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屈辱の靴磨き


 掃除というものを今までの人生で難しく考えたことはなかった。

 散らかったら片付ければいいし、汚れたら拭くだけのこと。


 たったそれだけの簡単なお仕事が、突き詰めるとものすごく大変な重労働に化けてしまう。


 「暖炉の掃除の仕方を教えますね。まずは燃え残りと灰の残りを掻き出してください」


 「こう?」


 「灰が外に飛び散らないように。よけいな仕事が増えてしまいます」


 「……こう?」


 「お上手です。終わったら、鉄の部分に黒鉛を塗って磨き上げてください」


 「これ、毎日やってるのか?」


 「毎日きれいにしておけば、旦那様たちが毎日気持ちよく使用できます……お上手ですよ、ネロ様」


 掃除する姿勢はどう頑張っても無理な姿勢が多くなるし、磨くには力も必要だ。

 ミアは平然とした顔で俺と同じことをしている上に、倍の速さで仕事を終えている。


 「床を磨くときにはテレピン油を使用します。これを磨き剤と混ぜ、例えるなら鏡のようにピカピカになるまで磨いてください」


 「そんなに磨いたらスカートの中が見えちゃうぞ」


 「ひとつのものの例えです」


 ミアの動きは時計仕掛けのように精密であり、まるで油をさした機械のようだった。

 ひとつひとつの行動に全く無駄がない。


 俺はというと、初めてという事をさしひいても何かと行動がどんくさかった。

 磨けと言われても、どれだけ磨くのが正解か分からない。

 仕方ないので本当に鏡のようになるまで磨こうとする。


 そうなると仕事は遅く、当然ミアから指摘が入る。


 「ネロ様。そこはそれ以上きれいにはなりませんからもう大丈夫です」


 「ちょうどいいところが分からないんだ」


 「速度も仕事には大切です。ですが、手を抜くよりはずっと良いですけど」


 根気よくミアは俺に仕事を教え続け、掃除用具(各種ブラシやぞうきん、磨き剤など)の入ったハウスメイド・ボックスを持って、ひたすらに彼女について回った。


 今のところ、この荷物持ちモドキとして一番役に立ってる自覚がある。


 「これがナイフ・クリーナーです。この穴にナイフをセットし、ハンドルをくるくると回してみてください」


 「これは福引みたいで楽しい」


 「楽しんでもらいたいのはやまやまですが、残りあと50本あります。急ぎましょう」


 「多いな、おい」


 後で公爵にナイフの無駄使いはやめるよう進言しておこう。


 こうして朝も早くから暖炉を磨き、床を磨き、ナイフを磨き、窓を磨き──。


 どれくらい時間がたったのか分からないが、どこからか焼き立てパンの良い香りが漂ってきた。


 どうやら今がロイス公爵たちの起床時間で、朝食が始まるらしい。

 食事を意識したとたん、俺の腹が盛大にぐぅうと鳴った。


 「もう一息ですよ。エントランスの掃除が終わったら、私たちも朝食にします」


 「そいつはありがたい」


 「そこ、拭き方が甘いですよ。手のひらを一杯に使って拭き残しがないようにしましょう」


 「悪い。……下手すぎてイライラさせてないか?」


 「いいえ、ネロ様は筋が良いです。通常、ここにくるまで音を上げるメイドがほとんどですから」


 「そうなのか?」


 「エヴァもアイリーンもドロシーも、初日は暖炉の掃除でギブアップしていました」


 「それは早すぎるだろ!」


 あのメイド3人衆も最初は苦労したようだ。

 いや、むしろ苦労したのは仕事を教えるミアの方か……。


 俺に自信があるのは体力だけなので、とりあえず疲労で音を上げるという事はない。


 「しかし……ミアは監督する側だろ。自分が自ら掃除しなくていいんじゃないのか?」


 「上に立つものが動かないと、下にいる人間も動かないと思います」


 「そりゃそうかもしれないが……ミアは色々なことをしてるよな。昨日は俺の世話もしてくれたし」


 「私はハウスキーパーであると同時に、全ての仕事を(メイド・オブ・)するメイド(オールワーク)です。ですから、それが当たり前なのです」


 「ふーん……」


 俺には、それがどれくらい大変な事なのかよく分からない。


 分からないなりに、長年の勤めで公爵家の信頼を得ているからこそそれができているんだと思った。

 俺がそれほどの信頼を得るまでに一体何年かかるだろう。


 少なくともリュクシーヌやカタリナさんからの信頼を得ることは永遠にないことだけは把握済みだ。

 同じ屋敷に住んではいるものの、できれば絶対に会いたくない二人である。


 ……なんてことを思っていたら、来た。


 おそらく朝食を終えたリュクシーヌが、エントランスへと歩いてきた。


 「……あら」


 「おはようございます、お嬢様」


 「おはようミア。今日もいい朝ね」


 「はい。清々しい1日となりそうです」


 「……そこの下僕、ご主人様に対する挨拶が無いわよ?」


 「おはようございます、お嬢様」


 「ふん。お似合いじゃない、その恰好」


 鼻で笑うリュクシーヌ。


 一晩経っても俺に対する態度は相変わらずだった。

 むしろ俺が使用人の服に着替えていることで、しっかり自分の優位を確認できたらしい。


