92.信じること
(自分を、信じる……)
思い返せば。
故郷ダルトアで過ごしていた頃、自分を信じたことなんて一度だってあっただろうか。
美しく自信に溢れたリズラインの影で、母や妹や、冷たい周囲に怯えてばかりで。
何かできることがあるなんて……もっと言えば、生きていていいとさえ、思えなかった。
でも、今。
わたしを見るミュラーさんや騎士団の人たち。
彼らの眼差しに、プレスターナで出会った人々の面影が重なる。
デニス先生。診療所の患者さんや子供たち。
エイダさん、ブルーノさん、ユストさん、イルレーネ様。
そして——シルヴィオさん。
みんな、アリッサという人間を受け入れて、信頼してくれた。
今なら思える。あの人たちが信じてくれた「わたし」を、わたし自身も信じてみようと。
「……わかったわ。リズライン」
小さく頷き、怪我をした騎士の肩に掌を当てた。
肩の傷が、みるみるふさがっていく。
みんなが目を瞠った。
「……これは……!?」
「き、奇蹟だ!」
「聖女様の奇蹟だ!」
どよめく騎士たちの頬を打つようにミュラーさんが叫んだ。
「直上警戒せよ!」
まさに真上から、すごい速さで有翼の魔物が垂直降下してくる。
騎士たちが剣を突き上げ、空中に稲妻の壁を作ろうとした。それを容易く突き破って、無数の牙を剝きだしにした口が迫る。
目を逸らさずに右手をかざした。
次の瞬間、まるで透明な半球に激突したように魔獣の体がひしゃげた。
土煙をたてて、どうと地面に落ちる。
「ひ、ひぃっ!?」
頭上から降ってきた魔獣の体にあやうく押しつぶされそうになったウィルヘルム殿下が、腰を抜かしてへたりこんだ。
「アリアテッサ様、戦闘魔術の強化を!?」
「そう、みたいです」
ミュラーさんの問いかけに呆然と答える。
「なんだ、今のは……!?」
「アリアテッサ様、なんというお力だ!」
騎士たちが歓声をあげる。
戦闘魔術の強化。
聖女だけが可能な、魔法騎士の能力のサポート。
しかも、今まで目にしたどの状況より大きな力となって反映されている。
(これができるなら……!)
リズラインのほうを見る。
目を合わせ、妹も頷いた。
「ダルトア全土の結界を修復して。今のあなたなら、できるわ」
「うん。やってみる」
跪き、地面に両手をついた。
目をとじて、唱える。聖女だけが天上へ届けることができる、祈りの言葉を。
『神様。どうか、ふたたびのご加護を』
一瞬の静寂が周囲を包んだ。
視界に入るすべてが動きを止める。
空に飛ぶ魔物も、宙を舞う埃も、風さえも。
目には見えなくても、清涼な空気が地平まで満ちていくのがわかる。
「……結界が、戻ったわ」
呟いたのはリズラインだった。その瞳が潤んでる。
いまや偽の聖女と成り果てた彼女だけど、やっぱり、わたしの双子の妹。同じものを感じ、震えているのがわかった。
「結界が修復した!?」
「せ……聖女アリアテッサ様! 万歳!!」
沸き立つ部下たちに、ミュラーさんが冷静に命令をくだす。
「これで新たな魔獣の流入はない。結界内部の魔獣を殲滅せよ! 皆を救うのだ」
「了解!」
騎士たちが応える。
大音量の呻き声が響いた。
空中で多くの魔物に喰らいつかれているポンポンが、次第に高度を下げている。
「アリアテッサ様の竜を援護しろ!」
「魔獣を撃ち落とせ!」
騎士たちが一斉に弓を引いた。
弓といっても普通の武器ではない。彼らはダルトア王国きっての魔法騎士たちだ。
放たれた矢が、空中で炎の礫に変わる。
それ自体が意志をもつ生命体のように空を飛び、矢は魔獣の黒い体に突き刺さった。
貫かれた魔獣が大きく口を開け、叫んだ。
ポンポンから離れ、燃えながら落下していく。
「よし、効くぞ!」
「撃て! 撃て!!」
それでも、すべての魔獣を振り払うには程遠く思えた。
ポンポンの赤い鱗が血に濡れて黒光りしている。いくら聖獣・竜でも、これ以上は致命傷になってしまう。
「ポンポン!」
呼びかけが聞こえたのか、ポンポンがまた大きく鳴いた。
どうしたら助けてあげられるの?
「ポンポン、がんばって!」
魔物の死骸を避けて一歩を踏み出したところで、
「アリアテッサ様、危ない!」
ミュラーさんの声が聞こえて、振り向いた。
眼前に、何百本もの巨大な牙が迫っていた。
地面に落ちて絶命したと思っていた魔獣の一匹が、まだ生きていたのだ。
わたしの身長より、ずっと大きな口を開けて飛びかかってくる魔物の映像が視界を埋める。
実際には一秒にも満たないはずの時間なのに、悪夢みたいにゆっくりと。
(死ぬんだ。ここで)
――結局、誰も助けられなかった。
わたしのために戦っているポンポンも。
必死で守ってくれるミュラーさんたちも。
何よりも、誰よりも。
もう一度。もう一度だけでいいから。
(あのひとに、会いたかった……)
虚しさの中で、諦めかけたとき。
胸のあたりが、カッと熱くなった。
次の瞬間、稲妻が閃いた。
それも、天からではなく、大地から突き上げるように。
轟音と閃光の中で、魔物の体が霧散する……って、え!?
(何が、起きたの!?)
もういちど、胸もとに強烈な熱を感じた。ペンダントにしている指輪が肌に当たっている部分だ。
慌てて鎖を探り、シルヴィオさんの指輪を引き出す。
途端に、中央のエメラルドが目を射るほどの輝きを放った。
清冽で眩い、若葉色の光。
「援軍が来たぞ!」
誰かの叫ぶ声に、我に返る。
――気づかなかった。
馬の蹄が地面を蹴る音が、すぐそばまで近づいている。
目を向けた先に、見覚えのある国旗がはためいていた。
ダルトアの国旗とは違う、太陽と鷹の意匠。
(あれは……プレスターナの国旗!)
風が土埃を巻き上げた。
開けた視界に、白い騎士服と銀の鎧に身を包んだ騎士の一団が現れる。
先頭の馬上にいる人物と目が合った。
指揮官であることを示すマントを纏い、金色の髪を風に靡かせ、驚いたようにこちらを見ている男性。
「……!」
心臓が、大きく鳴った。
心から会いたいと願った人が、そこにいたから。




