Love
唇を離して目を開けると、夫は驚いてファニーを見つめていた。真意を測りかねているような、探るような視線だった。
一方で、ファニーも自分のしたことに驚いていた。許可も求めずに唇にキスするなんて。今までの夫の気遣いを、自分から無に帰したようなものではないか。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ……」
ファニーは乱れてもいない髪の毛を耳にかけた。言い訳が見つからなかった。夫がついさっきのキスのことを忘れて、寝室を出ていかないかな、などとありえないことを考えたりもした。
「……あなたからキスするくらいには、私に好意を持っていると考えても?」
明かりを落とした寝室の中、二人の間を数人の天使が通りすぎたあとに、やっと夫がそう口を開いた。
「ええと……」
ファニーはすぐには答えられなかった。答えははいでもあり、いいえでもあった。
一緒に過ごすうちに、夫が疑いようもなく親切で、寛容で、ファニーを大切にしてくれていることはわかった。
夫は高等学校に通っていたときは一人暮らしをしていたらしく、一通りの家事にも慣れている。朝食のメニューやお茶の種類さえもファニーが何が好むのかを確認して、好きなものを楽しめるようにしてくれた。ファニーが尋ねると自分の好きな料理も教えてくれたので、一緒に夕食を作ったこともある。
結婚した夫婦はこうあるべきとか、男女はこうあるべきといった考えからファニーに何かを強要することもない。夫は少しずつだが確実に、隣にいて安らげる人物になりつつあった。
しかし、何かを強要することのない夫は、ファニーとの距離を詰めかねているようでもあった。
お休みのキスの習慣や、寝る前の団らんの時間は提案してきたが、頬へのキスと隣でくつろぐ以上には距離を詰めてこないのである。先ほどようやく気付いたが、それがファニーにはもどかしかったのだ。
「私と、同じベッドで休まないのはなぜ?」
「質問に質問で返さないで」
夫が初めて苛立った声をあげた。拳を握りしめて、ベッドに座り込むファニーを見下ろしている。この先の何通りもの展開が、ファニーの頭をよぎった。殴られる。怒鳴られる。乱暴を働かれる。
けれど夫はそのうちのどれも実行しなかった。
「……あなたのためですよ。私を愛する努力をしてくれている、あなたのためです」
ファニーはようやく、自分のキスが夫を傷つけていたことに気がついた。愛していないと言ったファニーのことを、夫は最初から愛していたのだ。そうして、妻が愛情を返してくれるのを辛抱強く待っていただけだったのに。
ファニーは衝撃を受けた。自分が夫に傷つけられる可能性は何度か想像したが、なぜだか逆は考えたことがなかったのだ。
「今夜はもう寝ましょう。おやすみなさい」
夫はそのまま寝室を出て行った。
ファニーは結婚してから初めて、少しだけ泣いてから眠った。
罪悪感と、自分への怒りの涙だった。
翌朝、ファニーがリビングに降りると、夫はもう家を出る身支度を整えているところだった。寝過ごしたかと時計を見ても、いつもより一時間は早い時間だった。
「おはようございます」
夫が笑顔で声をかけてくる。ファニーは寝る前に考えた言葉を、恐る恐る口にした。
「あの、昨晩はごめんなさい。あなたの気持ちを踏みにじるようなことをしたわ」
「いえ、もとはと言えば私が、無理にこの結婚を進めたのですから。気にしないで」
夫は笑顔のまま、頑なになっていた。昨晩のことをなかったことにしようとしているのだ。そのまま鞄を持ち、今にも玄関に向かおうとしている。
(これじゃ、だめだわ)
ファニーは勇気を出して、声を張り上げた。
「あの!」
突然の大声に、夫が驚いた顔をして立ち止まった。
「あの、わたし、準備ができたと思います」
「準備?」
「思うというか、できたの。あなたと夫婦になる準備が。──アルティシオ」
「は……?」
ファニーは夫──アルティシオを、まっすぐに見つめた。
「わたし、あなたを愛しているんです。アルティシオ。一緒に暮らしていく中で、どんどん本当の夫婦になりたいと思うようになりました。だから、まだ間に合えば……あなたがわたしを許してくれるなら、わたしはあなたに愛されたい」
アルティシオは、手に持っていた鞄を落とした。リビングの窓を背に立つアルティシオの顔は、ファニーからはよく見えない。けれどファニーは、彼が泣いているのかもしれないと思った。
「……本当に?」
アルティシオが震える声でたずねた。ファニーは深く頷いて答えた。
「ええ」
「ああ、ファニー本当に?」
「ええ。そう言っているでしょ」
何度もたずねられて、ファニーは恥ずかしくなった。ここで嘘をつけるファニーではないことを、彼ももう知っているはずなのに!
