98.エピローグ 最愛の花
シルヴィオさんと一緒にプレスターナに戻ってから、早いもので約一年が過ぎようとしている。
一年。言葉にすると長いようだけれど、日々は慌ただしく過ぎていって、気がついたら時間が経っていたというのが実感。
もう本当に、いろいろなことがあったから。
嬉しい日や楽しい日もあれば、辛い現実に眠れない夜を過ごしたことも。
乗り越えられたのは、晴れて「本物の婚約者」になったシルヴィオさんが常に傍で支え、ときには優しく――思い出すたび赤面してしまうくらい――甘やかしてくれたおかげだ。
何から話せばいいだろう?
まず、わたしは正式に聖女として認定され、プレスターナ王家と連携する立場となった。
「聖女様」。
その呼び方は、くすぐったいけど仕方ないと受け入れられる。
だけど誰が言い出したのか、「王国の花」と呼ばれるのは、いまだに慣れない。
「そう呼びたくなる人たちの気持ちも、よくわかりますよ」
「アリッサ様、どんどんお綺麗になられますものね」
ブルーノさんやエイダさんは笑うけれど、聖女だからって言いすぎ、盛りすぎです。恥ずかしい。
王都ブレストンでの聖女認定式も行わないわけにはいかなくて、これがなかなか大仕事だった。
人前に出るのは苦手だけど、結界修復や維持のための祈り、各種の儀式といったことは、慣れないなりに覚えがある。なんとかやれている、と思えるのは、付き人時代の経験あってこそ。
プレスターナ王家には、ひとつ我儘を言わせてもらった。
聖女としての務めは、きちんと果たす。そのかわり式典で各国の要人との面会をひととおり済ませたら、対外的な社交は最低限にして、なるべく以前と同じように暮らしたいと。
イルレーネ王女様はじめ王家の方々は、わたしの望みを快く受け入れてくれた。
リーンフェルト邸で暮らしながら、聖女としてのお勤めがない日は診療所の仕事を続けさせてもらっている。
念のため話しておくと、わたしが聖女に認定されたからといって、デニス先生が名医だという評判が覆ったりはしていない。当然だけどね。
「加護」が本格的に稼働しはじめたのは、ダルトアに連れ戻される直前くらいだったと思う。そもそもわたしを雇ってくれる前から、デニス先生は素晴らしいお医者さまなんだから。
診療所には今、デニス先生のもとで働きたいという人たちが続々と集まってきている。
おかげで人手不足は解消されつつあり、わたしは聖女と診療所の助手、ふたつの役目を両立できているのだ。
嬉しいのは、診療所の存在が広く知られ、デニス先生の考えに賛同する人たちが増えたこと。
その余波で、なんと、新たに孤児院をつくることができそう!
シルヴィオさんの亡き妹ソフィアさんの夢だったという、孤児院の設立。
今は、わたし自身の夢でもある。実現のために奔走する毎日は、忙しくも充実している。
プレスターナは豊作が続き、魔獣の出現もない。
したがってダルトアでの一件以来、ポンポンが竜に変化したことはない。
平和が続けばポンポンも、おちびさんのハリネズミのままでいられるのだ。毎日おいしい果物を食べて、好きなだけお昼寝して、みんなに可愛がられて幸せそう。
そしてプレスターナ王家は、イルレーネ様を梯として、いちど壊滅状態となったダルトア王国への援助を積極的に行っている。
ダルトアのダリウス殿下は、すっかり健康を取り戻したそうだ。高齢の父王様に代わって復興の先頭に立ち、国民からの支持を更に厚くしているという。
そのダルトアではイルレーネ様の人気が沸騰中で、ぜひダリウス殿下のお妃に! という声が高まっているのだとか。
果たして実現するだろうか。
国家間のことでもあるし、当人同士のお気持ちだってある。イルレーネ様はクロルヴァ王国の王子からも熱烈な求愛を受けているという噂だし。
ただ、彼女が以前にも増して美しくなっていることは誰の目にも明らかだと思う。
――わたしの元婚約者・第二王子ウィルヘルム殿下は、裁判を経て王位継承権を剥奪され、牢獄に幽閉の身となった。
たぶん一生、釈放されることはないだろう。
そして、リズライン。
彼女もまた裁判の末、辺境の修道院に送られた。
自由な行動は許されず、監視がつけられているという。
監視役となったのは、ダルトア騎士団のミュラーさん。
