10 村の病人
ドンドンドンドン!!
「すみません! 誰か、誰かいますか!?」外から男の慌てた声がした。
全員で入口に駆け寄り、ゾルターンが扉を開くと、中年の男がほっとした顔で口早に事情を話した。どうやら母親が急に体調を崩したようだ。
ゾルターンが冷静に症状を聞きとる。
「あの薬は?」
「うまく飲み込めないらしく、むせて吐き出してしまうんです!」
「わかった。すぐに行く。先に戻っていろ」
ゾルターンはすぐさま犬の準備を行商の青年たちに指示し、往診の準備を始めた。
「ゾルターン……なんだか、ねえさんみたいだね」
ヤロミールの言葉に、エリザベータは頷いた。ゾルターンはよくおばば様と薬草について語り合っていた。薬を扱う行商の長だからだと思っていたけれど、まさか実際に治療もしていたとは……
「この村には医者はいないの?」エリザベータはバルナバーシュに尋ねた。
「ああ。小さな村だからね。隣町の医者がときどき巡回に来るけれど、それ以外の時は父さんたちが診ているよ。商会が直接患者を診るなんて、この村以外で聞いたことがないけどね」
バルナバーシュはいつもの調子を取り戻して言った。
「そうなの……」
普段から診ているのなら問題はないかもしれない。けれど薬を飲み込めない老年の患者に対してできることは限られる。
エリザベータは決心して声を張りあげた。
「私も行くわ!!」
皆の視線がエリザベータに集まる。
「待ってよエリザベータ。私たち移動で疲れているし、明日もまた移動だよ? ゾルターンに任せておけばいいじゃない」
「それはゾルターンも同じでしょう? 飲み薬が無理なら、一晩中看病することになるかもしれないわ。病人の体力も心配よ。私なら《神の力》で治療ができる」
「あなたがわざわざ《神の力》を使う必要はないでしょ!?」
言い合いをしていると、犬の準備を終えた行商の青年が戻ってきた。
「……俺は先に行くぞ」
ゾルターンが足早に商会を出ていった。するとミルシュカが素早く身をひるがえして扉の前に立ち塞がった。
「ミルシュカ……」
「ダメっ! 戦場でもそうやって無茶をする気なんでしょ? ちゃんと休まないと許さないんだから!」
「ねぇ、ミルシュカ……」
エリザベータはミルシュカの手に触れた。
「私の加護は、人を癒やすためのもの。だから苦しんでいる人を早く助けてあげたい――そう思ったらダメかしら?」
「……」
ここで治療に行かなければ、きっと自分は後悔してしまう。しかし彼女の言う通り、今日はもう疲れているのも事実。どうにかして彼女を納得させる方法はないかと思案する。そして――
「そうよ、ミルシュカ! あなたもついてきて!」
「な、なんで私が……」
「あなたが手伝ってくれるなら、もっと早く治せるでしょう? ねっ?」
困惑する彼女の手を握り、2人で外に出ようとする。
「そういうことなら!」
バルナバーシュが案内役を買って出てくれた。ヤロミールが犬笛を吹けば、小屋から抜け出してきた白犬と黒犬がすぐに姿を見せた。
「行きましょう!」
「行ってらっしゃ〜〜い!」
ヤロミールたちに見送られ、すっかり暗くなった村の中を、バルナバーシュの誘導に従って駆け抜ける。目的の家にはあっという間に到着した。
バルナバーシュが扉を叩くと先ほどの男が出てきて、すぐに病人がいる部屋に案内された。
「……なんだ、ミルシュカも連れてきたのか」
ゾルターンは軽く口角を上げて笑った。
「状態は?」
「今は落ち着いている。痛みは波があるようだな。彼女は元々胃が弱く、胃液が上がってきやすい体質なんだ。薬を渡していたんだが、ここ最近は上手く飲み込めていなかったようだ。ひとまず呼吸が楽になる薬を背中に湿布したが……まだ無理だな」
老婆は丸めた毛布で背中を支えられ、横向きに寝かされている。喉を詰まらせないためだ。脂汗で白髪混じりの前髪が額に貼りつき、呼吸は浅く間隔が短い。お腹を押さえて痛みに耐えている。
エリザベータは彼女に優しく声をかけた。
「こんばんは。おばあさん、少し背中に触りますね?」
「あら……可愛らしい、お嬢さんだねぇ……」彼女は弱々しく笑った。
服をめくり、貼ってある湿布に触れて《神の力》を込める。ケガとは違い、体内への効果は目に見えないから加減が難しい。
「ミルシュカ、お願いね」
「……もうできてる」
ミルシュカから青く光る液体が入った器を渡される。薬を水に溶かし、《水神の力》を込めたものだ。
「ありがとう。あとは任せて」
エリザベータは両手でそれを受け取った。《月神の力》を込めれば、溶液は青色と銀色の光を帯びる。ゾルターンが患者の上体を起こしてくれた。
「さあ、おばあさん、これを持てますか? ゆっくり飲んでください。大丈夫。今度は苦しくなりませんよ。ゆっくり、ゆっくり、飲んでくださいね」
