Night
ファニー・カーターは嘘のつけないたちだった。
もちろん、これまでの人生で毎日毎秒嘘をつかずに正直に生きてきたわけではない。人並みに気を遣うことは知っていたので、末の妹が初めて焼いたクッキーが生焼けだったときに、とびっきりの笑顔で「今まで食べたクッキーの中で一番おいしいわ」と言うことはできた。絶望的に絵の下手な弟の描いた自画像を見たときも、「私が同じ歳の頃に描いた絵よりずっと上手」と言うことができた。
ファニーが嘘をつけないのは、主に人間関係のあれこれについてだった。苦手な人に対しては萎縮してしまって愛想良くふるまうことができないし、全く好感を持っていない人について「好き」ということもできなかった。
それで気まずい思いをしたことは何回もあったが、上の妹に何度呆れられようと、ファニーはやっぱり嘘がつけなかった。なかば諦めて、自分は一生この気まずさと付き合っていかねばならないのだと思って生きてきた。
そして、この嘘をつけないたちのせいで、ファニーは二十五歳の夜、人生で最も気まずい夜を過ごすことになってしまう。
「わたし、あなたのことを愛していません」
自分の口からこぼれ出ていった言葉に、ファニーは思わず頭を抱えそうになった。何てことを言うの、ファニー・カーター! いや、今夜からはファニー・ホーク夫人なのだ。結婚したのだから。目の前にいる、三歳年下の夫と。
「……はい?」
夫は困惑しているようだった。結婚して最初の夜に、先にベッドに入っていた妻──ファニーから、突然そんなことを言われたのだから。
「いきなりごめんなさい。でも、あなたと顔を合わせた回数は片手の指で足りるくらいだし、今日に至るまで色々なことで忙しくてあなたのことを考える余裕もほとんどなくて、その……」
「……」
「もちろん、努力はしていきます。あなたの妻として、あなたを愛せるように。でも今はまだ……」
ファニーは結婚前に上の妹が見繕ってくれたナイトドレスの裾を握った。薄い緑色の光沢のある生地をクリーム色のレースで縁取ったナイトドレスはとても美しかったが、ファニーはこんなに心もとない服装でほとんど知らない男性である夫の前にいることが、何よりも不安で居心地が悪くて仕方がなかった。
「……ああ。もちろん、そうですよね」
夫は微笑んだ。ファニーの肩を抱こうとしていた手は、さりげなく引っ込められた。
「確かに今夜にたどり着くまでは──本当に長かった。その間私たちには、残念ながら仲を深める余裕がありませんでした。あなたの言うことはもっともだ」
夫はゆっくりと話した。身を固くしたファニーを前に、自分に言い聞かせているようでもあった。
「でも──だから、そうですね。これから仲を深めていくために、少しずつ段階を踏んでも?」
「段階?」
「そうです。今夜はひとまず、頬にキスしてから休むのはどうでしょう?」
「頬に?」
ファニーは少し気が楽になった。夫が寝室に現れてから初めて、口もとに微笑みを浮かべた。いきなり夫婦の営みを強要されたらとても耐えられる気がしなかったが、頬へのキスなら当たり前の挨拶だ。たとえこの夫が相手だろうと、抵抗はなかった。
「それなら大丈夫です。妹や弟にも、お休みのキスをしていましたから」
「弟……」
「何か?」
「そうですね。私たちも今夜から家族ですから。家族の、第一歩として」
夫はにっこり笑って、ファニーの方へ少し身体を寄せると、何かを待つように動かなくなった。ファニーからしろということらしい。
昼間、結婚のための書類にサインした時には後ろに流していた前髪が、今は額におりて少し頬にかかっている。
ファニーは膝でにじり寄ると、夫の前髪をそっと耳へかけた。元気に遊びまわってはまとめた髪の毛をぐちゃぐちゃにしていた末の妹にもよくやっていた仕草だった。
そっと夫の頬に唇を寄せ、触れるか触れないかのところでキスをする。ぱっと身を離すと、思ったよりも緊張していたようで鼓動がいっぺんに早まった。
「………………ふぅ……」
「あの、どこか変でした?」
「……いいえ。次は私の番ですね」
「はい」
ファニーはさあ来い、というつもりで目を閉じた。少し間をおいてから、乾いた唇の感触が頬にあたる。ファニーよりは長く(と言っても、一秒経つか経たないか程度だ)キスをしてから、夫は唇を離し「おやすみなさい」と囁いた。
「おやすみなさい」
ファニーが目を開けて挨拶を返すと、夫はもうベッドから降りていた。
「眠らないのですか?」
「少し、やり残した仕事がありまして。すぐに終わるかわからないので、あなたは先に寝ていてください」
「はい……」
夫は微笑むと、静かに寝室から出て行った。明らかにファニーを気遣った嘘だった。
何も言えずに夫を見送り、扉が閉まったのを確認してからファニーはベッドに倒れ込んだ。
(大失敗だわ! あんなことを言うつもりなかったのに!)
