最後に近い空
青い空とそよ風に包まれた、日当たりの良いベランダのテラスで過ごす午後の時間。
真っ赤なローズヒップティーの水面はゆらゆらと、蒸気と一緒に揺れている。
白い雲はゆっくりと流れる河の様だったから、私はその様子を目で追う、何処まで続くか分からない上空の河の流れ。
「何を見ているんだ?」
彼の顔が空にかぶさり、ティーに映し出される。
その姿も空も、ゆらりゆらり揺れていた。
「雲の流れる様子よ」
「ふーん……そうか」
陽の光りに照らされた彼の、金色の髪はキラキラ光っている。
「そんなの見ていて楽しいかい?」
優しい笑顔をチラつかせながら、呆れた様子で問う姿も、同じくキラキラしていると思う。ティーに浮かぶ彼と空は、真っ赤だけれど。
いつだったか彼を「嫌いだ」と言って突き飛ばした事があった。彼はそのまま倒れてしまい、花壇を作るために積んであったレンガへ頭をぶつけてしまって、血を流しながら動かなくなった。なのに病院に連れて行かれた彼は、私の事は一切言わずに、自分の不注意だと言ったのだった。
「僕にもそれ、淹れてくれよ」
もう一つあったティーカップにそれを、ローズヒップを淹れる。私の少し冷めてしまったのとは違い、カップは熱を帯びて、ティーからは白い蒸気がぶわっと放たれる。
「どうぞ」
差し出すと彼は、言葉の変わりにニッコリと微笑みそれを口へ運ぶが、その瞬間不思議そうな表情を浮かばせて顔を歪ませた。
「あーこれは……ローズヒップか。君、酸っぱくはないか? 蜂蜜か砂糖をくれ」
私はこの酸味が好きなのに。爽やかというよりも、後を引くような酸っぱさが……。
角砂糖が入っている瓶の蓋を開けて彼の方へ寄せる。
一つずつ指で摘まみ、二個をそれの中に落とした後スプーンでゆっくりかき混ぜる。
"あ、空が消える……"
ぼんやりとそんなことを考えた。彼のティーにも映し出されていた空が、スプーンでかき混ぜることによって、吸い込まれるように消えてゆくその様子に魅い出されて、もう半分程になってしまった自分のそれも、意味もなくスプーンで混ぜる。
ゆらゆらがぐるぐるに変わった。渦を巻いて空を吸い込む。
気にしない振りをしていたけれど、彼の後頭部に嫌でも目が行ってしまった。あの時の痛々しい縫い合わせた傷の跡が、いつでも私に付きまとう。
"いっそのこと、庇わないでくれれば良かったのに"
どちらにしろ、本当のことを言う勇気がなかった自分が悪いのだけれど、これは彼の私への復讐なのだろうか? 嗚呼、それなら河を流れるように、空の雲と流れて渦巻くティーの中に吸い込まれて消えてしまえ。消えてくれたらどれだけ良いか。
「うん、美味しい」
甘くなったであろうティーを彼は美味しそうに飲むから、私はそれをかき混ぜる手をピタリと止めた。
"今度は彼に吸い込まれるのか……"
空を吸い込んだティーを最終的に彼が飲む、いくら私が雲と一緒に流れていっても、全て捕まえてしまって私を同化させてしまう。
つまりどこにも逃げ道はないということだ。これじゃあまるで、自由な監禁よ。世界中全てが、彼の支配下のような気さえしてきた。
私があまりにも思いに耽って、間抜けな顔をしていたからなのか、彼は「どうしたんだよー」なんて言いながら無邪気に笑う。私とは違い幸せに満ちた、キラキラ輝く大嫌いだった笑顔で。
そんな姿を見ていると何だかか色々とどうでもよくなってきた。もう考えるのはよそう、私も微笑む。
ティーはもうスッカリ冷えきってしまった。それでも相変わらず、真っ赤な水面は揺れている。さっきと見方を変えれば、赤い海がそこにあるようだ。空は水面の動き、雲は波の泡……。
「なあ、君は僕を愛しているかい?」
不意な彼の言葉。その意図は分からない。
「愛してるわ」
たとえ大嫌いでも憎くても私はそう返事をする。
ティーカップを握る手に力が入ってしまう、愛、だけれど憎しみにも似た服従の気持を込めたものだった。
彼は寂しそうに微笑んだ。その気持ちが伝わったのだろうか。
「君は僕のことを恨んでいるかもしれないけど、僕はあの時も……」
陽の光がキラキラと、彼をも巻き込んで眩しすぎるけれども、自身はそれ以上に重苦しい異様な雰囲気で、陽を遮るように存在を示している。
ゆっくりと彼の目の前へ立つ、手が近づき私の真っ黒な髪を慈しむように指で梳く。
「……今も、君を愛している」
囁くようなその言葉を、頭の中で繰り返しつつゆっくりと瞳を閉じた。
最後に見たのは恐ろしいぐらいに眩しくて見えない、彼の満面の笑み。
身体のバランスを崩され、私は後ろに倒れていく。自分の頭部が何かに当たり、鈍い音を立てた。
一瞬の出来事なのだけれど、スローモーションで時が流ていて「愛している」の言葉と共に頭の中で何度も繰り返される。
ティーカップが下に落ちて脆く割れた。ローズヒップティーの赤は、彼女の紅と交わる。
最後に近い、陽の傾き始めた午後の時間。