歓声が上がった。彼らとは対照的に、ミルシュカの気持ちは湖底のように暗くなった。何も知らない母親が、ミルシュカの手を引いて群衆から抜け出した。
気持ちの整理がつかないまま、調理場での作業が始まる。
儀式が終われば次は宴だ。それも森の村からの客人をもてなすための盛大な宴。祖母は客人たちの相手。裏方を取り仕切るのは母の役目だ。ミルシュカたち姉妹も手伝いに駆り出される。食事と飲み物が次々に用意され、集会所へ運ばれていく。
やっと雑務から解放された頃にはクタクタになっていた。人目を避けて外に出る。
星が見たい……
《星の巫女》になるために始めた星の観測は、いつしかミルシュカの癒やしとなっていた。
湖に張り出した通路を進み、水中に降りる階段までやってくると、先客がいた。しゃがみ込んで水面を眺めている。夜空に浮かぶ月がそのまま地上に降りてきたかのように輝く髪。老人の白髪とはまったく異なる、月神に愛された銀色の髪が、中途半端に短くなっている。
「月の巫女様、どうしてそんなところにいらっしゃるのですか?」
ミルシュカが声をかけると、少女は立ち上がって振り返った。やはり《月の巫女》だ。しかし儀式で見た時とかなり印象が違う。彼女は愛らしい笑顔で「こんばんは」と言った。
「私、エリザベータ。あなたは?」
「ミルシュカです……」
「ミルシュカ……会えて嬉しい! この村に私と同い年の女の子がいるって聞いていたの。あなたのことね。私のことはエリザベータって呼んで。ねえ、お友達になりましょう!」
彼女は勢いよく近づいて来て、ミルシュカの両手をぎゅっと握った。彼女のことを遠い存在だと思い知ったばかりなのに、こんな距離の縮め方をされると困ってしまう。期待に満ちた視線が痛い。黙っているわけにもいかず、ミルシュカは口を開いた。
「え、エリザベータ様……」
「違うわ。エリザベータ! お友達は敬語なんて使わないでしょう?」
彼女は不満げに頬を膨らませた。ころころと表情を変える人だ。まるで普通の子どものような態度に、ミルシュカは思わず吹きだしてしまった。
「何、何? どうしたの?」
「ううん。ごめんなさい。エリザベータは意外と表情豊かだなぁと思って――」
「あら、私もあなたと同じ人間よ。笑ったり、怒ったり、泣いたりするわ」
「うん。そうだね。…………私、あなたのことを少し誤解していたみたい。儀式、とってもすごかったよ!」
彼女は満面の笑顔で「ありがとう」と言った。
実際の彼女はとてもおしゃべりだった。森の村の長にいつも叱られること。《星の巫女》は普段優しいけれど、勉強と稽古がとても厳しいこと。儀式が無事終わってほっとしたこと。森の暮らしについてもいろいろと話してくれた。
「エリザベータ。そろそろ戻らないと……その、森の村の長が心配しているんじゃない?」
「おばば様は長同士でお酒を飲んでいるわ。気付いていないわよ。私は初めて来た場所で迷子になっているっていうのに」
「み、道に迷ってこんなところに来たの?」
「ふふふ。でも困ったことばかりじゃなかったわ。夜の湖ってとても素敵なのね! 水面が鏡みたいに夜空を映すの。私、知らなかった。ねぇ、ミルシュカ。あなたのことも知りたいわ。話を聞かせて。ねっねっ?」
彼女の強引さは不思議と嫌ではなかった。
ミルシュカはまず湖の村の暮らしについて話した。太古の時代に大きな火山が陥没してできたこの湖には、様々な生物がいること。この村の赤ん坊は生まれてすぐに湖に浸かる風習があること。村人は皆泳げること。
エリザベータのようにスラスラと話すことができなくてもどかしい。けれど彼女は楽しそうに相槌を打ち、言葉に詰まった時はじっと待ってくれた。次の言葉を待つ彼女の瞳がキラキラと輝いていて、それがとてもきれいで――ミルシュカは期待に応えようと口を動かした。
歴代の《星の巫女》はほとんどがこの村生まれであること。祖母がすごい《星の巫女》であったこと。そして――
「――だからね、私、たくさん勉強して、お祖母様よりも、ずっとずっと、すごい《星の巫女》になるんだ!」
興奮して大きな声を出してしまった。我に返ったミルシュカは顔を真っ赤にして、無意識に握りしめていた手を下ろす。儀式を見て諦めたはずなのに、どうして言ってしまったのだろう。彼女は呆れていないだろうか。恐るおそる顔を上げると、強く抱きしめられた。
「嬉しいわ! いつか、ミルシュカと一緒に暮らせるのね! 同じ年に生まれて、星と月の加護を授かるなんて!」
「い、いや。私はまだ加護を……」
「これって運命だわ!」
「……運命?」
「ミルシュカ。私、毎日月に祈るわ。早く私の《星の巫女》になってね。約束よ!」
「……うん! 約束する!」
私がエリザベータを支えていくんだ。《月の巫女》だからではなく、一人の友として――
* * *
その後《星の加護》は無事に授かった。これで《星の巫女》として、友として、エリザベータを支えられると喜んだミルシュカは祖母を通して森の村の長に《星の巫女》の交代を願い出た。けれど何度お願いしても、良い返事はもらえなかった。結局、《星の巫女》として認められるまでに5年の月日が流れた。
ミルシュカが《星の巫女》になるにあたって、おばば様から制約が課せられた。
――村人たちとの不必要な接触を避け、《月の巫女》の影に徹すること。
――この制約について誰にも話さないこと。
破れば湖の村へ帰される。
《星の巫女》としての役目は湖の村にいた時よりも少なかった。星見の結果をおばば様に報告するだけ。薬草園に入ることも毒草を扱うことも許されず、書物の管理や写本の他に専門的なことはさせてもらえない。おばば様に歓迎されていないのは明白だった。
けれど、たとえ窮屈な生活でも、誰とも仲良くなれなくても、ミルシュカはエリザベータと共にいられるだけで、友との約束を守れるだけで満足だった。
5年ぶりに会ったエリザベータは、《月の巫女》としての風格が身に着いていた。村人の相談事を聞き、ケガ人がいれば率先して治療する。彼女は皆に頼られ、慕われていた。おばば様が望む《月の巫女》の姿がそこにはあった。
けれど彼女の心は本に癒やしを求めていた。祖先が『知』を求めて大陸中をまわっていたように、好奇心旺盛な彼女には新しい刺激が必要だ。彼女はバルナバーシュが持ってきた物語に夢中になっていた。あまりに熱中しすぎるので私がたしなめるほどに。
* * *
外の世界。いずれエリザベータを送り出す場所。まさか自分が来ることになるとは。計画はまだまだ準備段階だ。今回は無事に生きて帰れるように尽力しよう。
エリザベータ……私が絶対に守ってあげるからね。
ミルシュカはエリザベータの寝顔を眺めながら気を引き締めた。