彼からは時々、リズラインの様子を知らせる手紙が届く。
地下牢に閉じ込められていたときに比べれば格段に良い環境の中、ちゃんと食事も提供されるし、安全で、人としての尊厳が保たれた生活ができているそうだ。
それを聞いて、少しだけ安心しているけれど。
修道院で、妹は一言も話さないという。
『それでも毎日、必ずお声をかけさせていただいています』。
ミュラーさんからの手紙に、そう書いてあるのを読んだときは涙が出そうになった。
気にかけてくれる人がいることが、どれだけ救いになるか。彼女も、いつか気づくと思う。
わたしも毎日、リズラインのことを考える。
だって、姉妹だから。
今でも憎まれているだろうと考えると、胸の奥が痛む。
許し合える日が来るのかどうかも、わからない。
それでも、前を向いて生きていくと決めた。
わたしはもう、ひとりぼっちじゃない。
――大切な人が、傍にいる。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦ ♦
メイヤー女史の手が、わたしの頬に刷毛で紅を薄く載せる。
「お支度が整いましたよ、アリッサ様」
鏡ごしに告げる顔は、今まで見たどの彼女より満足げな表情だ。
あらためて、鏡に映る自分の姿を見つめた。
そこに居るのは――純白の花嫁衣裳に身を包んだ、わたし。
ドレスはもちろんメイヤー夫人の作品。
月下雪の花弁をイメージした特注のレースをふんだんにあしらい、襟に大きなフリルが波打つデザインだ。
頭上にはダイヤモンドが煌めくティアラ。代々のリーンフェルト家の花嫁が結婚式で着用してきたものだという。
そう。
今日はシルヴィオさんとわたしの結婚式。
場所はリーンフェルト家の庭園。いわゆるガーデン・ウエディング。
ダルトアから戻ってすぐ、シルヴィオさんは式を挙げようと言ってくれた。
聖女認定式とか、国内の復興とかの頃合いをみながら調整を重ねて、今日ようやく実現する。
こんなに待ってくれたうえ、素敵な花嫁衣裳を用意してくれたシルヴィオさんには感謝しかない。
国王陛下から王都の大聖堂で挙式してはどうかという提案もあったけれど、シルヴィオさんと話し合い、丁重に辞退させていただいた。
大好きな場所で、大好きな人たちに囲まれて誓いを立てられたら、それでじゅうぶんだから。
「きゅー!」
着替えを待っていたポンポンが、嬉しそうに鳴きながら飛びついてくる。
わたしのドレスと同じ生地の白いリボンを首に巻いてもらってご機嫌なのだ。
ポンポンを抱き、メイヤー女史の手を借りながら、控室になっているリーンフェルト家の客間へと向かう。
集まっていた親しい人たちが、目を輝かせて出迎えてくれた。
「アリッサ様、とってもお美しいですわ! 早く旦那様にお見せしたいですわねっ」
ポンポンに負けないくらいはしゃいでいるのはエイダさん。
今日はいつものお仕着せでなく、淡い緑色のドレスに身を包んでいる。彼女には結婚式でヴェールを持ってもらうのだ。
「おめでとう、アリッサ。本当に……!」
「シュターデン先生、泣くのが早すぎません? せっかくのアリッサの花嫁姿が涙で見えないでしょう」
涙ぐむデニス先生の隣で、イルレーネ様が苦笑を浮かべる。
イルレーネ様の衣装も、やはり緑色のドレス。式では花嫁の友人として一緒に歩いてもらうことになっていた。
「アリッサ、かわいいー!」
頭にリボンをつけてもらったカティが、ぴょんぴょん跳ねて興奮している。
今日の結婚式には、診療所に集まる子供たちも参加してくれていた。
姉のルティは、ユストさんがゲストに振る舞うお料理の準備のお手伝い中。
ハンスさんやエルガド長官、ビアンキ商会のティーモさんたちも、庭園で待ってくれているはずだ。
「シルヴィオ坊ちゃまはどちらに?」
室内を見まわして、メイヤー女史が執事のブルーノさんに問いかける。
確かに、先に支度を終えているはずのシルヴィオさんの姿が見当たらない。
「旦那様は大切なご用事がございまして、少々はずされておいでです」
「まあ、こんな時に、いったいどんなご用事があるというんです?」
「こんな時だからこそさ。今に戻ってくるよ」