 対する彼女はきらびやかなドレスを身にまとっており、昨日の夜よりも派手なくらいだ。


 その態度や口調を改善して欲しいとは言わないから、とりあえずさっさと立ち去ってほしい。


 しかし俺の思いをよそに、彼女はなかなかその場を去ろうとはしなかった。

 俺を見てニヤニヤと笑っているところを見ると、使用人姿の俺が愉快でたまらないのだろう。


 なんとも言えない空気をフォローするように、ミアが口を開いた。


 「お嬢様。本日のご予定は?」


 「間もなくウォルフガング様がお迎えに来るわ。今日は一緒に劇場に行く予定」


 「『月の劇団(テアトル・ド・ルーン)』が王都から来ていましたね。ごゆるりとお楽しみください」


 「えぇ、そうなのよ! 私のために最前列の席を取っていただいたわ!」


 「何よりです」


 ウォルフガングは、確か新しい婚約者の名前だ。

 正確には分からないが、確かこのロイス公爵の地の隣を治めている貴族のはず。


 こっちは朝早くから汗水たらして働いているというのに、貴族ってのは暇な生き物だな。


 「ネロ。そう言えばあなたとも、王都で何度かデートをしたわよね?」


 「はぁ……それが何か」


 「あれは最低だったわ。訳の分からない安酒場に連れていかれたり、下品な賭場に連れていかれたり」


 「それは申し訳ありません」


 そんなことを今更言われても困る。

 その時に言ってくれたら、俺なりにリュクシーヌの喜びそうな場所を考えたのに。


 「劇場や美術館には一度も連れて行ってもらえなかったわねぇ。これが本当の男女のお付き合いというものよ!」


 「……私の記憶によると、その時のリュクシーヌ様は大層お喜びだった気がするのですが」


 「はぁっ? ミア、あなた何を言っているの!?」


 「ネロ様の連れて行ってくれるところが新鮮で、楽しかったと。王都の酒場では驚くほど安く美味しいものが食べられて、賭場ではつい賭け事に夢中になってしまったとか……」


 「それはミアの記憶違い! もしくは、私がお父様に気遣ってそう言っただけ!」


 「……大変失礼いたしました」


 楽しかったのかつまらなかったのか、どっちなんだ。

 どっちでもいいから、仕事の続きをさせてくれないだろうか。

 ここでウダウダされればされるほど、俺の朝食が遠ざかる。


 「ネロ、勘違いされては困るわよ。私はあなたと過ごして楽しかったことなど一つもなかったんだからね!」


 「承知しました。どうぞ、これから本当の男女のお付き合いをお楽しみください」


 「ふん……何だかいやみな物言いね。下僕に似つかわしくないわ」


 そう言ってリュクシーヌはドンっとメイド・ボックスに足を乗せた。


 あの……それ、今の俺の大事な仕事道具なんだが。


 「お嬢様。何か」


 「出かける前に靴が汚れているのに気づいて良かったわ。磨きなさい」


 「は?」


 「私の靴を磨くのよ。その手に持ってるボロッ切れでいいから、早くなさい」


 「お嬢様。ネロ様にそんなことをさせなくても、ミアが新しい靴をお持ちいたします」


 「いいえ、この下僕にやらせるわ。まだ自分の立場を今一つ分かっていないようだからね……」


 「お嬢様!」


 「ミア、お嬢様の靴が汚れてたら使用人の質が疑われる。しっかり磨かせてもらうよ」


 「ネロ様……」


 「それでいいわ。さあ早く。私の前に跪いて磨くの!」


 「かしこまりました」


 俺は跪き、手に持っていた布切れでリュクシーヌの靴を磨いた。


 それは磨く必要が無いほどに新品同様だった。

 明らかに嫌がらせでしかないのだが、今の俺に逆らう術はない。


 それにこの程度のこと、逆らうほどのものじゃない。


 「わりに上手じゃない。踵もしっかり磨きなさい」


 「はっ」


 「次は左足よ。手を抜いたら、お母さまに言いつけてやるからね!」


 「はっ」


 ミアが痛ましい目で俺を見つめている。

 自分よりも彼女がつらい思いをしている気がして、それがとても心苦しかった。


 大丈夫だよ、俺は大丈夫。

 そう自分に言い聞かせながら、なるべく早くこの時間が終わる事だけを願った。


 「……誰か来たようね。きっとウォルフガング様だわ」


 願いが通じたのか、玄関のドアチャイムが鳴った。

 これで、この惨めな時間も終わってくれることだろう。


 そんな風に考えた俺が甘かった。


 「ミア、出迎えなさい」


 「かしこまりました」


 「ネロは黙って私の靴を磨き続けるのよ。あなたに、私の将来の夫を見せてあげる」


 「はっ?」


 「私の将来の夫に、靴磨きをする元婚約者を見せてあげないとね? きっとおおいに自分に自信がつくことでしょうから!」


 「……」


 ──拝啓、フォート・リア王。


 俺の前途は多難です。

 あなたが思っていたよりずっと、俺の婚約破棄は根が深かったようです。


 初日からこれじゃ、身が持ちませんよ。


 心の中で訴えかけてみたものの、心の中の王は『耐えてみよ!』という素晴らしい答えを返してくれた。


 そんな空想で現実逃避をしていると、ウォルフガング公が屋敷へと足を踏み入れた。


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