アルティシオが、大股で近づいてファニーを抱きしめた。勢いの良さに「う」と声が出てもお構いなしだった。
「うれしい、ファニー」
「ええ、私も。……それに、昨晩は本当にごめんなさい」
「いいんだもう。昨日のこともその前のことも、今の幸せで全部お釣りがくるくらいだよ」
「うん。それで、お仕事は平気なの?」
アルティシオはやっとファニーを抱きしめていた腕を離して、リビングの時計を見た。普段彼が家を出る時間には、まだまだ余裕がある。アルティシオはなぜか深くため息をついた。
「時間は大丈夫だけど……このまま家に残っていたら、出られなくなりそうだ」
「……? それなら、もう出た方がいいのかしら?」
「そうだね。──帰ってきたら、今夜はあなたと一緒に寝たい」
早口で言われた言葉の意味が、ファニーは一瞬理解できなかった。
アルティシオの顔を見つめながら何度か反芻して、やっと言葉の意味が頭に入ってくる。途端に赤くなったファニーの頬を撫でて、アルティシオが嬉しそうに笑った。
「よかった。ちゃんと伝わってるね」
「もう! 早く出ましょう! ほら!」
急いで玄関まで彼を追い立てると、アルティシオはにこにこ笑ったまま大人しくファニーに従った。ねだられるまま行ってらっしゃいのキスを頬にしてアルティシオを送り出し、ファニーはため息をついてリビングのソファに座り込む。しばらくそうして休んでから、ファニーは勢いよく立ち上がった。今夜起こることを考えると、準備はいくらでも必要だった。
──夜。いつも通りに『団らんの時間』を過ごしたあと、ファニーとアルティシオはベッドの横に立っていた。
アルティシオがファニーのガウンを脱がし、ベッドの足元の方に投げる。
ファニーが着ているのは初日の夜と同じナイトドレスだった。あの夜と違うのは、ファニーがその恰好でも恐れることなくアルティシオの前に立てていることだった。
「あの、アルはどうしてわたしと結婚しようと思ったの? 勘違いでなければ、あなたは最初から私のことを、その……」
「愛してたよ」
「……うん。でも、何で?」
アルティシオはため息をついた。
「本当に覚えてない? 初等学校で、あなたの後ろをついて回っていたアルのことを」
「あっ!」
ファニーはやっと、点と点が繋がった気がした。そう言えば結婚してから、あの子をことを何度も思い出していたのに……。
「あなたが卒業する日にあれだけ言ったのに。僕のことを忘れないで、って。あのときから私は、ファニーを忘れたことはなかったのに」
アルティシオは恨みがましくつぶやいた。ファニーは脳内の小さな男の子だったアルと、目の前の立派な男性であるアルティシオを何とか結び付けようとするが、あまりうまくいかなかった。
思い出せないファニーを前に不機嫌になってしまったのか、アルティシオはむすっと口を結ぶ。目を合わそうとせず、緩く編んで垂らしているファニーの髪の毛をいじりはじめた。その仕草の幼さはまるであの頃のアルのようでかわいいが、ファニーは機嫌を直してほしくて慌てた。
「だって仕方ないじゃない……あなたはすっごく大人になってるし。それにあの卒業式の日、あなたがその……キスしてきたことの方が衝撃的で。そればっかり思い出しちゃうのよ」
「私のキスを? それは嬉しいな」
とたんに機嫌が直ったように、アルティシオはにこにこと顔をあげた。もしかしたら拗ねたように見えたのはただのお芝居だったのかもしれない。
(もしかしてアルって、わざと年下っぽく振舞っているときがある……?)