意味ありげに笑いながら答えたのは、プレスターナの王太子アレクサンダー殿下。シルヴィオさんの友人として立会人を務めるのは彼だ。
王太子殿下の言葉を裏付けるように、早足の靴音が廊下を近づいてくる。
続いて、シルヴィオさんが客間に現れた。
「すまない、遅くなった!」
その姿に、思わず見惚れてしまいそうになった。
礼装用の白い軍服。整えられた金色の髪が凛々しくて、いつも以上に素敵だ。
シルヴィオさんがわたしを見て、なぜか動きを止める。
「……アリッサ」
そう呼んだきり、言葉が続かない。
そんなシルヴィオさんを見て、メイヤー女史が片方の眉を上げ、にっと笑った。
「皆さま、ここは一旦、退出いたしましょうか」
「そうだな、それがいい」
賛同したアレクサンダー様が促し、みんなはぞろぞろと客間を出て行く。
イルレーネ様が、わたしの腕の中からポンポンを抱き上げた。
「ポンポン、こちらへ。式の間は私と一緒よ」
「きゅ」
「え? あの、皆さん……」
「アリッサ様、旦那様、お庭でお待ちしておりますわね!」
最後にエイダさんがウインクして姿を消し、部屋にはシルヴィオさんとわたしだけが残された。
そうか、みんな気をつかってくれたのね。
ポンポンまでも、やけに聞き分けがよかったのが、なんだか可笑しい。
シルヴィオさんがわたしに向き合う。
「……綺麗だ。とても」
そして、手に持ったものを面映そうに差し出した。
彼の手に握られていたのは、花束だった。
大輪の薔薇を中心に、色とりどりの花を白いリボンで束ねた可憐な花束だ。
「もしかしてこれ、シルヴィオさんが作ってくださったんですか?」
「ああ。思ったより難しいものなんだな……待たせて悪かった」
庭園に咲くお花を、シルヴィオさん自らが集めてくれたんだ。
慣れない手つきで花束を作る彼の姿を想像したら、熱いものがこみあげそうになる。
「少し不格好かもしれないが。どうか、受け取ってくれ」
「ありがとうございます」
みずみずしい香りを放つ花束を、大切に受け取る。
と、思ったら、強く抱きしめられた。
「し、シルヴィオさん!?」
「少しのあいだ、このままで。……嬉しい。やっときみを妻に迎えられる」
耳元でシルヴィオさんが囁く。
「愛してる、アリッサ。もう何処へも行かせないよ」
――愛してる。
彼からそう言われるたびに、少しずつ強くなれる気がする。
本当の婚約者として一緒にいられるようになってから、あらためて実感していることがある。それは、シルヴィオさんの優しさ。
聖女として活動することになって、今更ながら思い知った。聖女を妻にもつことは、生半可な覚悟でできることではないと。
それでもシルヴィオさんは、すべてを受け入れてくれた。彼の心は緑を育む大地のように広くて、あたたかい。
花束を傷めないよう気をつけながら、思い切って広い背中に手をまわし、抱擁に応えた。
「わたしも……愛してます」
シルヴィオさんが、驚いたように一度、体を離した。
澄んだ緑色の目で、まじまじとわたしを見つめる。
ああ、わたし、やっぱりこの人の瞳が好き。
「どうかしました?」
「初めてだな。きみのほうから『愛してる』って言ってくれたのは」
彼の言うとおり。
わたしからこの言葉を伝えたのは、今が初めて。
だって恥ずかしくて、ずっと言えなかったんだもの。
顔に急激に血が上るのがわかる。
思わず俯きそうになったわたしの両頬を、シルヴィオさんの大きな手が包んだ。
くちづけが降りてくる。
彼の唇が、ようやくわたしを解放したのは、繰り返される接吻に頭の芯が痺れてしまう直前だった。
お互いに息を整え、瞳を合わせる。
シルヴィオさんがわたしの手を取り、微笑んだ。
「おいで、アリッサ。俺の……最愛の花」
「はい。シルヴィオさん」
わたしの左手の薬指には、彼から贈られたエメラルドの指輪。
シルヴィオさんの薬指にも、同じ石の指輪が輝いている。わたしの手元にあるものと対になる品だ。
――これから先、どんなことがあっても。
彼と、彼の隣にいる自分を信じて歩いて行こう。
出会えた喜びを抱きしめて。
シルヴィオさんとふたり、愛という奇跡の花を、大切に育てながら。
…END
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