96.偽装婚約の終わり
立ち尽くすわたしの肩に、温かい重みが触れた。
見上げると、シルヴィオさんがわたしの肩に手を置き、穏やかな瞳で見つめていた。
「きみはよくやったよ、アリッサ。よく、耐えた」
「……シルヴィオさん……」
どうして。いつ知ったの。わたしの過去を。
問いかける声が詰まる。
「シルヴィオは、前から知っていたのよ。アリッサの本当の名前も、ダルトアの聖女の双子の姉だということもね」
横から答えたのはイルレーネ様だった。
「前から……?」
シルヴィオさんが静かに頷いた。
「ああ。黙っていて悪かった」
「シルヴィオの名誉のために話しておくけれど、彼はアリッサの過去を探ったりはしなかった。あなたが話してくれるまで待つつもりだったそうよ」
イルレーネ様が補足する。
「アリッサの素性を調べて彼に伝えたのは私なの。プレスターナ王家の探索力をもってしても、さすがに聖女ということまではわからなかったけれど……しかもポンポンが竜だった、ですって!? ああ、驚いた!」
わざと戯けた口調で言いながら、ポンポンの頭を撫でる。
ポンポンが嬉しそうに「きゅ」と鳴いた。
「シルヴィオも、アリッサが聖女だなんて思いもしなかったはずよ。それでも彼は、あなたと一緒にいた。この意味がわかる?」
「イルレーネ様……」
「ごめんなさい。勝手に身辺調査をしたこと、それを隠していたこと。図々しいのは承知の上で、許してほしいって心から思ってる。アリッサが許してくれたみたいに」
「許したって、何をです?」
「ほら、初めて会ったとき。私も似たようなことしたじゃない、ね?」
少しばつが悪そうに微笑むイルレーネ様。
そういえば彼女は最初、『バウマン男爵令嬢』と名乗ってわたしの前に現れたのだった。
「あのーすみません! さっきから僕だけ話が見えてないみたいなんですけど、今ってどういう状況なんですかね?」
ハンスさんが屈託なく会話に入ってくる。
「もう! あなたには私から説明する!」
「あっいてて、お放しください王女殿下ぁ!」
イルレーネ様がハンスさんの耳をつまんで引きずって行った。
王女様の気遣いが痛くて、目線を地面に落とす。
「わたし……わたしは」
この瞬間が、怖かった。ずっと怯えていた。
本当のわたしが何者か、暴かれる日が来ること。
親からも顧みられず、妹に裏切られ、婚約者に捨てられた女。
死ぬこともできず、嘘をついてまで生きようとした女だと知られることが。
なにより一番つらくて、恥ずかしいのは。
偽りの自分に縋ってシルヴィオさんの隣にいようとした自分を曝け出すことだ。
彼は何も言わず、わたしを信じてくれたのに——。
首に掛けていたネックレスを外し、チェーンからエメラルドの指輪を抜き取った。
差し出した指輪を、シルヴィオさんが無言で受け取る。
彼の顔を見るのがつらい。
俯いたまま、言葉を振り絞った。
「これ。お返しします」
「……アリッサ」
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。わたし、妹の……聖女の付き人でした。故郷を追放された罪人だっていうことも隠していました。本当の名前はアリア……」
「名前なんか、どうでもいい」
シルヴィオさんが遮った。
「確かにきみは、全てを語ってくれなかったね。でも、それは人を利用するためじゃないだろう? そしてずっと自分の嘘に苦しんでいた。罰が必要だというなら、それでじゅうぶんだ」
「……シルヴィオさん……」
シルヴィオさんが、まっすぐにわたしを見つめる。
月夜の森で出会ったあの日から、ずっと変わらない真摯な瞳。
「愛している。きみを」
「……え?」
いま、彼、なんて言ったの?
「きみは俺を暗闇から救ってくれた。聖女としてじゃない、そのままのきみが俺に光をくれたんだ。一緒にプレスターナへ帰ろう」
「で、でも……シルヴィオさんが想っていらっしゃるのはイルレーネ様でしょう!?」
今度はシルヴィオさんが、心底驚いたような表情をつくった。
「待ってくれ。どうして……いつからそんなふうに考えていたんだ?」
「だって、偽装婚約は一年間の約束で……イルレーネ様が留学から戻られるまでのカムフラージュだったのかと……」
「何を……! いや、そうか、そうだったのか。だから急に屋敷を出るなんて言い出したんだな」
額に手をあて、シルヴィオさんが天を仰ぐ。
「誤解をさせたなら悪かった。一年と言ったのは、期限を決めたほうが断られにくいと思ったからだ。きみはとても遠慮深いし、何より婚約している間は自由も縛ることになるから」
「わたしのことを考えてくださったんですか……?」
「すぐに後悔したよ。もっと長い期間を設定しておけばよかったと」
照れたように微笑んでから、咳払い。
そして表情を引き締める。
「確かにイルレーネ様は素晴らしい女性だ。大切な友人だし、尊敬している。でも、俺が好きなのはきみなんだ」
シルヴィオさんが跪いた。
わたしの手を取り、口づける。
「偽装婚約は終わりにしよう。俺の正式な婚約者——いや、妻になってほしい」
「シルヴィオさん……」
反対側の腕で抱いていたポンポンが、突然飛び出した。
わたしの片手にとびうつり、
「きゅ!」
まるで返事をするように、小さな前足でシルヴィオさんの指を掴む。
シルヴィオさんの頬が緩んだ。
「守護聖獣殿のお許しは出たようだ。君の返事は?」
「……わたしで、いいんですか?」
「ああ。きみがいい」
『きみがいい』。
ずっと欲しかった言葉。
わたしのままで、彼のそばにいていいというのなら――それ以上に幸せなことって、あるだろうか?
胸の底に渦巻いていた不安が、一気に解けて溢れだす。
こみ上げる想いで、視界が滲む。
言葉になんか、できなかった。
ただ頷くのが、せいいっぱいで。
シルヴィオさんが微笑み、立ち上がる。
そしてエメラルドの指輪を、わたしの左手の薬指にそっと嵌めた。
「この指輪は、きみが持っていてくれ。これからも、ずっと」
そう言って、涙を拭ってくれる。
彼の声も指も、優しくて、とても温かかった。




