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The First  作者: 雪村サヤ
2/3

Kiss

「姉さん、まさかもう何か言っちゃったの?」


 実家に顔を出したファニーを見るなり、上の妹が言った言葉である。ファニーは八つ離れた妹を前に、「ええ……」と情けない気持ちでうなだれた。


「じゃ、とりあえずお茶でも飲みながら話聞くわ。今はあの子たちはいないから」


 弟と下の妹は、初等学校の友達と遊びに出ているらしい。ほとんど母親代わりのように面倒を見てきた彼らに話を聞かれるのは本意ではなかったので、ファニーはほっとしてうなづいた。

 上の妹はファニーのように嘘をつけないのではなく、嘘をつかないはっきりした性格だった。


「義兄さんが手配してくれた家政婦さん、良い人だったわ。お茶菓子も焼いてくれたから、それを食べましょ」


 ファニーを座らせて、上の妹はてきぱきとお茶の準備をした。家政婦は朝食とお茶菓子を作った後、入用なものを買い出しに町に出ているらしい。

 ほどなくして、ファニーの前に湯気の立つティーカップを置くと、妹は「それで?」と話を促した。ファニーはこの期に及んで、妹にこんなことを相談をするのは恥ずかしい気がしてきた。これが逆の立場ならまだしも、ファニーはいい年をした大人なのだから。

 妹はファニーの逡巡を見て、ため息をついた。


「姉さん、余計なことは気にしないでいいから。何があったのか教えてちょうだい」


 ファニーはようやく、かなり遠回しな表現を使いながら、昨晩夫に何を言ってしまったのかを話した。


「ああもう、心配していたことが起こったわ。姉さんがすっごく奥手でうぶなこと、父さんも心配してたじゃない。年頃の娘なのにって」

「あのね、それは余計なお世話ってものよ。それにわたしにはかわいくて手のかかるあなたたちと一緒にいる方がずっと好きだったの!」

「嘘がつけないものね、姉さんは」


 上の妹が鼻を鳴らした。こんな生意気なことを言いながらも、ファニーが結婚して家を出る日の朝──つまり昨日の朝だ──には、目を真っ赤に腫らして「いつでも帰ってきてね」と抱きついてきたのだ。あの妹の顔を思い出せば、多少の憎たらしさは帳消しにできるというものだった。

 そんなかわいい妹はさておき、ファニーの嘘のつけないたちは確かに厄介なしろものだった。正直さは美徳といえど、取り繕えないというのは不便なことの方が多いのだ。

 苦手に思っている男性に声をかけられたり、親しくない女性に何かを言われると、ファニーは油をさし忘れたブリキのおもちゃのようになってしまう。


「義兄さんには、きちんと謝ったの?」

「あ……まだだわ。朝食をいただいて、すぐに出てきちゃったの」

「もう、それでいきなり帰ってきたの? 早く義兄さんのところに帰らないと!」


 妹はがちゃん!とティーカップをソーサーに戻すと、席を立って手を付けられなかった焼き菓子を包み始めた。ファニーが「お行儀悪いわよ」と注意するひまもなかった。


「今日は帰ったら、義兄さんとお茶するのよ。姉さんが正直に言っちゃう人だってことを説明して、ちゃんと謝ってね!」

「ええ」

「大丈夫よ、義兄さんって姉さんより年下なんでしょ? 姉さんは昔から町や学校で弟と妹を増やすのが得意だったじゃない。義兄さんともすぐに仲良くなれるわ」


 はい、と焼き菓子を包みを渡される。ファニーの面倒見がいいせいで、年下から慕われることが多かったのを揶揄しているのだ。

 妹のその言葉に、少し何かが引っかかったような気がした。

 けれどファニーは、そのまま妹に追い出されるようにして実家を出て、夫の待つ家に帰ったのだった。その日、夫はすぐに帰ってきたファニーの謝罪を受け止め、「大丈夫ですよ。これから、ですから」と言ったきりだった。





 数日後の夜のこと。


「今夜は、マッサージをするのはいかがでしょう」

「ンぐッ」


 寝る前の団らんの時間──今夜から、夫の提案で設けた時間だ──にファニーがそう提案すると、夫は聞いたことのない声でむせた。ウイスキーの入っていた上品なカットグラスが、ひびが入らないか心配な勢いでテーブルに置かれる。


「まあ、大丈夫ですか?」


 ファニーは椅子から立って夫に近づいた。少し迷ってから、控えめに肩を撫でてみる。夫は背中を丸めてしばらくむせた後、「すみません」と顔を上げた。酒が変なところに入ってしまったのか、目が潤んでいる。


