9.リーンフェルト邸(2)
「こ、これ以上ご迷惑をおかけしては心苦しいです!」
「迷惑なんかじゃない。部屋ならいいだけ余っている。第一、ここで放り出したんじゃ、きみを街まで連れてきた意味がない」
「でも、シルヴィオさんのご家族にも申し訳が……」
「家族はいない」
「え?」
「リーンフェルト家は今は俺ひとりだ。まあ、このブルーノは家族みたいなものだけどな」
「旦那様……何よりのお言葉です」
ブルーノさんが目を潤ませる。
リーンフェルト。
やっぱり、その家名には聞き覚えがある気がした。
こんな大きなお屋敷をもっているなんて、由緒ある貴族に違いない。
それなのに、シルヴィオさんのほかに家族は誰もいないというの?
「でも……」
腕に抱いた布袋を見やる。
眠りから醒めたポンポンが、袋の口から顔を出したところだった。
気持ち悪いハリネズミもどき、と言われるポンポン。
さすがのシルヴィオさんも、この子を屋敷に連れ込むのは嫌がるんじゃ……?
ところが、
「もちろん、きみのハリネズミ……ポンポンだったか、そいつも一緒でいい。お前も温かい部屋で休みたいだろ?」
こともなげに言って、シルヴィオさんはポンポンの頭を指で撫でた。
ポンポンも、されるがままになっている。
「ポンポン……」
「どうした?」
「いえ、ちょっとびっくりして……ポンポンがおとなしく撫でられてるなんて。これまで、わたし以外の誰にも懐かなかったのに」
「動物は素直だ。アリッサ、きみは少し人に頼ることを覚えた方がいいな」
優しい口調で言われた言葉が、思いがけず胸に刺さった。
(いわれてみれば、誰かを頼るっていう発想、なかった……)
わたしの沈黙を、シルヴィオさんは違う意味にとったらしい。
明らかに慌てた様子で、ポンポンを撫でていた手を引っ込めた。
「ああ、すまない。偉そうなことを言った。気を悪くしないでほしい」
「旦那様の仰るとおりです、アリッサ様」
横からブルーノさんも加勢する。
「お部屋はすぐに整えます。ご心配なさいますな、まさか男所帯というわけではありません。女性の使用人も大勢おりますし、私の娘も……」
「旦那様! お早く中へお入りくださいませ」
ブルーノさんの声に被せて、女性の声がした。
見ると、屋敷の扉が開き、背の高い女性が早足で近づいてくるところだった。
わたしより少し年上に見える。
露出の少ない黒のワンピースに、高い位置で結い上げたヘアスタイル。白いレースのヘッドドレスがよく似合っている。
「ほら、お父様も! いつまで外にいらっしゃるおつもりですの? スープが冷めるとユストが案じておりますわ……あっ、あらっ? 申しわけございません、お客様でしたの!?」
わたしに気づき、その人はハッとした表情になった。
失礼いたしました、と頭を下げる彼女の横で、ブルーノさんがため息をつく。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたが、私の娘のエイダです。このお屋敷にお仕えさせていただいておりまして。エイダ、こちらはアリッサ様。魔獣に遭遇したところを旦那様がお助けになったそうだ」
「エイダでございます。ようこそ、アリッサお嬢様」
エイダさんというらしいその女性は、そう言ってわたしをまじまじと見た。
そして微笑み、もういちど頭を下げる。
「きっと大変な目に遭われたのですね。どうぞ、ごゆるりとお休みになってくださいませ」
「は……はい」
「さあ、どうぞ中へ! お夜食のスープが温まっておりますよ。美味しいものは美味しいうちに!」
わたしの腕を引くエイダさん。
隣でブルーノさんも微笑んだ。
「アリッサ様にも是非召し上がっていただかなくては。それに椅子も、たくさん余ってございます。旦那様はいつもお一人で寂しくお食事をされておりますので」
「別に寂しくはないぞ」
不満そうに口を挟むシルヴィオさんを無視して、エイダさんが大きく頷く。
「そうそう。それに食べどきを逃すとユストが怒りながら泣きます。あ、ユストは料理人ですわ、このお屋敷の」
「旦那様もたいがい難しいお方ですが、ユストも負けておりませんので」
「エイダ! ブルーノ!」
「私どもはただ、旦那様がお優しい方というお話をしているのですが」
「どこがだ!?」
ブルーノさんとエイダさんが登場してから、シルヴィオさんの印象がどんどん変わっていく。
凛とした騎士の顔から、使用人たちに愛されている主人の表情へ。
その変化が可笑しくて、自分でも知らないうちに、くすっと笑い声を漏らしていた。
慌てて飲み込んだけれど、シルヴィオさんには聞こえてしまったらしい。
こちらを見下ろして、彼は、ほっと一つ息を吐いた。
「……やっと笑ったな」
咄嗟に言葉が出なかった。
(わたし、いま、笑った……?)
布袋から上半身を出したポンポンが、きゅう、と嬉しそうに鳴いた。
「わたくし、急いで準備をいたしますわねっ」
さっそくエイダさんが駆け出し、ブルーノさんも一礼して続く。
シルヴィオさんが手を差し出した。
「おいで、アリッサ」
「……あの」
「ん?」
「どうして、何も聞かないんですか?」
とうとう、尋ねた。
聞かれたって、答える覚悟もないくせに。
「名前なら、もう聞いたよ」
シルヴィオさんが言う。その表情は、静かなまま。
「俺が怖い?」
逆に、問いかけられた。
少しだけ迷ってから、答える。
「いいえ」
今日まで。
信じていた幾人もの人に裏切られた。
命を奪われそうにもなった。
人は怖いと、思い知らされたはずなのに。
(わたし、この人が怖くない)
だからといって、自分から彼の手を取るのは勇気が必要だった。
何しろわたしは、婚約者だったウィルヘルム殿下とさえ、ほとんど手を繋いだことがなかったから。
「あっ」
急にポンポンが布袋から飛び出した。
ぴょんと跳ねてシルヴィオさんの腕に載り、彼の肩へと駆け上がる。
シルヴィオさんが声を上げて笑った。
「やっぱりお前は正直者みたいだな、ポンポン? よし、まずは食事だ。行こう、アリッサ」
「はい」
迎えにきたシルヴィオさんの手に、わたしは抵抗しなかった。
大きな掌。とても温かい。
彼の肩から再び跳ねて、ポンポンが戻ってくる。
こちらを見上げる小さな瞳は、なんだか嬉しそうだった。
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