患者はゆっくりと器を傾けた。皮膚のたるんだ喉元が動く。溶液は真っ直ぐ食道を通っていく。咳き込む様子はない。まぶたの下がった目が大きく見開いた。
エリザベータは両手の平を向けながら穏やかに微笑んだ。
「どうぞ。そのまま少しずつ飲んでください」
こうして手をかざしている間、液体が気管に入ることはない。この方法は、人体の知識と《水の加護》があってはじめて可能になる。
エリザベータは《水の加護》を持たない。けれどミルシュカが込めた《水神の力》に《月神の力》を合わせることで、エリザベータでも水を操ることができる。
患者は無事に飲み干した。《月神の力》の効果によって薬はすぐに効力を発揮する。
「あら? 痛みが……」
彼女はお腹をさすって確かめた。
「あらあら、ゾルターンさん、将来有望なお弟子さんたちねぇ」
「いや、彼女たちは……」
「お嬢さんたち」
ゾルターンが訂正する前に、彼女はエリザベータに向き直った。
「この村は、髪色を気にする人なんていないのよ。だから安心して暮らせるからねぇ」
「いえ、私たちはここに住むわけではないんです」
「あら、そう……なら気をつけて。わかっていると思うけど、この髪は誰にも見えないようにしっかりと隠すんだよ」
エリザベータは老婆に何度も何度も頭を撫でられた。気恥ずかしい――けれど慈愛に満ちた彼女の顔を見て、外の世界にも良い人はいるのだと心が温かくなる。
老婆の息子がお礼に夕食でもと誘ってくれたが、エリザベータたちは丁寧に断った。症状の経過を診るためにゾルターンだけを残し、3人は帰路についた。
ポセルボフ商会に戻ると、バルナバーシュが2階の部屋へ案内してくれた。
エリザベータは驚いた。
ベッドが2台も備え付けられているのに、森の村の自室よりも広い。
長旅中の着替えにと、バルナバーシュは新品の衣類をたくさん用意してくれていた。動きにくそうなものを除き、ありがたく使わせてもらうことにする。
「せっかく似合うと思ったのに……僕の目は確かだよ? なんてったって、王族に気に入られるほど優秀だからね」
バルナバーシュが人差し指と親指で輪を作って、片目で覗く仕草をした。
「もう……遊びじゃないのよ?」
「ふふ、冗談だよ。こっちはもう着ないんだね。わかった。それじゃあ、食事の準備はできているから、2人の分を持ってくるよ。ゆっくりしてて」
* * *
行商の手厚いもてなしに、エリザベータは驚くばかりだった。ふかふかのベッド、食事には硬い黒パンではなく柔らかい白パン、そして大きめの木桶にたっぷりのお湯――おかげで身体を拭いて、髪も洗うことができた。
「はー、すっきりしたー」
「お湯をもらえて良かったわね。でも……これだけ良くしてもらうのは、なんだか悪い気がするわ。」
「それだけ後ろめたいんでしょ。掟を破って無理やり連れてきたんだから。エリザベータが気にする必要ないない」
ミルシュカがひらひらと手を振って否定した。それから何かを思い出したように、机上の小瓶を手に取った――バルナバーシュが最後に置いていった香油だ。
「使うの?」
「うーん……」
ミルシュカは蓋を開けて匂いを確かめる。
「ふーん……あの人、鼻もいいみたいだね。ねぇエリザベータ、これつけてあげるよ」
「え? でも……」
「おばば様はいないし、今日くらい良いでしょ。大丈夫、大丈夫。さぁ座って」
おばば様が知ったら、『強すぎる匂いは鼻を鈍らせる』って言って怒るでしょうね……
そんな心配をよそに、ミルシュカはエリザベータの髪に香油をなじませていく。華やかな甘い匂いがエリザベータの鼻腔をくすぐる。彼女は機嫌よく鼻歌を歌いはじめた。
ミルシュカが気にしないなら、それでいいわ……
力を抜いて目を瞑った。髪に櫛が入るたびに、頭が揺れる。
「できたよ」
「ありがとう。それじゃあ、お返し」
ミルシュカを椅子に座らせて、濃い栗色の髪に香油をつけて梳かせば、部屋中が花の匂いに包まれた。彼女は嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
「それじゃあ、もう寝ましょう」
「そうだね。おやすみ、エリザベータ……」
「おやすみ、ミルシュカ」そう言ってベッドに入る。
明日はまた移動だ。あと何日ほどで到着するのか。詳細は知らされていない。戦況はどうなっているのだろうか。負傷者はどれだけいるのだろうか。この瞬間にも、誰かが命を落としているかもしれないと思うと、不安が募る。
どうにか眠ろうとして、エリザベータは何度も寝返りを打った。
寝なきゃいけない……寝なきゃいけないのに……
ミルシュカの動く音が聞こえた。それから何かの香りがした――あの香油とは違う、爽やかで微かに土のような、とても落ち着く匂いだ。
すると強い眠気が襲ってきた。目蓋が重くなり、エリザベータは気を失うように眠ってしまった。