「見苦しいところをお見せしました」

「いいえ。突然変なことを言ってしまったかしら」

「は──いや、いいえ。具体的に何をするのか聞いても?」

「ええ。父がいた頃は、よく寝る前に肩や腰を揉んであげていたんです。あなたも毎日遅くまでお仕事されているから、疲れがたまっているのではと思って」

「父……」


 夫は何やら複雑な表情で黙り込んだ。ファニーは内心、どきどきしていた。

 ファニーがときどき、父の肩や腰をマッサージしていたのは嘘ではない。けれどそれを始めたきっかけは、母が元気だった頃に、父にねだられてしてあげていたマッサージなのだ。母はマッサージのことを『夫婦円満の秘訣の一つよ』と言っていた。


「あの……もちろん、お嫌でしたら無理にはしません」

「嫌ではないです。すぐにやりましょう。お願いします」


 夫は早口にそう言うとベッドへ向かい、腰かけた。ファニーも慌ててあとを追う。


「わたしも、とても上手というわけではないのですが……。肩、失礼しますね」


 夫のガウンをそっと肩から落とし、首筋に手を添える。

 そこからのファニーは無我夢中だった。首から肩、肩甲骨のあたりまで、触れていないところがないくらいにくまなく揉みほぐした。特に筋肉が凝っている箇所や反応の良い箇所は念入りに揉みほぐしと指圧を行った。

 たっぷり十五分はマッサージをした頃に、夫が弱弱しい声で「もう結構です」と声を上げた。ファニーが手を離すと、夫が体ごとこちらを振り返る。


「もう、よろしいですか?」

「ええ、もう大丈夫です。ありがとうございました」

「どうでしょう、少しは肩が軽くなりました?」

「はい……肩も首もすっきりしました。そんなつもりはなかったのですが、結構疲れがたまっていたみたいだ」


 夫がはにかむように微笑んで、ファニーは胸がきゅんとした。初めて見た笑い方だった。年相応というか、かわいらしい仕草だ。もしかすると普段は、一人前の男性らしく振舞おうと意識しているのかもしれない。

 ……ファニーの前では、そんな風に意識しなくてもいいのに。

 どうして?

 だって、だってファニーは妻なのだから。


「わたし!」

「どうしました?」

「もう寝ますね。マッサージ、気に入ってくださったのならまたします。おやすみなさい」

「……それでは、おやすみの挨拶を」


 夫は有無を言わさぬ素早さで、ファニーの頬にキスをした。ぽかんと見上げるファニーに向かって、自分の頬をとんとん、と指で叩いてみせる。

 ファニーは少し伸びあがって夫の頬にキスした。

 夫はうれしそうに笑うと、もう一度「おやすみなさい」と囁き、寝室を出て行った。


(今夜も、一緒にお休みにならない……)


 仕方のないことだ。ファニーが先に夫を拒んだのだから、気を使ってくれているのだろう。

 夫はファニーと少しずつ仲を深めていきたいと言ってくれた。どうしてそこまで優しく、辛抱強く、寛容になれるのだろう。

 夫だから? いいえ、それだけではないはず。結婚の書類にサインする前から、夫はファニーに対して親切だった。ファニーが年長者だから、女性だから敬意を払っているのではなく、何か別のものがあるような気がした。

 ……わからないけれど、夫には夫の考えがあるのだろう。いつか、他人には打ち明けられないことも共有できる仲になりたい、とファニーは思った。横を向くと、一人で眠るには広すぎるくらいのベッドが広がっている。ひんやりしたシーツを撫でてから、ファニーは眠りについた。



『姉さんは昔から年下に人気だったじゃない。初等学校に通っていたときなんか、何人も“弟”ができてたし』


 横から妹の声が聞こえてきて、ファニーは何となく、自分が夢を見ていることに気が付いた。実家のリビングで、妹とおしゃべりをしている。


『だからって……彼はそういうのとは違うでしょう。わたしより年下とは言え、立派な大人なんだし』


 喋ったつもりはなかったのに、ファニー自身が勝手に返事をする。この会話には覚えがあった。結婚の申し込みを承諾して、ファニーが夫の家に移る準備を始めた頃に、上の妹と交わした会話だった。