言うつもりがなくても、自分に手を伸ばす夫を見たら、気づかぬうちに口が動いていたのだった。納得してここまで来たのに。
ファニーの側──というかファニーの弟妹たちからすれば姉が身売りしたも同然のこの結婚は、世間では青年実業家が親しかった取引相手の家族の窮地に手を差し伸べた、大変な美談として語られているというのに。
実際、ファニーたちにとっても救いの手でしかないのだ。亡くなった父の遺した傾きかけの商店を買い取り、ファニーたち家族を養うために、結婚を申し出てくれたのだから。
(明日、きちんと謝らないと)
ファニーはひとつ息を吐き出すと、今夜は大人しく寝ることにした。気まずい思いをした後の切り替えの早さは、ファニーがこれまでの人生で身につけたものの一つだった。
夫が全て準備を整えてくれた新居はどこもかしこもぴかぴかで、ベッドも大きくふかふかしている。今夜からは、末の妹が甘えてファニーのベッドに入り込むこともない。
贅沢とはきっと、少しの寂しさを伴うものなのだ。早く慣れないと、と考えながらファニーは眠りに落ちていった。
翌朝の夫は、ファニーの失言など無かったかのように、まったく普通の顔をしていた。
ファニーがリビングに降りた頃にはすっかり身支度を整えて、朝食の準備をしていた。
促されるまま席につき、朝食を食べ始めてからファニーは恐る恐る口を開いた。
「あの……」
「どうしました?」
「今日、実家に戻ってもいいですか?」
夫のスプーンに乗っていたスープの具が、するりと皿に落ちた。
あっけに取られた目の前の顔を見て、ファニーは自分の言葉が誤解を招いていることに気づいた。
「あっ、違うんです! 少し、妹に話しておきたいことがあって……その、家を離れる前にあまり話せなかったものですから……」
ファニーはそう言い訳をして、魂の抜けたような顔をしている夫を前に朝食を済ませると、すぐに家を出た。
少し寂しげに見送ってくれた夫には罪悪感を覚えたが、気持ちを整理しないことには同じ家の中にいるのも落ち着かなかったのだ。
結婚の申し出を受けてから昨日に至るまでが短すぎた。
夫からの申し出があったとき、弟妹たちはそこまでお世話にならなくても、とファニーを止めた。
しかし、ただ父の遺した商店を買い取ってもらうだけでは、弟妹たちを十分な年齢まで学校に行かせ、食べさせてやることもできないことは明白だった。
住む家はあっても、ファニー一人で十分なお金を稼ぐことは難しかったのだ。
夫と結婚すれば、実家には家政婦をおいてもらえるほか、妹や弟たちが望めば大学まで援助してもらえると言われ、ファニーに結婚する以外の選択肢はなくなった。
結婚を承諾したときに改めて夫の年齢を聞いて驚いたくらいだ。相手はファニーより三歳も下だと言うのだから。
ややとうの立った──上の妹はこの言い方をひどく嫌っている──ファニーのような女性と、年下の男性が結婚することはそれなりに珍しい。
二人の年齢だけを聞けば、世間の人々は「ああ、きっと女性の家は資産家なんだな」とか「男性の家がかなり困窮していたに違いない」と好き勝手に想像するだろう。けれど蓋を開けて見れば、二人の立場は完全に逆である。
ファニーの家はこのままだと弟妹全員が高等学校を出られるかも危うい状況だったし、夫は暮らしに困るどころか業績が右肩上がりの実業家だった。
家の利害が一致したのでなければ、ファニーの容姿がとびきり優れているとか、相思相愛の恋愛結婚であるとかが次の候補にあがるだろう。しかし、それも違うのである。
ファニーは特に器量よしなわけではなく、十人とすれ違ったところで誰も振り返らず通り過ぎるだけの容姿だった。ファニー自身はそのことを引け目に感じたことはない。学校でも褒められた姿勢の良さと、あまり荒れたことのないきめ細やかな肌をひそかに自慢に思ってはいたが。
恋愛結婚というのもありえない話だった。ファニーは夫の名前を父の取引相手として知ってはいたが、顔を合わせたのは父の死後、夫がファニーたちを助ける手段として結婚を提案してきたときだ。
そこから今日まで、特段胸をときめかせるような出来事もなく、ファニーは願ってもない申し出の裏を疑いつつも、夫の手を取るほかなかった。
つまり、この結婚の理由が、ファニーにもよくわかっていないのである。
『努力はしていきます。あなたの妻として、あなたを愛せるように』
けれどファニーはそう言った。そう言ったからには、ファニーは本当に努力するのだ。
幸いファニーは、夫を愛してはいないけれど、苦手にも思っていなかった。
(今からでも、あの人を愛する努力をしていけば、いつか本当の夫婦になれるはず)
今はまだ、二人きりで同じ家の中で過ごすことにも慣れないけれど。
The First Night