97.「帰ろう」
背後で、控えめな咳払いが聞こえた。
「少し、話してもいいかな?」
ハッと振り向く。
ダルトア王太子のダリウス殿下が、遠慮がちな微笑みを浮かべてわたしたちを見ていた。
「はっ、はい! 申しわけございません、王太子殿下!」
「そんなに慌てて離れなくていい。きみがリーンフェルト侯に攫われて行くことは、もう決定したようだから」
苦笑するダリウス殿下に、シルヴィオさんが頭を下げる。
「お許しいただけますか、王太子ダリウス殿下。彼女を我が妻とすることを」
「それがアリアテッサの望みならば、私の許可など要らぬだろう。彼女の資質を見抜くことができなかったのはダルトア王国として痛恨の過ちだった。聖女が幸せでいることが加護をより厚いものにするというのに、アリアテッサの守護聖獣の力までも抑え込んでしまっていたのは恥ずかしい限りだ」
ポンポンに視線を落とし、ダリウス殿下が言った。
振り返ってみれば、シルヴィオさんと出会ってから、わたしの周囲では不思議なことばかりが続いた。
日照り続きだったというプレスターナに雨が降り、土地が潤い、魔獣の出現が激減した。
見えない力で危険から守られたように思えた出来事も、何度もあった。
それも日を追うごとに——わたしの心の傷が癒されていくたびに。
実は『守護聖獣』だったポンポンが飛べるようになり、ついには竜に変化したのも、わたしが人に心を開くことができるようになったから、なのかもしれない。
ダリウス殿下がわたしの前へと歩み寄る。そして、片手を胸に当て、頭を垂れた。
「聖女アリアテッサ、どうかこれまでの非礼を許してほしい。長いあいだ辛い思いをさせた」
「お、お顔を上げてください、王太子殿下!」
「いいや、弟に代わって償いをさせてくれ。望みがあれば何なりと」
「望みなんて……」
ありませんと言いかけて、言葉をのみこむ。
自分も膝を折ってダリウス殿下と目線の高さを合わせ、わたしは言った。
「リズラインの……妹の、命だけは助けていただけますか?」
王太子殿下の顔に一瞬だけ、ひとりの青年としての表情が過った。悔恨のような、安堵のような。
無理もないと思う。彼にとっても、リズラインは一度は妃にと決めた相手だ。
「わかった。約束する」
「ありがとうございます、王太子殿下」
誰も愛したことがないと言ったリズライン。
願わくば、いつか彼女が愛を知ることができますように。どんな形でもいいから。
「幸せに、アリアテッサ。きみが温かく安らかな日々を送ることが、この世界の安寧へとつながるはずだ。そして我がダルトア王国はプレスターナ王国への連帯と惜しみない支援を約束しよう」
王太子殿下がシルヴィオさんへと視線を向ける。
「リーンフェルト侯爵、アリアテッサを頼んだぞ。彼女こそ真の聖女だ」
「はい、命を懸けて」
「私からもお礼を、王太子ダリウス殿下。聖女をお預かりするプレスターナも、ダルトアの復興をお手伝いすることをお約束いたしますわ! そういうことですわよね?」
シルヴィオさんの肩ごしに、ぴょこっと顔を覗かせたイルレーネ様が言う。
王太子殿下の顔が綻んだ。
「プレスターナのイルレーネ姫か。噂通り聡明な方のようだ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ。今後お会いする機会が増えそうですね」
「ええ。どうぞお手柔らかに」
ダリウス殿下がイルレーネ様の手を取り、イルレーネ様は淑女の礼で応えた。
瓦礫の上の光景なのに、ふたりの優雅な仕草は宮殿の舞踏会の一場面のように鮮やかだ。
「案外、お二人は気が合うのかもしれないわね、ポンポ……きゃ!?」
ポンポンに話しかける台詞が途切れたのは、急にシルヴィオさんに手を握られたせいだ。
「し、シルヴィオさんっ?」
「こっちを見て」
少し拗ねたような口調で言う。どこか悪戯っぽくて、なんだか可愛い。
見つめ返すのは、まだ少し恥ずかしいけど。
「み、見てます……いま」
「これからもだ。俺だけを見て、アリッサ……いや、アリアテッサ、だったね」
面映そうに言う彼の手を、思い切って握り返す。
温かくて、大きな手。
「……アリッサって、呼んでください」
「いいのか?」
「はい。本当の名前を知ってもらえて嬉しいですけど……今までどおりに呼んでほしい、です」
今までもこれからも、わたしはわたし、アリアテッサ。本当の名前が嫌いになったわけじゃない。
だけど、アリッサと呼ばれるようになってから、わたしは自分を好きになることを覚えた。
自分のことを愛せなくて、信じられなかったときは、誰かを好きになるのが怖かった。
変わりたい。そして思いきりシルヴィオさんを好きになりたい。
見下ろす彼が微笑んだ。
「じゃあ……アリッサ。帰ろう。みんなも待ってる」
「……はい」
片手にシルヴィオさんの温もり、片手にポンポンの重みを感じながら、頷いた。
今日このときに至るまでの出来事が、走馬灯のように胸に甦る。
つらいことも多かった。
たくさん裏切られてきた。
これからだって、大変なことは多いだろう。
付き人でなく、聖女として生きる日々が待っている。どんな人生になるのか想像もつかない。
でも、シルヴィオさんがいてくれる。ポンポンもいる。
きっと、頑張れる。
(帰ろう。この人の隣に)
こんなに幸せな熱を感じる瞬間は、生まれて初めてだった。