『どうだかね。あの人だってもしかしたら……』


 上の妹がしたり顔でつぶやく。生意気なその肩を小突いてから、ファニーは席を立った。新しいお茶を淹れにキッチンに向かっているのだ。


 慣れ親しんだ実家のキッチンで茶葉を用意しながら、ファニーはそういえば、と思い出す。この間実家に帰ったときも、妹は似たようなことを言っていた。

 確かに初等学校に通っていた頃、ファニーのことを慕う年下の生徒は多かった。八年制の初等学校の最高学年ともなると、下級生からは特別大人に見えていたのかもしれない。

 中でも、ファニーが卒業する半年前に転入してきた子には特に懐かれていたのだ。学年は二つか三つ下で、成長期の訪れていない小さな身体をした男の子だった。懐かれたのは、学期の途中で入ってきたこともあって、いじめられていたその子をファニーがかばったことがきっかけだった。

 ファニーが卒業するまでの短い間に、学校では何度も話をした。卒業の日には、目を真っ赤にして花束を渡してくれて、それで──。

 それっきり会っていないけれど、彼は元気にしているだろうか。

 お茶を淹れている手元の景色がにじんでいく。

 何度か瞬きをして目をこすると、そこは実家ではなく、夫と住む家のベッドの上だった。


「……」


 白く広いシーツの上に、朝日がさしこんでいる。

 横を向くと、ベッドはやはり広く、がらんどうのままだった。





 ファニーが夫に初めてマッサージをした夜から、数日経ったある夜のこと。

 夫は何やら緊張した面持ちで「今夜は私がマッサージします」と申し出てきた。


「わたしに……? でもわたし、とくに肩は凝っていませんけど」

「いつもあなたにばかりお願いしていては申し訳ないですから。触れられることがお嫌でなければ、私が、やりたいのです」


 夫の言葉には、これまでになく力が入っていた。ファニーはその言葉に気おされつつも考えてみる。肩のマッサージであれば、触れられることに抵抗はない。何しろ夫はこれまで、必要があってファニーに触れるときは必ず許可を求めてきた。彼が許可なくファニーに触れるのはお休みのキスのときくらいで、ファニーはもう、抵抗なくそれを受け入れられるようになっていた。


「あの、大丈夫です。お願いしますね」


 ファニーがそういって、ナイトドレスの上に羽織っていたガウンを肩から滑らせると、夫は無言のまま顔を赤くした。



 しかしマッサージが始まってみると、五分ほど経過したところで夫が音を上げた。


「……あなたの肌は柔らかくて、これ以上やると痕が残ってしまいそうだ」


 夫はそういって手を離した。

 ファニーは少し不満な気持ちで後ろを振り返る。肩を揉んでもらうのは思ったよりも気持ちがよくて、もっとお願いしたいくらいだった。


「あの、痕がつくのはお嫌ですか」

「いえ……」


 夫が口ごもる。

 ファニーは夫の手の痕が残った自分の肌を想像してみた。肩や、手首や、太ももに残る指の痕。それらはきっと、普段は洋服で隠れている場所についているのだ。もしかするとファニー自身もわからないような箇所にもついていて、それを見ることができるのは夫だけなのだ……。


 自分がとんでもなくいけないことを考えている気がして、ファニーは黙り込んだ。

 ちらりと夫を見上げると、その顔は真っ赤になっていた。ファニーの顔も、負けないくらい赤くなっているに違いなかった。

 きっと、二人とも同じことを想像したのだ……。


 寝室は妙な沈黙に包まれていた。


「もう、寝ましょうか」

「はい」


 夫がぎこちなく切り出して、ベッドを降りようとしていた。大人しく返事をしながらも、ファニーはこの時間が終わってしまうのがとても惜しい気がした。

 もっと親しくなりたい。でも、どうすれば良いのだろう?


(キスなら平気なのに。──前にも、したことがあるし)


 唐突に、ファニーは思い出した。

 初等学校を卒業した日のことだ。

 ファニーを慕ってくれた男の子が花束をくれて、そして、キスをしてきたのだ。

 ファニーの唇に。

 まるでスタンプを押すような、唇を押し付けるだけのそのキスが、ファニーにとっては最初で最後のキスだった。

 今夜の、このときまでは。


「あの、」


 ファニーはベッドから離れようとしている夫の袖を掴んで引き留めた。


「はい?」


 夫は何も身構えずに振り向いた。

 ファニーはベッドに膝立ちになって夫の顔を引き寄せると、彼の唇にキスをしたのだった。






   The First Kiss

19時20分くらいまで、推敲前の文章を上げてしまってました。読んでしまった方がいらっしゃったらすみません。

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