ファニーはアルティシオに疑いの目を向けたが、それも長くは持たなかった。アルティシオがファニーの肩をそっと押して、ベッドに腰かけさせたのだ。すぐ隣──太ももが触れるくらいの近くに、アルティシオも腰かける。そうして膝の上で手を握られると、ファニーの心拍数は一気に上がった。
アルティシオはファニーの手を持ち上げて口づけてから、小さな声でたずねた。
「もう少し、触れても?」
「ええ」
ファニーは間髪いれずに答えた。その早さに、アルティシオがおかしそうに笑い声を立てる。
恥ずかしいけれど、咎めればもっと恥ずかしい目にあうことがわかっているので、ファニーは自分から夫の背に腕を回した。胸が重なると、アルティシオの鼓動も同じくらい早まっていることがわかる。
「どきどきしてるね」
「……うん」
ファニーは嘘のつけないたちだった。好意を持っている相手に──夫であるアルティシオに抱きしめられて、どきどきしないはずがないのだ。アルティシオが満足げにため息をもらす。ファニーの背中に回っていた腕が、結った髪の毛をほどき始める。
「どれだけ、こうして触れたかったか」
「……待たせて、ごめんなさい」
「謝らないで。結婚できたから、それだけで夫婦になれたと思っていた私が間違ってたんだ」
アルティシオは一度体を離し、ファニーの目を見つめて言った。
「ファニーがあの夜、ああ言ってくれたおかげで、今があるんだから」
「わたしが、あなたを愛していないって?」
「うん」
ファニーとアルティシオは見つめ合って、同時に吹き出した。真面目な空気は霧散してしまう。
アルティシオは笑いながらも言った。
「あの言葉のおかげだけど! それでもあの夜、僕がどれだけ悲しみに暮れたか知らないだろ!」
「あら、いま僕って言った?」
途端に顔を赤くして、黙り込むアルティシオ。これはわざとではなく、うっかり出てしまったらしい。ファニーは愛おしさで胸がいっぱいになるのを感じた。
「いいのに、わたしの前では僕って言っても。あの頃みたいで懐かしいじゃない」
「……言ってないし、言わない!」
「ふふ。かわいい、アル」
ファニーはアルティシオの鼻の頭にキスをした。すかさず唇にキスを返されて、ファニーはしばらくそれに応えた。
「おしゃべりもいいけど、今夜からは、もっとできることが増えたと思わない?」
「そうね」
「……私から言ったけど。本当にいいの?」
「平気よ、アル。言ったでしょう。準備はできてるの」
ファニーはアルティシオの寝間着のシャツに手をかけた。
◇ ◇ ◇
それからしばらく経った、ある夜のこと。ファニーはふと気になって、隣で甲斐甲斐しく自分の世話を焼いていたアルティシオにたずねた。
「あなたがあのアルだったことを知っていたら、もっと早くあなたを愛していたかもしれないって思うの。どうして、すぐに教えてくれなかったの?」
「それは……」
アルティシオは少し言いよどんだ。二人の間に流れる空気はいくらか湿度を含んでいた。お互いの汗ばんだ肌が触れ合っていたが、ファニーは気にならなかった。不思議と、彼の肌であれば汗ばんでいても心地よいと感じるくらいだった。
それはアルティシオも同じなのか、彼の右手はファニーのむき出しのなめらかな肩を撫でている。
「ファニーとはほとんど、僕のわがままで結婚したようなものだったから。そこからファニーに愛してもらうために、幼い日の思い出を持ち出すのは卑怯だと思ったんだ。覚えていてくれたならそれで良いと思ったけど、ファニーは全然覚えていなかったみたいだし」
「……それだけ?」
アルティシオは恥ずかしそうに、ファニーの顔から視線を逸らした。
「僕があのアルだと知ったら、ファニーはきっと僕を弟のようにかわいがっていただろう? それは嫌だったんだ」
僕は夫として、ファニーに愛してほしかったから。
アルティシオはそう言って、照れ隠しのようにファニーの唇の端にキスをした。ファニーは笑ってそれを受け止めながら、アルティシオの言った言葉をかみしめた。
アルはあの日の思い出を持ち出すのは卑怯だと思ったのだ。それに、ファニーに弟のようにはかわいがられたくなかったのだ。ファニーに夫として、愛されたかったから。
ファニーはアルティシオの背中に腕を回して、彼を抱きしめた。
今はもう、夫として彼を愛しているから。
The First Love